浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



團菊祭五月大歌舞伎 その4

dancyotei2014-05-14



5月6日(水)



引き続き、連休の歌舞伎見物。


最後の演目に移る前に「極付幡随院長兵衛」の
浮世絵を出しておこう。


最後の幕の湯殿の場。幡随院長兵衛が水野十郎左衛門に槍突かれん
としているところ。






絵師:周重 明治14年 東京春木座
幡随院長兵衛・九代目市川團十郎、水野十郎左衛門・
初代市川権十郎


初演時のもの。


この九代目市川團十郎という人はまた、むろん人気もあったが、
明治歌舞伎界の大立者といってよろしかろう。
歌舞伎界でただ九代目といえば、九代目團十郎を指すくらい
だそうである。
昨日書いた“改良運動”の大いなる支持者で歌舞伎界では
この人が旗を振っていたといってもよいという。
また、実はこの人は次の演目「春興鏡獅子」にも大いに関わっている。


九代目は、歌舞伎十八番を決めたやはり大立者といってよい
七代目の実子で五男。


江戸後期から幕末を生きた七代目は子供が多かったらしく、
八代目も実子で、前にも書いた通り、三二才で自害している人物。


その後、幕末の安政2年、養子に出されていた五男が戻り、
九代目を継いでいる。
それで九代目が実際に活躍しているのは明治の新しい世、
ということなのである。
これだけでもなかなかな来歴であろう。


七代目、八代目、九代目と文化文政、天保から、幕末、
さらに明治と團十郎家はまさに時代の大波の中で、
大きなドラマを演じ、かつ、歌舞伎界で重要な仕事を残して
いるのである。


と、いったところで、
最後の演目は「春興鏡獅子(しゅんきょうかがみじし)」。


歌舞伎を観にいったことのない方も、映像で目にしたことは
あるであろう。なんというのか、赤だったり白だったり、
頭から長い動物の毛のようなものを垂らして、振り踊るあれ。
場合によっては、二人で。


今日の「春興鏡獅子」は一人。


二人で演るのは、連獅子(れんじし)。
実は私もこの“獅子もの”を観るのは初めて。


さて、どんなものか。


なんでも能の「石橋(しゃっきょう)」というものが元らしい。


歌舞伎でも観たことがないものものを、まして、
能など、観たことがあるわけがない。(威張ってはいけないか。
課題にしておこう。)


「春興鏡獅子」は一応お話もあり、ちょっと長いのだが、踊りの幕、
歌舞伎でいう所作事(しょさごと)ということになる。
当初、大奥の女中が踊る。
踊っているうちに、獅子の精が憑依(ひょうい)し、
一度花道から引っ込み、例の獅子の扮装になり、踊り狂う。


演じるのは、尾上菊之助


これが、なかなか凄かった。


踊りというのは、まあ理屈ではないのであろう。


いわゆる日本舞踊というのは、私など、恥ずかしながら
知識もほとんどないのだが、本当に、よいものは、
なんの知識もない人を、感動させ得るものとみえる。


尾上菊之助は、音羽屋、尾上菊五郎の跡取り。
ちなみに、團十郎家の跡取りの海老蔵と同い年、三六歳。
(知らなかった。團菊の跡取りが同い年とは。)


今回は團菊祭。


成田屋市川團十郎家が歌舞伎界の一方の旗頭であれば、
音羽屋、尾上菊五郎も負けてはいない、この世界では
昔から人気を二分した、由緒のある家。
龍虎、といってよいのであろう。


市川團十郎家が歌舞伎十八番に代表される、荒事。
これに対し、音羽屋、菊五郎家は、江戸の世話物。
(昼の部では、菊五郎は「魚屋宗五郎」を演じているが
これなどがそれにあたる。)


ともあれ。


菊之助は前から気になっていたのだが、
この舞台で、ある種、鬼気迫ったものを見せる。


こういう踊りのものは特に人(にん)に合っているのかもしれぬ。
生まれながらの、アーティストというのであろうか。
演ろうと思っても、あるいはどんなに芸の上の研鑽を積んでも
この域に入れない人もいるのかもしれない。
(このあたりが、海老蔵との決定的な違いではなかろうか。)


この踊りで、女中が段々に獅子の精に乗り移られるところなぞ、
ぞっとするほど。
また、この人、美形なのもそれに一役買っている。


よく女形の魅力というのはなにか、という議論があるが、
男が女を演じるからこそ生まれる色気があるというのだが、
まさにそんな感じである。女性ではとても演じられないように思える。


玉三郎先生は、実は、私はよくわからぬのだが、
(もっとも、生の芝居は観たことがないのだが。)
菊之助は、実によい。ファンである。


さて。


この「春興鏡獅子」、初演は先に書いた九代目團十郎
むろん明治になってから。(明治26年
自ら振付もし、やはり、先の“改良運動”の流れの中で生まれた演目
といってよいようである。


ただ、この能の「石橋」に題材を求めた“獅子もの”“石橋物”は
享保というから、江戸も中期にはすでにあったという。


しかし、頻繁に演じられるようになったのは
やはり、明治以降ではないのではなかろうか。


今回、このあたりは残念ながら、ちゃんと調べ切れなかったのだが、
おそらく大きくは間違っていなかろう。
「春興鏡獅子」はとても江戸趣味にはみえない。
明治初期からの“改良運動”の中で、上流階級のものであった
能をどんどん取り入れようと考えた。それで“石橋物”。


そしてこれが一般の人気も得て定着し、現代まで人気は継続し、
たびたび演じられるものになっていった。
そういうことではなかろうか。 


今回の芝居、明治の有様を少し覗き見たように思われる。