5月29日(日)夜
日曜日。
朝からよい天気で暑くなった。
だがまだ、さわやかといってよいだろう。
こういう陽気だと、今日は久しぶりに森下の桜鍋[みの家]へ
行こうか。
今は鍋料理は冬ということになっているが、
以前は夏の暑い頃のものであった。
暑気払い、滋養強壮、暑い時には熱いものを。
例えば、甘酒なども夏のものであった。
エアコンなどない時代に、暑い時に汗だくになって、
暑い軍鶏鍋や桜鍋をつつく。そういうものであった。
私が以前にやったNHK文化センターの「下町歩き」でも真夏に
両国から森下まで歩いて[みの家]という企画している。
今はさすがに、ここにもエアコンは入っているが
やっぱり真夏に鍋は暑いことは間違いない。
桜鍋をつつくと汗だくになるが、これがよい。
と、いうことであるが、やっぱり真夏になる前に
来ておきたいということで、行くことにしたのである。
ここの創業は明治30年。
深川森下桜鍋の[みの家]といえば、
いかにも江戸の風情に見えるが、江戸ではない。
旧幕時代は、例外はたくさんあるが原則獣食はタブーであったわけである。
多くの人が大っぴらに獣の肉を食べるようになったのは明治になってから。
文明開化の時代となりその後、すき焼きというメニューになる
牛鍋が大流行したのは、皆さんご存知の通りである。
牛鍋よりも少し時代が下って明治の終わりから、大正の頃、
東京でどうも桜鍋は流行したようである。
[みの家]のある森下は深川である。
森下からは少し距離があるが、深川には江戸の頃から
材木を扱う木場がありまた、明治に入ってからは、
掘割が張り巡らされた水運があり中小を含めた工業が
勃興した地域でもあった。
木場の人々に加え、こうした工場で働く人々、
また、水運に携わる人々。
いわば肉体を使う荒くれ者達が大勢いた。
こうした人々の胃袋を満たし、力をつけるものとして
登場してきた。
そしてこの頃、東京でもう一か所、桜鍋やがなん軒も
できたところをご存知であろうか。
どこあろう、浅草の北、吉原。
正確にいうと吉原の廓内ではなく、吉原大門前の土手通り。
今も二軒の桜鍋やが残っている。
明治終わりから大正の頃には、二軒どころではなく、
この通りに軒を連ねていたという。
むろん、登楼前に精を付けようということ。
落語などにも言葉として残っているが
桜鍋は馬なので「けっとばし」などと呼ばれ
力が付くと男どもの人気を集めていたのである。
(うまなみ?)
さて。
[みの家]。
大人数であれば別だが、基本ここは予約はできない。
日祝日は昼夜通しでやっているので、まだ明るい5時前、
内儀(かみ)さんと出る。
半袖のポロシャツにコットンパンツ、素足に雪駄。
歩けば小一時間、自転車で行けば15〜20分程度であろうか。
地下鉄の駅三つだが、隅田川を越えるのでちょっと遠い。
森下の駅を出て地上に上がる。
森下は深川といっているが、深川の北西の端っこである。
その昔、江戸の初め、大川の川向うは江戸範囲外であったが
江戸の町の人口増加によって、低湿地であったこの地を埋め立て、
宅地化していった。
その深川開発の始まりがこの森下で深川では最も古い。
このそばにある深川神明神社はその頃からの鎮守である。
森下といえばもう一軒、名物居酒屋[山利喜]があるが
[みの家]はその並び、交差点から東、新大橋通り沿い、北側。
深川はご存知の通り、東京大空襲で灰燼に帰しており、
戦後の建築であるが、看板も二階の壁もお金のかかった
銅葺きの震災後に流行った建築といってよいのであろう。
暖簾を分けて硝子格子を開けると、下足場。
下足番のおじさんに二人といって、木札をもらって上がる。
ここは入れ込み。
二間続きの長い大広間。
二列にステンレスの長い切れ目のないお膳。
切れ目がないので、向こう側には座る者は、ぐるっとまわって、
廊下側から仕切りをまたいで入る。
座って、お姐さんにビールを頼む。
壁上に飾られているお酉様の大きな熊手。
深川にはお酉様はなかったか。
札を見ると浅草のもの。
それにしても立派なものである。
今時珍しい。
その昔、ここは木場の人々にもよく使われたという。
それで、この家に使っている木材も、彼らに値踏みをされぬよう
吟味されたよいものを使っているという。
そんなことで熊手も気を張って立派にしているのかもしれない。
ステンレスのお膳の上にはガスコンロ。
まずは、鍋二人前と。
この他に、つまみはなににしようか。
やっぱり刺身、だな、馬刺し。
品書きの名前は、肉刺し。
それから、っと、、うん、べったらももらおうか。
つづく。