浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



鰻・炭焼・ひつまぶし・美濃金・神田本店 その1

4544号

4月14日(木)第一食

さて、うなぎ。

それも、関東風の蒲焼ではなく、西の蒸さないもの。
さらに、名古屋周辺のひつまぶし。

昨年一度書いた、末広町のカレー店[モチヅキカレー

の前。

以前から気になっていた[美濃金]というところ。

行ってみようか、と、考えた。

私自身は30代の前半、名古屋に数年転勤で住んでいた
ことがあるので、好きでよく食べていたし、その後も
名古屋に行くと味噌煮込みうどんか、ひつまぶしは
必ず食べていた。
名古屋名物というのはいくつかあるが、この二つは
大好きになった。

今、調べると、ここだけでなく、東京で、あちらの
ひつまぶしを食べさせるところはなん軒かあるよう。

うなぎ蒲焼というのは、東京者の私には蒸したものが
子供の頃から慣れ親しんだ故郷の味なのだが、
蒸さない焼くだけの蒲焼も、十分にうまいと思っている。

蒸す理由は柔らかくする、脂を落とす、などあるのだろうが、
あちらのプロの手に掛かれば、焼いただけのものでも
脂っこくて食べられないなんてことはもちろんないし
別段、カタイと思わせることもない。
むしろ、香ばしく、関東のものにないパリパリした食感には
別のうまさがある。

名古屋周辺では、ひつまぶしだけでなく、普通のうな丼を
食べることも多いと思うが、やはり、ひつまぶしが
最高峰(?)といってよいだろう。

ひつまぶしというのは、四等分して、最初はそのまま、
次は薬味をかけて、その次は出汁をかけてうな茶に、
そして最後は、自分の好きな食べ方でなんといわれる。
だが、お櫃に入った飯に短冊に切ったうなぎ蒲焼を
のせているということと、出汁を掛けて食べるうな茶が
食べられる、この二つが、まあ、ひつまぶし、ということ
であろう。うな茶というのは、関東の蒲焼では味が薄く、
出汁やお茶を掛けると、負けてしまってだめ。名古屋の
蒲焼のたれでなければうな茶はできない。

ともあれ、ひつまぶし、うまいもんである。

[美濃金]の昼営業は15時まで。
13時40分頃到着。

もう完全に春、、いや、もう初夏か。
桜はほぼ終わり、歩道のつつじはもちろん、御徒町公園の
藤が気が付いたら咲き始めている。
もちろんコートはなし、日が出ていれば半袖でも
よいくらい。

特に予約もなくきた。
入ると、ほぼ満席。
奥にカウンターもあるようで、そこへ。

外もかしこまった感じだが、
店内もダークでお洒落な新和風。

ここも外国人観光客もご多聞にもれず見かける。

掛けると、QRコードを読んでアプリから
注文してください、とのこと。
まあ、よいのだが、どこもこれである。

ここのひつまぶしは、肝が入るものと、入らない
ものがある。
値段も一番上が11,950円。

肝入りのものは食べたことがない。

肝入りのノーマルひつまぶし、上6,950円也、に、
してみようか。
肝入りはこの上に特上9,050円也がある。

ビールも。

プレミアムモルツの中瓶。

プレミアムモルツは久しぶりかもしれぬ。

お通しの骨せんべい、それから、キャベツと
キュウリの浅漬けのようなもの。
多少時間が掛かるのであろう。
注文が入ってから焼き始めるのか?。

さて。

待っている間に、呑みながら、ちょっと
考えてみよう、か。

なにかというと、うなぎ蒲焼の歴史。
特に、名古屋食文化圏のうなぎ蒲焼、ひつまぶしの。

うなぎ蒲焼というのは、江戸中期に今のものができた、
と、言われている。

今の開いて甘辛く焼いたもの。
これには、関東で濃口しょうゆが生まれたから、
とよく言われる。

江戸中期というのは、1790年代あたり。
年号でいうと、天明、寛政、享和。
田沼時代の終わりから松平定信寛政の改革のあった頃、
そしてその少し後まで。この後は、文化になる。
この頃に今の蒲焼ができたのは文献にも出てくるようだし、
現存する東京のうなぎやで最古と思われる浅草田原町
[やっこ]の創業は、寛政年間といい、まあ、裏付けて
いるのだろう。

この時代だと、狂歌蜀山人太田南畝先生が代表的な
有名文化人。また化政文化を代表する、戯作者山東京伝
歌舞伎だと作者の鶴屋南北(四世)の頃。
江戸人が、それ以前は上方に対して引け目があったが、
江戸人として誇りを持つようになり始めた頃。

こんな頃である。

開いた蒲焼になる前は、どうだったかというと、
ぶつぶつと切って、串に刺して焼き、山椒味噌を
塗って食べていた、という。
主に屋台である。
これは、池波作品「剣客商売」などにも出てくる。
脂が多く、肉体労働者の食べるもので、決して
品のいいものではなかったよう。
その形が植物の蒲(がま)の穂のようだったので、
蒲焼と呼ばれた。開いて焼いても同じ名前が踏襲された
ということのよう。

また、もう一つ。うなぎというのは専用の包丁を使い、
目打ちといって、目にくぎを刺してさばく。濃口しょうゆの
出現だけでなく、それ以前の形からもわかるよう、
こうしたうなぎを開いてさばく技術ができたから、と
いうのも大きな要因であったよう。

と、ここまでが、まだ、江戸でのこと。
書いている通り、名古屋以西のうなぎ蒲焼の調理法は
東のものと大きく違っている。

あ、きた。

 

つづく

 

美濃金

千代田区外神田6丁目14-3 VORT末広町II1階
03-6806-0328

 

 

 

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