「黄金餅」に匹敵する「悪党の世紀」的な、上方種の落語「らくだ」に
ついてちょっと考えている。
「らくだ」は明治末に京都の桂文吾(4代目)から東京の柳家小さん(3代目)に
伝えられたという。
小さん(3代目)は幕末の安政3年(1857年)生まれ、昭和5年(1930年)73歳で
亡くなっており、桂文吾(4代目)は元治2年(1865年)の生まれで、大正14年
(1915年)50歳で亡くなっている。
彼らは明治中盤以降から大正に活躍したわけだが、品川の円蔵(橘家円蔵
(4代目)1864年~1922年)も同世代、円朝などの次の世代といってよいだろう。
江戸生まれではあるが江戸は知らない明治第二世代とでもいおうか、明治第二・
大正世代といおうか。昭和に活躍した三名人志ん生(5代目)、円生(6代目)、
文楽(8代目)などの一つ前といってよいだろう。むろんそれぞれの間にも
たくさんの落語家はいたのであるが。
「らくだ」は志ん生(5代目)、円生(6代目)の音が残っており、書いている
ように談志家元も演った。(志らく師も演る。)上方だと鬼瓦のような顔をした
六代目笑福亭松鶴(鶴瓶師の師匠)の音が残っており、著名であろう。
小さんといえばむろん柳派であるが、円生師(6代目)も演っているという
ことは、三代目小さん師以降、広く演られたことが想像できる。
明治末に上方から移され、昭和3年(1928年)に歌舞伎化されているので
大正期に一気に東京で一般化し、人気の噺になったということになるので
あろうか。
歌舞伎化の作者を調べると岡鬼太郎という人で当時松竹の社員であったよう。
三代目小さん師ともこの人は親密で新作落語を提供する関係。上方落語なので
大阪か京都の初演の可能性もあると思ったが、やはり歌舞伎(当時の名称は
「新歌舞伎」といっていたよう。)での初演は、東京のよう。
落語「らくだ」が東京に移されてやはり20年弱で東京でも知られた噺になって
いたということである。死体の関節をボキボキいわせて踊らせる噺が、である。
三代目小さんの手腕というべきか。
文字通り「悪党の世紀」的な噺であるが、当時東京で好まれる社会背景が
あったのであろうか。
当時といえば、大正浪漫、女性解放、社会主義思想の台頭なんということが
思い浮かぶが、、、。
特段「らくだ」とは関係なさそうではあるが。
とにもかくにも「らくだ」という噺は大正期、東京でも知られるものに
なったことは間違いはないのであろう。
これも明治から東京の落語家たちが磨いてきた“悪党ライン”への挑戦に
「らくだ」という噺がまさしくはまった、といってよいのか。
さて、さて。
具体的な「悪党の世紀」らしいと思われる噺をみながら考えてきた
わけであるが、こんなところで打ち止め。
そろそろ、まとめに入ろうか。
3月から、35回になり、時代は、平成から令和に変わった。その間、
須田先生の二つの研究書「悪党の十九世紀」「三遊亭円朝と民衆世界」を
読み、私なりに内容を紹介させていただき、また、円朝師の作品「真景
累ヶ淵」「怪談牡丹灯籠」などを読み、また聞いた。
そしてそこから「悪党の世紀」という言葉を作ってしまったが、
私の考える幕末を経た、江戸(東京)落語が身に付けたと思われる、
人間考察の深化について考えてきた。
明治17年に高座の速記技術が現れる前の噺の詳細はわからない。
例えば「黄金餅」が本当にいつどんな噺としてできたのかなどは推測は
してきたが、確かめられないわけである。
それで考えてきたことは仮説の域を出ないのは承知している。
またなん度も書いているが、落語には人間の深層など全く描いていない噺
も少なくもない。江戸落語が全部、そういう意味で深いというわけでも
なんでもない。浅いものももちろんたくさんある。だがその噺たちが価値が
ないともいっていない。おもしろい噺、別の意味で味わいの深い噺は
たくさんある。例えば「欠伸指南」。欠伸(あくび)を教える、教わる
という噺だが、馬鹿馬鹿しいが実に風流で、その意味で、深い。優れて落語的
である。(ある意味、茶の湯、俳諧などに対する、アンチテーゼといえる
かもしれぬ。「茶人だね」という言葉だったり、ズバリ「茶の湯」という噺で
「風流だね~」と小馬鹿にしているが、落語はそういう立ち位置である。)
一方、一見深いかと思った「大工調べ」など意外に薄っぺらかった。
だが、最初に例を引いた「二十四孝」、「天災」のような軽い噺でも
実のところ、落語らしく、人間を深く見つめているものはある。
(仮に結果としてであっても。)
煎じ詰めると、なにか。
談志家元は「業の肯定」といった。
それもある。「品川心中」のおそめなどは、そうであろう。
女郎は男を騙すのが商売。男とは女とは、そんなものである。
私は「既成の価値観や規範を疑ってみる」という表現をしてきた。
結局、落語というのは笑いにつなげることを主目的とした話芸であるから、
「既成の価値観や規範を疑い」笑ってみる、ということになる。
平たくいえば、高慢なツラしてるが、チャンチャラおかしいぜ、という。
徹底的にそれを突き詰めると、人間が見えてくる。
ズバリそれだけがテーマといってよい噺は一部ではあるが東京の落語家には
このようなDNAが流れてきた。
そしてそれを聞いてきた、寄席の客にも。
煎じ詰めても、なに、ということにはたどり着かない。
考え方、というのか、姿勢というのであろうか。
そんなこと。
「悪党の世紀」に本当に最下層、食うや食わず、ぎりぎりの限界状況
にあった人々も含む寄席にくる(最下層の人々は寄席にすらこれなかった
可能性は高い。)江戸・東京の民衆の中だから真の人間の姿が落語に残された。
そのマインド、エッセンスは明治以降も東京の落語家達に受け継がれ、
江戸(東京)落語に流れてきたのではないか。
そんな仮説である。
伝わったであろうか。
積み残したこともたくさんあるように思う。
「悪党」の中で書いたが、無宿だったり浪人、いわゆる悪党、ヤクザに
つながる、江戸後期の博打打ちのことである。
後の時代に、任侠というのか、講談、浪曲から映画、などに数多くなり、
高倉の健さんなどにもつながっている。
だが、リアルな姿とはやはり乖離しているようである。
江戸末期のこの分野の研究も進んでおり、見直すことによって
博打打ち、任侠、ヤクザについても考えてみなければいけない。
もう一つ。気になっているのは「江戸ノスタルジー」のことである。
このシリーズの中でもちょっとだけ触れた。
以前に岩淵令治先生の研究を読んだこともあった。
文明開化以前、近代化前の江戸を懐かしみ、
理想化するような論調、語り口、気分、、、である。
今回のようなことを書くと、どうしても江戸ユートピア、江戸時代は
無条件でよかった、などという方向に受け取られかねないのだが、
そんなことは私は言ってはいない。
博打打ちにしても、落語にしても、あるいは、吉原などの遊郭、岡場所、
明治以降の三業地などなど、世の中ではとかく、理想化し、風情があって
よい的な、言い方が多いわけである。例えば、毎度書いているが、京都
祇園の花街(カガイ)と、東京の新橋、神楽坂などの旧三業地は歴史から
中身から、まるっきり違うのである。
よいこともわるいこともひっくるめて、正しい姿を理解し、そこから
私たちはなにかを得たいということなのでは、なかろうか。
「江戸趣味」「江戸ノスタルジー」というのは、いろんな切り口で
どうも繰り返し問題になってくる。改めてその本質を考えてみても
よいかと思っている。
さて、最後に今の落語のことも書いておかねば。
ちょっと、切りがわるいが、長くなるので、もう一回だけ
つづけよう。
須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より