浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



断腸亭、京都へ その10

f:id:dancyotei:20181210102352g:plain
さて。
京都北白川の、曼殊院門跡の庭、いかがであったろうか。
紅葉はかろうじで間に合って、素晴らしいものを見ることが
できた。人も少なかったのもありがたかった。

根本的にわからないのだが、庭というのは当初設計当時の
デザインコンセプトがあって、その後、300年、400年の間の
庭師の管理とがあるわけだが、その関係はどうなっているのか、
ということである。

江戸の200年があって、その後の明治以降の百数十年とあるが
このお寺そのものの置かれている立場というのか、環境というのも
時々で変わってきたはずである。

桂離宮修学院離宮曼殊院門跡、ほぼ同時期。
いずれも皇室のもの。
後述しようと思うが、この時期の皇室には幕府から
お金が出ている。でなければ、二つの離宮にしても
できようはずがない。
そして、幕府の作事奉行の小堀遠州が関わっている。
(または、その後継者。)

当時最新流行のものを、お金も十分にかけられて造られていると
いってよいと思われる。

その後、この門跡寺院と庭の管理はどうであったのか。
江戸期、一般には皇室、朝廷はお金がなかったというが。
400年弱の間、どんな歴史を歩んできたのか。
そして、その中でどんな管理をされてきたのか。

大書院、小書院などの建物は江戸初期に建てられた形が
ほぼそのまま残っており、庭もそうなのではないか、と
考えられているようではある。
庭というのはむろんのこと生き物である。
この美しさを維持するには、毎日毎日、庭師が手入れを
してきたし、今もしている。
こんな環境があるのは、京都以外では考えられまい。
京都に庭師がどのくらいいるのか、わからないが。

まあ、そんなことを考えた。

さてさて。
庭のことはそんなことなのだが、建物、宝物には
まったく触れていない。
今回、見るには見たが、時間はかけないことにした。
大書院、小書院などは重文。
宮元先生によれば、設計的には遠近法や黄金分割を生かした
ヨーロッパの影響が色濃くあって貴重なもののようだが、
部屋の内部などは撮影禁止であるし、省いた。
また、曼殊院本という11世紀(平安末)の古今和歌集
ほんものもあった。
これらはいつの日かまた。

曼殊院の通用玄関に出てくると、なんのことはない雨は
既にあがっていた。

だが、この山から徒歩で降りていく気力はもはやなくなった。

次の目的地は、東山南禅寺の金地院。
ここから遥か南の方。

京都のお寺というのは、一台二台、タクシーがいる。
えーい、乗ってしまえ。

というので、タクシーで曼殊院道から白川通に出て南下。
途中から左、東の山側に入り、南禅寺到着。

金地院は南禅寺塔頭になるのだが、三門に向かって
手前右の方。

門。

入って右側に拝観の受付。
基本は、遠州作の庭なのだが、重文の方丈と茶室を説明付きで
見ませんか?とのこと。
追加料金を払ってお願いする。

20分後ということなので、その間に東照宮を見ることにする。

さて、ここ金地院、とはなにか。
前から書いてきているが、金地院崇伝、以心崇伝ともいう。
この人が住した、臨済宗南禅寺塔頭
まあ、崇伝の京都での住まいであったわけである。

崇伝は永禄12年(1569年)生まれ、寛永10年(1633年)65歳で没。
安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の坊さんである。
生まれは当時滅亡寸前の室町幕府重心の一色氏。
足利義昭追放後、南禅寺で出家。その後、順調に出世したといって
よいのであろう、37歳で鎌倉五山第一位の建長寺住職、
同年臨済宗五山派の最高位・南禅寺270世住職となり
官寺の頂点に立ち、後陽成天皇から紫衣を賜る。(wiki
ここから家康に招かれ幕政に参加。
関わったものは枚挙にいとまがないが、キリスト教の禁止、
寺院諸法度武家諸法度禁中並公家諸法度の制定に関わり
また、先に書いたが、豊臣家滅亡に結び付けた大坂の陣
端緒になった方広寺の鐘銘事件に関わっているとも
いわれている。(これは否定説も出ているよう。)
家康政権の寺社関係、外交担当大臣といった役割で
黒衣の宰相と呼ばれ、絶大な権力を持っていた坊さんである。

その崇伝によって金地院がこの地に移されたのが慶長10年(1605年)。
方丈は寛永4年(1627年)建立(重文)、茶室の八窓席(重文)
遠州作、が寛永5年(1628年)までには完成していたと考えられて
いるよう。
そして、先に書いたように境内には東照宮がある。
これも遠州作、重文。東照宮はむろんのこと徳川家康
東照神君家康公を祀る神社。社殿は寛永5年(1628年)に造営、重文。
京都で東照宮とは奇異にも思われようが、家康自らが遺言して
建てられた三つの東照宮、すなわち、静岡の久能山、日光と、
もう一つはここであったのである。
これには大きな意味があると、宮元先生は書かれている。

その東照宮から見に行くが、入ってすぐのところの池。

右奥が方丈。東照宮は左。
この池も遠州作であろうか。

崇伝の当時の地位と幕府作事のトップ小堀遠州との関係を考えると、
ここ、金地院は遠州色が濃密に出ていて然るべきであろう。
遠州作ではなく明確に史料にも残っている数少ないところである。

手入れの問題かもしれぬが、うっそうとした木々。
わからぬが、なんとなくそんな気もしてくる。

左側の小道を入っていく。

ここはきれい。手入れが行き届いているように見える。

木戸を入ると右に折れ、思いがけず、細い参道。

こんなものであるか。
あえて、なのか。

現れた、拝殿。

これが京都金地院東照宮である。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

曼殊院門跡

 

 

金地院
京都市左京区南禅寺福地町86-12

 

 

 

 

 

断腸亭、京都へ その9

f:id:dancyotei:20181210102352g:plain
断腸亭の京都。

修学院離宮にも近い北白川の曼殊院門跡。

もちろん、庭。

ここは池はなく、石庭の、いわゆる枯山水

江戸期に入っており、遠州以後のものであることを
また、頭に置いておきたい。(ただ遠州没後で関与の
可能性はないよう。伝遠州でもあったようだが。)

庭はこの写真の右、大書院と左の小書院という主たる
二つの棟に面して庭がある。
中に二つの植え込みがあり、右の松のある方が鶴島で、
左が亀島。

鶴島の松は五葉松。
一株から垂直に立っている幹と横に出ている幹があって
これを鶴に見立てている。

こういう庭の場合どこの場所からどのくらいの高さの視点で
見るのか、ということが大きな問題である。

東寺の庭のところでも書いたが、どこでどのアングルで写真を
撮ると一番きれいかというのを探したが、ここでもそれを
探してみた。

右側の大書院の縁先から立って松を見る。

右側の横に張り出した幹中心に撮ってみた。
このアングルも、ありなのだが
近いので松全体の様子はわからない。

さらに松の根本付近、近い位置に立って、撮ってみた。

まず、この五葉松は樹齢400年という。
この庭ができてから350年ほど。その当時と同じ松なのか。
途中で代替わりをしているのか。
わからぬが、松の樹皮の表情が実によい。
そして、いくつか置かれた根本の石の表情。
手前の丸く刈り込まれているのはやはりつつじのよう。
これもリズム感を生んでいる。
つつじの花が咲いているとまた違っていよう。

もう一つ、近寄らないと気が付かないのだが、
おわかりになろうか、半分隠れている灯篭。
これが松の木の根本に寄り添うようにちょこんと
顔を出している。
全体像がわからないのだが、この形の灯篭はキリシタン
灯篭といって特殊なものらしい。
中でもこれは曼殊院型といわれて、今も灯篭の一つの類型に
なっているよう。キリシタン灯篭は桂離宮などにもあり、
いわゆる遠州好みの灯篭といい、名前の通り、ヨーロッパ文化の
影響があるものらしい。

とにもかくにも、この場所のこのアングルだけでも実に
美しく絵になるように計算されているように見える。

松の左側。

撮るには撮ったが、鶴島と亀島の間で、このアングルはイマイチ。
やっぱりどこを撮ってもよいわけでないのである。

亀島側。

真横というのであろうか。
これは絵になる。
ちょっと勾玉型にも見える。

小書院とともに手前の白砂の文様が入るように撮ってみた。

勾玉の凹部分に合わせて小書院側に接して別の植え込みが
造られている。
ちなみに、アングルは縁側に座って撮っている。
このアングルわるくはないが、最良ではないよう。

角にきて、文様から。

こちらの方がよい表情かな。
この場所のこのアングルだとわかるのだが、この画面の右奥に
立った石組みが見える。これは滝を模しているらしく、白砂は
この滝から流れ出ているという見立てになっているよう。

小書院側の植え込みにはこんな手水鉢が隠れていた。

雨が降っているので水面に表情が出ている。
ちょっと変わった形ではないか。
梟(ふくろう)の彫刻が施されており、梟の手水鉢というよう。

小書院の裏側にも庭。

紅葉はきれいだが、こちらの手入れはメインの庭よりも
力が入っていないのか、こういうものなのか、
イマイチに見えるが。どうであろうか。

さらに奥には八窓軒茶室という茶室があってその前の庭。

ここもなかなかよい。

黒っぽい細い竹がシブイ。

合わせて茶室の庭らしい設(しつら)えといってよいのか。

視線を上に上げてみた。

これもよい。

さて。
もう一か所、建物の間の坪庭。
これがまた、秀逸ではないか。

手水鉢、竹の柱、白砂の文様、苔、石、散り残った小さな紅葉、
そして、灯篭。
テキトウのようにも見えるが、むろんそんなことはない
のであろう。テキトウを計算して造っているというのか。
毎日、毎日、庭師が文様をつけるなど、手入れは欠かさない
のであろう。小さな紅葉もまるで盆栽のよう。

そして、この灯篭、渋い。渋すぎるではないか。
大きさ、形。このセンス、で、ある。
どういう発注をして、こういう灯篭ができるのか。

別のアングル。

外の紅葉も入れてみた。
これもまた、よいではないか。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

曼殊院門跡

 

 

 

断腸亭、京都へ その8

f:id:dancyotei:20181210102352g:plain
引き続き、断腸亭の京都。

大徳寺の孤篷庵にふられ、大徳寺門前まで出てきた。
門前の通りに、大徳寺納豆の店があったりする。

バス通りまで出てくる。
大徳寺前のバス停。

外国人が一杯。
これ、ニュースでもやっていた。
外国人などの観光客が京都の路線バスに集中、混雑がひどい、と。
原因がわかった。

スマホなどのグーグルマップ、または、乗換案内の類である。
私もこれを利用していたのだが、京都の場合、リコメンドルートに
バスが出てくる、のである。

混雑に拍車をかけているのは、検索して出てきたバスを
頑なに待ってしまう、ということではなかろうか。

大きな通りにはどの都市でもそうだろうが、別の行き先、
あるいは同じ行先でも、まわり方がちょっと違う別系統が
同じ通りを走っていることがよくある。つまり、ある程度
複数乗れるバスがある場合がある。その上、検索した時刻によっては
本数の少ない系統が出てきてしまう。
その時点ではすぐにくるはずであったものである。
しかし、バスは必ずしも定刻通りにはこない。

おわかりになろうか。実際に私も経験したことである。
検索してリコメンドされたバスがこないので、
よくよく路線図と時刻表を見てみて、気が付いたのである。
外国人はすぐには気が付かないかもしれぬ。

京都の場合、こんな状況なので、徒歩と電車、地下鉄、
さらに場合によっては、タクシーを使うことも考えた方が
よさそうである。

と、そんなわけで、大徳寺前から北大路ターミナル。
北大路ターミナルから、北白川、一条寺清水町まで。

どこを目指したのかといえば、北白川の曼殊院門跡である。
修学院離宮も近いところ。

バス停を降りて、昼飯。
降りたところにたまたまあった、ラーメンや。

[魁力屋(かいりきや)]。
京都のチェーンのようだが、ここが本店。
東京にも進出している。

京都は実のところ、ラーメン食文化の街。
[天下一品]は東京でも既に定番だろうし、
[よってこや]なども五反田にあったのでよく
寄っていた。

さて、ここはどんなものか。
特製醤油ラーメンの焼きめし定食。
いわゆる半チャンラーメンを頼んだ。

ラーメン。

まず、背脂が目を引く。
チャーシュー、青ねぎ(九条ねぎ?)。
スープの色は濃い目であろう。

食べてみると、なるほど京都らしい。
スープのしょうゆは、濃いが気持ち甘め。
背脂は見た目ほどには、くどくはなっていない。

麺はストレートで太くも細くもない、
ノーマルといってよろしかろう。

全体としては濃いめでうまいラーメンである。

焼きめし。

これも濃いめで、うまい。

やはり、京都のラーメンやは、ちょっと甘めだが、濃い味。
これが京都らしいのだが、いわゆる京料理のだしメインの
味付けとは180度違うのが、不思議である。
なぜであろうか。
食べている層が違うのか、同じ人でも使い分けているのか。

さて。
ここまできたのは、修学院離宮にこれなかった
代わり、でもあるのだが、目的地は曼殊院門跡。
まんじゅいんもんぜき、と読む

この白川通の東側の山の中。
歩いて20分。
どこかの駅からだとタクシーという手もあるが、
ここまできてしまったら、それもない。

と、そこに、ラーメンを食べているうちに降り出した雨。
どうやら本降りである。

慌ててコンビニを探してビニール傘を調達。
曼殊院を目指して東の山に入っていく。
すぐに坂。
付近は住宅地。
だが、しばらく登っていくうちに、畑も現れる。

京都郊外、北白川の田園。

そういえば、修学院離宮は田園そのものを取り入れていた。

天気がよければ、のんびりした気分にはなろうが。

本降りの雨もあっての登り。20分以上かかったか。

曼殊院門跡。

これは通用門だが、鄙(ひな)びて、こじんまりとしている。

天気もあろうし、ここまでくる人は稀なのか、
人もまばら。だが、ゆっくり拝観できるのはありがたい。

さて、ここ、曼殊院というのはなにか。

門跡という名前がついている。
宮門跡などという言い方もあるが、皇族または高位の
貴族が住職を務る寺院のこと。

現存する庭園建築が造られたのが明暦2年(1656年)。
良尚法親王という方の造営。これも江戸初期といってよい。

建築、宝物含め国宝3、重文多数、、いや無数。
(この量は、たいへんなものである。)

もちろん、今回は庭を見にきたのだが、庭は文化財ではなく、
名勝という名前しかない。これはなぜであろうか。
和食なども毎度書いているが、庭もなぜか文化財という
概念に入れてこなかったわけである。

ともあれ。さっそく、庭。

まず、また、パノラマ。

まだまだ、ここも紅葉が見事。
今回の京都庭探訪は、まったくラッキーであった。
これが見られたというのは。

素晴らしいではないか。

 

 

 

つづく

 

 

 

魁力屋

  

 

曼殊院門跡

 

 

 

断腸亭、京都へ その7

f:id:dancyotei:20181210102352g:plain
引き続き、断腸亭の京都、庭探索。

嵐山の天龍寺の庭、で、ある。

昨日は、右側の小方丈前の松と石庭

から、宮元健次先生の石庭に関する論と説を紹介した。

石庭といえば京都でも龍安寺が特に有名だが、注目されるように
なったのは意外に新しく戦後であること。
また、いつ頃から石庭が作られるようになったのかというと
江戸に入ってからで、当時の幕府の有力者でもあった、
臨済宗の僧、金地院崇伝が関わっているということ。
ここまでであった。

そして、もう一つ思い出していただきたいのは、小堀遠州という
人物のこと。
最初に私は東寺の庭を見に行った。
これがその例なのかは不明だが、江戸初期日本の庭は大きく変わった。
秀吉時代を通して南蛮貿易などで欧州の文物、宗教が流入した
ことは皆さんご存知の通りだが、この時、欧州の庭の作り方、
考え方も入ってきた。
これによって、我が国の庭の作り方が大きく変わった。
これを進めたのが小堀遠州という人であったのである。

お茶をする方は、今も遠州流という流派があるので、茶人として
ご記憶かもしれぬ。

小堀遠州、正一。父、政次は元は秀長、秀吉に仕えた戦国大名でもあり、
秀吉死後は家康に仕え、備中松山城主。父死後、正一は家督し、慶長13年
(1608年)には駿府城普請奉行。この功により、遠江守(とおとおみのかみ)。
ここから遠州と名乗るようになっている。
備中松山城の再建、駿府城修築、名古屋城天守後陽成院御所造営等の
建築に関わるいわゆる作事奉行を務める他この時期の幕府の関わる、
国家プロジェクトともいえる寺院等々の建設、作庭にも携わっている。
おそらくこの時期No.1の建築、作庭プロデューサーといってよく
公儀のほとんどのプロジェクトを取り仕切る超多忙な日々を送っていたと
考えられている。
二条城二の丸庭園、大徳寺方丈庭園、南禅寺本坊、金地院(崇伝の
本拠である。)そして、かの龍安寺の石庭、さらには、いまだ
定説にはなっていないようだが、宮元先生は桂離宮遠州の作品といってよい
と語っている。

そう。
石庭を始めたのは、小堀遠州その人ではないか、というのである。
また、欧州のガーデンデザインの考え方を導入したのも彼と
その周辺。
我が国の作庭の考え方がそれ以前の自然の石や草木にならうものから
計算された美しさを表現する場になったという。
また、今は当たり前だが花壇という考え方、あるいはサイフォンの
原理を応用した噴水なども遠州らによって導入されている。
日光東照宮の水盤舎もサイフォン原理によって下から上へ
水が噴き出る仕組みを持っているとのことである。

まさに我が国の庭の大転換期である。

もう一度、天龍寺曹源池庭園に戻ると、上に出した石庭と松の部分と
左側から中央部にかけての部分の違いである。

左側から中央部は室町期に夢窓疎石が造った、自然にならった庭。
石庭と右側の松の木は江戸初期の遠州以後ではないか、と。
左と中央は自然な庭。右側は計算された美を目指した庭。
もちろん、これは私の推理である。

自然な庭ももちろん味わいがあってよい。
計算された方はむしろ、あざとさというのか、作りすぎ
考えすぎというという印象を受けることもあるとは
思うのだが。

なかなか、おもしろいではないか。

天龍寺の庭は曹源池庭園以外にも右側奥にずっとつながって広い。

回廊というのであろうか、渡り廊下と坪庭のような
苔と石、灯篭、さらに水の流れを生かしたもの。
これはそういう意味ではいつのものなのか。
やはり遠州以後なのではなかろうか。
素晴らしく私などの好みだが、どう見ても“自然”ではなかろう。

奥、これはしだれ桜のよう。

季節にはさぞ見事であろう。

竹林と紅葉。

造りこまれてはいないが、計算はされて手入れも
されている。いかにも京都らしい風景であろう。

山手の方に上がれるようになっており、見晴らしのきくところ。

方丈の屋根と向こうに京都の街。
これもしだれ桜のようである。
この枝ぶりは植えっ放しではなく、もちろん手入れがされているのだろう。
枯れ枝であるが、美しい。

山から下りてきて、再び方丈前、玄関。

順番が逆になってしまったが、玄関前の石組みと苔と石庭。

天龍寺総門に近いところの塔頭の一つをのぞいてみた。

小さなお堂であるが、実に渋くてよいではないか。

以上、天龍寺終了。

さて、今日はこの後は、北山から北白川方面をまわる。

とりあえず、目的地は大徳寺

二条までJRに乗って、二条駅前からバス。
仏教大前で降りる。

大徳寺と書いたが、ほんとうは大徳寺ではなく、
孤篷庵というところ。
ここはかの、小堀遠州が晩年をすごしたという茶室。

が、きてみるとなにかイベントでもやっているようで
残念ながら中に入ることはできなかった。
がっかり。

がっかりして、広い広い、大徳寺の中を歩く。
そうである。
白い漆喰の塀のある石畳の道、そして木々。
これどこかで見たことがある。

時代劇である。
私の好きな鬼平なんぞを視ていてもよく出てくる道。
大徳寺はよくロケに使われていたはずである。

ともあれ。
よく考えたら、大徳寺の庭も石庭だが遠州が関わっており、
かわりに見ておくべきであったが、がっかりして、次、
つぎ、と、頭がいってしまいとりあえず、門前まで出てきて
しまった。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

天龍寺

 

 

 

 

断腸亭、京都へ その6

f:id:dancyotei:20181210102352g:plain
12月4日(火)

さて、断腸亭の京都、二日目。

基本、テーマは庭。

宮元健次先生の「京都名庭を歩く」 (光文社新書)

を参考書にしている。

庭というのは、先に書いているように、欧州の考え方が
入ってきた後と前で異なっているということ。
これがメインテーマなのでご記憶を。

古い方を見ていくと、最古のものは松尾大社のそばになるが
西の山の苔寺こと「西芳寺」とのこと。
室町期、夢窓疎石によって造られた庭。
だが、ここも桂離宮修学院離宮同様に見ておきたいと思ったのだが
やはり事前予約制で今回はあきらめ。

その次となると、やはり室町期の庭が見られる「天龍寺」。
やはり夢窓疎石
天龍寺は知ってはいるが、見たことはない。
嵐山である。

祇園から嵐山はバスで四条大宮
嵐電で嵐山。天龍寺は駅のすぐそば。

ほぼ駅前である。
嵐山へ行かれた方はご存知であろうが、この駅前の通り、
もはや原宿なのか軽井沢といった趣。
観光客があふれ、いかにも俗。
10時前だが、もう人が出ている。

総門からではなく手前の通りから入ってしまった。
塔頭が立ち並ぶ通りを突き当りまで。
むろん、突き当りが天龍寺

庭園拝観料を払って左、法堂を右に見て奥へ。

すぐに左側に石庭。


朝だからかちょうど、庭師が作業中。
毎朝なのであろうか、文様をつけている。
ちょうど親方が、若い衆に教えている。
こうして、技術は伝えられていくのである。
よいものを見せていただいた。

大方丈が右にあり、その裏が池のある庭。
池は曹源池といい、曹源池庭園というよう。
世界遺産

こちらは西で、背後は亀山。これがいわゆる借景。
どう写真をを取ればよいのか、とりあえずパノラマ。


大方丈の長い長い長辺に面して大きな池である。
右側は大方丈と直角に建っている小方丈。
手前の石庭部分はアールがついているが実際は直線である。

わかりずらいので、三枚に分けみる。
まず、左。

この背後が亀山か。

中。

ちょっとわかりずらいが、中央の石組みが滝になっている。
ここがこの庭の肝のよう。

アップ。

iPhoneのズームなのでピンがイマイチなのはお許しを。

滝の水は流れていない。

名前は「龍門の滝」というよう。
鯉が滝を登ると龍になるという、いわゆる「鯉の滝登り」の
姿を写したものとのことで、我が国の「登竜門」という
言葉の発祥という。

だが、この距離ではほぼわからない。
舟でも出して見たのであろうか。

右。


手前側に文様が描かれた石庭になっている。
右が小方丈。

全体像がお分かりいただけようか。

この庭、時代は室町始め。
後醍醐天皇足利尊氏らと鎌倉幕府を倒し、いわゆる建武の新政
始めたが、その後足利尊氏と対立、吉野へ逃れ、尊氏は新帝を立て
京に室町幕府を開いた。後醍醐帝は尊氏打倒を遺言し崩御
とまあ、南北朝、室町初期、そんなことなのだが、この庭はその後、
後醍醐帝鎮魂のために建てられたという。

作庭はこれも苔寺夢窓疎石
宮元先生によると、後醍醐帝の亡骸がこの借景になっている
亀山に葬られているという。(後醍醐天皇は吉野で崩御されて、
陵も吉野のはずだが、複数あるのか。)
ともあれ、そもそも庭というのは死者の鎮魂という意味があったという。
苔寺西芳寺もそうだという。西向きの庭で、京都の西は平安期から
西方浄土(さいほうじょうど)を象徴する方向として定着している。
この庭にはそんな意味があるとのことである。

右側の小方丈前の松と石庭。

ちょっとこの松と石庭の部分、この庭の池と中央の「龍門の滝
あるいは、さらに左側と様子が違うように思えるのである。
つまり妙に造り込まれているように見えまいか。

石庭のこと。
さて、本当は石庭の代表、龍安寺を見なくてはいけないのだが、
実際のところ、私、庭は好きなのだが、なぜだか石庭には
あまり興味をそそられない。
今回も限られている中で、龍安寺には行く予定は組んでいない。
宮元先生の石庭に関する論と説をここで紹介してしまおう。

石庭というのは京都の庭、いや我が国の庭を代表する
芸術、あるいは哲学のようなもの、というような理解の
され方が一般的といってよいのであろう。

龍安寺の石庭はなんと戦前には我が国でもほぼ無名であったらしい。
有名になったのは、戦後、かの英国のエリザベス女王
訪れて絶賛し、世界的な名声につながっていったらしい。
評価されるようになったのは、意外に新しい。

ではそもそも石庭というのはいつからあるのか。
これ、意外にも定説がなかったらしいのである。
庭というのはあまり研究の対象になっていなかったのかもしれない。

それこそ、室町期から説はあったらしいのだが、
宮元先生は、江戸に入ってからとの説を展開している。

石庭があるのは臨済宗妙心寺派龍安寺もそうだが、禅宗の寺院が多い。

そもそも禅寺の本堂である方丈の前庭は、儀式用の場所で
観賞用の庭は作ってはいけなかったらしい。
この決まりが変わったのは、江戸に入ってから。
かの金地院崇伝(こんちいんすうでん)が、禅宗寺院を総轄する
最高職についてから、この決まりを廃止し、その後観賞用の庭が
作られるようになったというのである。これが石庭の端緒という。

金地院崇伝といってもピンとこない方も多いかもしれぬ。
私など、日本史専攻の者には馴染みは深い。
江戸初期、家康のブレーン。坊主では寛永寺を開いた天海僧正
この金地院崇伝が有名で、崇伝は黒衣の宰相などと呼ばれ
大権力をふるっていた人物。
大坂の陣の発端にもなった方広寺の鐘銘事件。あの言いがかりを
考えたのも崇伝という。

 

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

天龍寺

 

 

 

 

 

断腸亭、京都へ その5

f:id:dancyotei:20181210102352g:plain
祇園の板前割烹[阪川]。

湯葉の椀物、あん肝と雲子の酢の物、鰹などのお造り、
かぶら蒸し、まで。

カウンターの私の目の前に置かれた七輪。

ねぎはもうよいので、向こうに置かれた。
魚はまだのよう。

あがった。

若い衆が、もろこです、と盛り付けられたものを出す。

これも、以前にきた時にも出た。
この日記を見直したら、11月。
ほぼ同じ時期である。

もろこは、琵琶湖のもの。
ご主人の出身が滋賀県と聞いた。

琵琶湖のもろこ、というのはこの時期のものなのか。
高級魚だそうな。

魚を立てて盛り付けるのは、意図であろうが、
なぜであろうか。
かかっているのは甘酢か。

こんな小さいのだが、脂がのって、うまい。
目の前でおあずけを食っていただけあって、ねぎの焼き具合も
絶妙でよろしい。

次。

おつゆ、で、あるが、中は真薯。

上にのっているのは、里芋、海老芋、か。

これが、驚き。
なかは、蟹。

隣のお客は、大きな、ズワイガニ、で、あろうか、
を食べ始めているが、真薯の中にたっぷり。
おまけに味噌まで入っている。

負け惜しみではないのだが、私自身蟹にはあまり思入れはない。
なにしろ、殻をむくのが面倒ではないか。

おいしいところだけ凝縮されて一つの真薯のお椀に
なっている。

流石。

また出た。

これはふぐ、だそうな。
焼き白子。

塩をまぶして焼いてある。
ふぐの白子は焼くのが最もうまいのではなかろうか。
まさに堪えられない。

あれで終わりかと思ったら、これ。

これに以前にきた時にも、まったく同じものが
出たと記憶している。こうばこがに。

せいこがにともいう、松葉がにのメス。

外子と味噌を身の上にきれいに盛り付けられてある。
まさに旬のもの。

うまい、うまい。

ご飯。

ちりめん山椒。

赤だし、なめこであったか。

香の物、蕪、白菜、しば漬け、壬生菜。

これはびっくり。
ちりめんじゃこが、秀逸。

京都ではちりめん山椒は定番である。

だが、このちりめんじゃこの食感が、まさに縮緬(ちりめん)。
縮緬というのは、縮れが入った絹の織物である。
まさか縮緬を食べたことがあるわけではないが、
フワッと、シャリッと、というのであろうか絶妙な食感。
ちりめんじゃこの由来がやっとわかった思いである。

京都でもなん度もちりめん山椒は食べているが
こんなものは初めてであった。

うまかった、うまかった。

水菓子。

ぶどうやら、ゆるいゼリー寄せのような感じ。

腹も一杯。
まさに、堪能。

お会計は2万。
コースと酒。まあ、そんなものであろう。

ご馳走様でした。

立って、出る。

と、まあお約束だが、京都は必ずご主人が外まで
走って、見送りにきてくれる。
今日は、女将さんもともに。
二人で、こちらが角を曲がって見えなくなるまで。
これでわるい気がする者はおるまい。

ご馳走様です。
とても、おいしかったです。

ここまで。
トータルで、やはり京都の料理やは、素晴らしい。

東京にだってこれだけの腕と、素材を扱うところは
あるのであろうが、なんといっても厚みが違っていよう。
こんな店が、祇園先斗町はじめ、京都には数多ある。
人、職人の厚みと、歴史の厚みである。
とりもなおさず、これが文化というもの。
どうしたって、和食は京都が我が国最高峰であることは、
まったく揺るぎがない。

これが我が国が誇る、世界遺産、和食である。

 

 

 

 


ぎおん 阪川
075-532-2801
京都市東山区祇園町南側570-199

 

 

 

断腸亭、京都へ その4

f:id:dancyotei:20181210102352g:plain
京都。

東寺で庭を見て、酒造の神様であり、京都の
古い古い神様である松尾大社を見てきた。

そこから、二条城の南隣、御池通沿いの小さな池、
神泉苑へきた。

神泉苑は昨日書いたように、平安京建設時からある大内裏だいだいり)
に隣接する天皇専用の庭であり、都の水、“水神様的”なもの、を
象徴する場所であったのである。
今の池の大きさは南北80m程度、東西40m程度と書いたが
建設当時は南北約500m、東西約240m(wiki)という。

上の地図を見ていただければわかるが、北側は二条城。
もちろん、二条城は江戸幕府の城。
神泉苑の北側の大きな部分を取り込んで作られている
のである。ちょうど今もある二条城の池のある二の丸庭園
がその場所にあたるという。

天皇家、朝廷にとってこの池は特別な場所であり、
参考書の宮元先生などは、二条城建設は幕府による意図された
「朝廷の権威を剥奪するために行った数々の工作の一環であった」
と語られている。

あるいはそういう意図があったことも十分に考えられよう。

さて、さて。

こんなところで、今日の見物は終了。
宿泊先の祇園に向かう。

二条城前から地下鉄東西線に乗って、三条京阪で降り、徒歩。
ホテルは八坂神社前のアパホテル

今夜は、随分前に一度だけ行った[阪川]

という板前割烹を予約をしてある。

場所は祇園のそれも、ホテルの裏。
好都合である。

予約は開店の5時にした。
歩いて5分もかからない。

以前に行ったのは、10年近く前。記憶もあやふや。
近くだが別の場所に変わっているような気もする。
(以前の住所を見てみると、同じであった。)
店を見つけて、暖簾を分けて入る。

名乗る。
5分前、まだ、仕込み中だったよう。

大丈夫ですか?。

まさか追い返しはしない。
いわれたカウンターの奥から二つ目の席に座る。

白木のカウンター、10席程度か。
向こう側が狭い板場。ご主人と若い衆、3~4人。
お姐さん1人(少し後で女将さん登場。)
奥の障子の向こうに座敷。(三間?)
狭い割に若い衆の数が多い。

15,000円のコースを予約時に頼んでおいた。

今日は暑いくらいであった。ビールをもらう。

すぐにお客が2人2組がカウンターに入る。
その後、奥にもお忍び風のカップルが入った。。

まず出たのは、これ。

湯葉です、とのこと。
温かく、かきたまのように、ふんわり、とろみのあるもの。
いかにも京都らしい。
(今日は場所柄、ご主人に撮影の許可をもらっている。)

箸置き。

「花より外に知る人もなし」。

あん肝と、白子、、なのだが、くもこ、と若い衆はいっていた。

あまり聞いたことはなかったが、白子の関西の言い方。
忌み言葉といってよいのかもしれぬ。

これは鱈のものであろうか。
あん肝も、くもこも、もちろんうまい。

お造り。

赤身は鰹、奥に鯛、右側するめいか、手前のうに、添えられている
海苔で巻いて食べる。

あ、、!。思い出した。
以前にきた時にもこのうにの海苔巻きが出た。
お得意なのであろう。

鰹はむろん今は“もどり”で、東京だと溶き辛しで食べることが
多いがノーマルにわさび。
いかと和えられている青いものは海藻のオゴであろうか。

ここはお茶屋へのいわゆる仕出しもしているよう。
「始まりました」と電話が入り、大きなおぼんに一杯の料理を載せ
ラップを厳重にかけて、若い衆が配達に出ていく。
なるほど、これは若い衆の数が必要なわけである。
カウンターと座敷だけではお客の数も知れていよう。
経営的にはよいのであろう。

次は、かぶら蒸し。

上にのっているのは、わさび。

これもいかにも京都の割烹料理らしい。

私はなどはまあ、京都のこんなところでないと
食べることはない。

中身はぐじ(甘鯛)。
まさに正しいかぶら蒸しであろう。

かぶら蒸しを食べるのは、かなり久しぶりである。
蕪自体も辛味が多少あったのであろうか。
わさびだけの辛味ではないだろう。
うまい、うまい。

ビールを呑み終わり燗酒にする。

京都の料理やの徳利は、この瓢箪形が多いように思う。
注ぐときに、トクトクっとよい音が出る。

少し前から、私の前に七輪が置かれていた。

小さな魚三匹と白ねぎが、焼かれている。
時折、若い衆が様子を見にくる。

 


つづく

 

 

神泉苑


ぎおん 阪川
075-532-2801
京都市東山区祇園町南側570-199