浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



元浅草ラーメン稲荷屋/そば元浅草砂場

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今日はご近所二本と、明治から大正の元浅草、
このあたり。

3856号

5月17日(月)第一食

元浅草ラーメン稲荷屋

お馴染み、元浅草だが浅草通り沿いの[稲荷屋]

今日は、塩の味玉入り。

コンソメスープのような味わいの深いしょうゆが
看板だと思うが、塩。

アップ。

鶏のつくねが三つ。
軟骨も入っておりよい食感でうまいが、
かなり大きく食べ応え十分。

ただ、スープ。
かなり鶏。
決してわるくはないが、しょうゆの完成度と
比べると、、やっぱり、、。
もう長く食べているのだが、なんだか今日は
特にそう感じた。


台東区元浅草2-10-13 島田ビル 1F
03-3841-9990

5月19日(水)第一食

そば・元浅草[砂場]

毎度、お世話になっている。

1時をすぎるとミニかつ丼が切れてしまう。
今日は間に合った。

お馴染み、もりとミニかつ丼

ミニかつ丼もうまいのだが、やっぱりそば。
毎度食べていて、今さらではあるが、
レベルが高いのではなかろうか。

しゃっきりとしたゆで加減。
のど越し。
下町らしい濃いつゆ。
やっぱり週一回は食べねば。

03-3841-8001
台東区元浅草1-1-1

と、いうことなのだが、前にもちらっと書いた、
明治、大正の頃、今の[砂場]さんのすぐ北、
三井不動産のパークアクシス元浅草という
マンションになっている場所。

私も既に引っ越していたが、ここには一つ前には
銀線ビルというちょっと古いビルがあった。

この「銀線」という名前も戦前のようだが
銀線座という映画館であったというが、
さらにその前。
浅草七軒町、明治の頃「開盛座」という芝居小屋であった。
どんな芝居小屋で、どんな芝居をやっていたのか。
こんなところで、、。

この「開盛座」のまあ、関係者といってよい方の
著作を見つけた。(郷土史なのか、研究者でも
あった方のよう。)

「大正・昭和初期の浅草芸能」伊藤経一(文芸社)2002年

べら棒に古い本ではない。絶版ではないようだが
新刊は品切れで手に入らない。
台東図書館にはあるようだが、はやり手元に置きたい。
古本を探して、定価の10倍の値段であったが手に入れた。

この開盛座は当初、倭座(やまとざ)という
名前(櫓名)で、明治10年頃開場という。
上演されたのは、当初は歌舞伎の芝居。
小芝居という、格としては下がる緞帳芝居小屋。
なぜここだったのか、というのは、さほどの意味は
なかったのかもしれない。
明治になって従前の幕府の統制がなくなり、浅草の
猿若町から三座は今の秋葉原に近い台東一丁目の
二長町だったり、新富町だったりに移転。
他にも各地に数多くの大小の芝居小屋ができた。
その一つ、といってよいよう。
しかし、その後、経営はたいへんで、経営者が代わる、
座名が変わる、また、常打ちができなかったり、
演芸のような演目をやったり、様々な状況を
潜り抜けながら戦中、空襲で焼けるまで
最後の映画館、銀線座まで続いていたよう。

そして、こんな史料が載っていた。
開盛座付近の、関東大震災以前の街並み。
今、近所に住む者として、かなり興味深い。
それだけでなく、限定的かもしれぬが、
当時の東京下町の庶民達の貴重な史料と
いってよいと思う。

少し前になるが、明治40年の地図に書き込んでみた。
史料はかなり狭い範囲で、大きな範囲を取らないと
どこであるかわからないと思い、大きく取った。

伊藤氏は幼少時ここに住まわれていた。記憶ではあるが
一次情報である。(氏とその周辺からまとめられたよう。)
市電の小島町停留所が交差点付近にある。
通りの南にかなり大きな楽山堂病院。
病院はもう一軒。この界隈、今も病院が多いと思うが、
この頃から既に多かったよう。

楽山堂以外は、おそらく間口一間もないであろう
小さな商店など。今の街並みからすると
その数に驚かされる。

前提としてこの界隈、基本寺町でもあるし、
北東隣の阿部川町など代表だが職人の町。
風呂屋、八百屋、漬物屋、駄餅というのは、
少し前までこの近所にも数軒あったが、和菓子ほど
高級ではなく、団子、餅菓子、海苔巻などを売り、
食べることもできる店。あるいは髪結、床屋。
カフェーなんというものも複数見える。もちろん今のカフェ
ではない。銀座などの盛り場に多数あったと聞く、
夜になると若い女性がサービスする店。
今のキャバクラ?。こんなところにもあったのは多少驚き。
ちょっとした盛り場?。
かなり小さいと思うが、釣り堀というのも驚き。
昼は子供、夜は若い職人がきたよう。
あるいは、牛乳屋は、配達をする牛乳屋兼、ミルクホール。
店では今もあるシベリアなども出し、こちらが今のカフェ。

また、そば屋、天ぷら屋、鮨屋牛めし屋、記されていないが
中華そば屋など、食い物やも少なからずあったよう。
(洋食屋などもあったと思われるが、ここには見えない。)

現代も同じ場所であるのが「紙の深山」洋紙問屋さん。
ここ以外には確認できるものはない。

ちょっと当時の人々の生活が垣間見られるように思う。

 

 

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