7月7日(土)七夕
狭い境内。
お参りを終える。
すぐ脇に朝顔の造花のついた、お札を売っている。
お守りでもお札でも、売っている、というのは、
言葉として、適切ではないのだろう。
実際には、価格を貼り出しているのだから、売っていることは
間違いなかろうが、寄進なのか、お布施なのか、と、して、
お金を納め、代わりに、お札をいただく、というのが
正解なのであろう。
生の朝顔は先に書いたように、控えるとして、
この造花付のお札をいただいて帰ろう。
金八百円也。
青いのを一つ。
と。
お坊さんなのか、お寺の方なのか、が、火打ち石を、
カチカチ、と、打ち、切火を切りながら、
「みょうほうれんきょう、
なんみょうほうれんげきょう(南無妙法蓮華経)」
と、二度唱え、渡して下さる。
そう、ほら、ね。
鬼子母“神”と神がつくから神社だと思うのも
むべなるかな、だが、鬼子母神様は、
日蓮宗のお寺なのである。
鬼子母神はインドの神に由来するが、開祖日蓮上人以来、
日蓮宗との関係は深く、宗門宗徒の守護神とも呼ばれ、
基本、鬼子母神様は日蓮宗のよう。
切火を切るのは清めの意味。
これだけで、随分とありがた味が増す。
こんな感じ。
おっと、雨が強くなってきた、傘を広げて
自転車に戻る。
しかし、朝顔市、ここ数年ご無沙汰をしていたが
久しぶりにくると、やはりいいもんである。
銭湯で聞く朝顔の噂かな 子規
正岡子規にこんな句がある。
子規は、ここからも程近い根岸に住んでいたので、
朝顔の句も多いが、この句は好きである。
私なども近所といってよいところに住んでいるが、
朝顔市にこなくとも、市が終わると、近所の家の
門口(かどぐち)に鉢が置かれて、
『あ〜、朝顔市だったなぁ〜』というのを
思い出されたりする。
そうそう!。
入谷の鬼子母神なので、前にも書いているが、
やっぱり触れておかねば。
有名な「恐れ入谷の鬼子母神」、の、こと。
江戸生まれの地口。
(地口はジクチと読む。狭義にはシャレのこと。
言葉遊びを含めて、広くいうこともある。)
「恐れ入りやの鬼子母神」は誰でも知っているが、
この後に続く言葉があった。
このあとは「びっくり下谷の広徳寺」
広徳寺は今の上野警察と台東区役所の場所にあった
広大なお寺。
さらにこれには「嘘をつきじの御門跡」「志やれの内のお祖師様」、
「いやじゃ(どうで、あるいは、情け、ともいう)有馬の水天宮」、
と、寺社の名前の地口が続く。
築地の御門跡とは、築地本願寺。
志やれ(シャレ)の内は、堀之内で、堀之内のお祖師様(妙法寺)。
水天宮は今は、人形町の隣にある水天宮のこと。
江戸の頃は芝増上寺の南、三田の有馬家、久留米藩邸内にあった。
さらにこの地口は、最下級の御家人、御徒歩であり、
天才狂歌師として名声を馳せた、大田蜀山人が作った、
という説まである。
私もこの説は気になって蜀山人からも
色々と調べてみたが、どうも、怪しい。
少なくとも、全集などには入っていない。
まだまだ調査中だが、後世、蜀山人については
“一休さんの頓知話”のような話が人気になり、
たくさん作られた、という。
これは、蜀山人が洒落を手立てに、人を助ける、
揉め事を収めるというような、もののよう。
もしやすると、このあたりから生まれたことかもしれない。
(この話自体はまだ見つけていないのでこれは課題。)
だがまあ、こうした地口、江戸人のセンスであることは
間違いない。現代のセンスではちょっと野暮ったいかもしれぬが、
私などは、味があって好き、で、ある。
落語にもこの手の江戸地口は出てくる。
「今頃気が付くとは、遅まきトンガラシ、だが、、」(松葉屋瀬川他)
「それじゃあ、銭は向こうで取り上げ婆(ばばあ)か。」
「ううん、爺(じじい)が取った。」(大工調べ)
自棄のやんぱち日焼けの茄子(なすび)色が黒くて食い付きたいが
あたしゃ入れ歯で歯が立たないよ、と、きた、、
有名な寅さんの啖呵売(たんかばい)の台詞。
これなども近いもの、かもしれない。
最後に、おまけ。
このあと、雨が激しくなった中、松が谷のラーメンや
[てんくう]へきてみる。
ここは、ごく近所でもあるし、なん度もきている。
さっぱり系だが、かなりのレベルだった。
が、きてみると、本日を最後に閉店、と、貼り出してある。
食べたのは、塩味の海老わんたん麺。
丁寧な作りで、やはりうまい。
流行っていなかったわけではなかろうし、
なんらか、理由があっての閉店であろう。
残念、で、ある。