5月6日(水)
連休の歌舞伎見物。
せっかくなので、弁当も書いておこう。
先に書いた通り、いつもは歌舞伎座前の木挽町[辨松]で
買うのだが、この日はちょっと時間があったので、
銀座の三越の地下へ寄ってみた。
普段は、デパ地下で弁当を買うというと、
出張に出るときに、東京駅の大丸の地下で探すくらいで
あまり縁はない。
どこのデパ地下でもそうなのであろうが、
お弁当の類(たぐい)は改めてみると充実をしている。
特に銀座三越の地下は選ぶのに苦労するくらいであった。
地方の名物であったり、色々と揃えている。
で、結局、選んだのは浅草[今半]のものと、
オーソドックスな、日本橋[弁松]の赤飯のもの。
私は歌舞伎座にくる場合は歌舞伎座前にある
木挽町[辨松]のものを買うことにしている。
[弁松]というのはもともと日本橋[弁松]で、
折詰弁当の元祖といわれている。
創業は文化7年(1810年)。むろん、日本橋に魚河岸があった頃。
(ちなみに、日本橋の魚河岸は大正時代の関東大震災まで
日本橋川の日本橋と江戸橋の間の文字通り、河岸にあった。
今、にんべんなどがある付近の路地数本を入れても今からか考えると、
とても狭いところにあったわけである。)
先ほどから、店名の弁の字を使い分けているが、
木挽町が旧字の[辨松]で、日本橋の本店が[弁松]。
木挽町の[辨松]によればこちらは創業140年というので
これが正しければ明治7年。この頃から
「歌舞伎座をご覧になる方々に親しまれてまいりました。」
ということである。ただ、正確にはこれ森田座、または
新富座であると思われる。
明治5年に浅草の猿若町から守田座が新富町に移転し、
同8年から、新富座と名を変えている。
日本橋の[辨松]がおそらくこの時期、守田座、
新富座の中なのか、そばなのかで、折詰弁当を
売り始めたということなのか。
当時といえば、まだ芝居小屋には江戸からの伝統の
芝居茶屋というものがありそこが飲食はまかなっていたはずである。
[辨松]はその新富座の芝居茶屋の一つになったのか
それはわからない。
その後、明治22年に木挽町に歌舞伎座ができ、
こちらでもおそらく売るようになったのであろう。
(その後、新富座は明治43年に松竹の傘下に入り、
関東大震災で被災するまで続いたが、被災後は
再建されずに幕を閉じている。これで江戸の
守田(森田)座からの長い歴史は、歌舞伎座の方に
統合されたという形になっている。)
池波先生も書かれているが、先生の子供の頃というから、
昭和ヒトケタ後半であったか。
この頃、歌舞伎座の中で予約をして[辨松]の弁当を
食べるのが、たのしみであったという。
今は歌舞伎座の中には[辨松]はなく、劇場の前。
味も日本橋はかなり甘辛が濃いのだが、
木挽町の方は甘辛もマイルドになっている、
ように思われる。
さて[弁松]の折詰弁当。
開けると、こんな感じ。
江戸の生麩、つとぶの煮たのが入っているのが
大きな特徴であろう。
食べてみると、記憶している味よりも薄い。
木挽町と同じくらいの味の濃さではなかろうか。
まさか、銀座三越のものだけ、味を変えているとも思えぬ。
体調の具合であろうか。
さて。
もう一つ。
浅草[今半]の弁当。
[今半]は老舗すき焼きや。
そして、こちらもご存知のように、浅草と人形町と二軒ある。
いや、正確には、目立っているのが二系列で
全部で五系列もある。
それぞれ暖簾分けで経営は別とのこと。
浅草新仲見世にあるのが、本店。これが元祖。(創業は明治28年)
伝法院通りそばにあるのが、今半別館。それから人形町今半、
さらに代々木今半というのもあるそうな。
そして、浅草[今半]は国際通り沿いの本店がある店。
弁当なので、むろん冷めているが、冷めても
柔らかくてうまいのは、流石なもの、である。