7月6日(日)午後
引き続き、入谷朝顔市。
天気もよくて蒸し暑いので、
屋台でビールと焼きそば、とも思ったのだが、思い直し
落ち着ける近くの店に入ることにした。
どこがよかろうと、考え、思い付いたのが
とんかつの[河金]。
とんかつの[河金]!。
ご存知であろうか。
朝顔市からいきなり飛んでしまうのだが、
またまた初めてシリーズ、カツカレーのことである。
カツカレーというのは、私の好物といってよい。
その元祖。
カツカレーと初めて名乗ったのは、私もなん度か行ったことがあるが、
銀座の[グリルスイス]というのが定説といってよろしかろう。
これが戦後すぐの昭和23年。
しかしこれより前、戦前、大正7年に浅草の洋食屋台[河金]が
皿ではなく、丼飯にカツを乗せ、カレーをかけたものを
『河金丼』という名前で出した。
丼ではあるが、これがカツ+カレーの元祖という説がある。
この前のソース焼きそばも、昭和初期の浅草ではないか、との説があった。
まあ、同じ頃の浅草である。
大正から昭和の浅草というのは、間に関東大震災があったが
まさに、浅草の絶頂期といってよろしかろう。
実際のところ私自身はあまり詳しくはないが、
浅草オペラといって、今から考えると欧州などの歴史のあるオペラとは
また違う、今でいえば、ミュージカルといった方がよいのか、
そういう歌劇が、特に大正時代の浅草六区で一世を風靡した。
そして震災後は、我々も微かにその名残を感じられる、
浅草軽演劇、喜劇、エノケン・ロッパ時代。
(やはり、戦争での中断。戦後、復活し、渥美清、萩本欽一、
ビートたけしまでか。)
参考:浅草再生プロジェクト
ともあれ。
浅草が、東京の、いや、日本の最先端であった、そんな時代。
まさに、最先端の街で、生まれた、ソース焼きそばであり
カツカレー。
ただし、どちらも極々、庶民の食い物である、ということは
重要な点かもしれぬ。やはり庶民の街、浅草なのである。
で、洋食の[河金]であった。
当時[河金]は国際通りにあったという。
今はもう既になく、その三代目の兄弟が、千束とこの入谷で
浅草[河金]支店として今も店を続けている。
と、まあ、以上のようなカツカレー元祖[河金]にまつわる情報は
知っていたのだが、千束も入谷もきたことはなかったのであった。
入谷の[河金]は言問通りの鬼子母神の反対側。
細い路地を入ったところ。
以前に一度きて、やっていなかったことがあったので、
場所は 心得ていたのではある。
朝顔市の屋台店の雑踏から路地を入る。
店の表はこんな感じ。
内儀(かみ)さんとともに、なんのためらいもなく、ガラッと
戸を開けて、入ってみた。
と、ちょいと、吃驚。
最近TV番組から「きたな美味い店」というくくりが生まれているが
まあ、それである。
正直のところ、先客はなく、内儀さんと二人、
「すみません、間違いました」といって、出てきてしまおうかと
思ったほど。
ただ、断腸亭、こんな地元といってよいところで、
尻尾を巻いて出てきてしまっては、いけなからろうと、
腰を落ち着ける。
ビールをもらって、その河金丼と、ロースカツ定食を頼む。
しばらくして運ばれた、これがその、名にし負う、河金丼。
ご飯の上にほんの少しのキャベツ千切りがあって、カツ、
上にカレー。
ロースカツにライスと、豚汁。
いや、これ、本当にお世辞でもなんでもなく、うまい。
河金丼のカレーは蕎麦やのカレーに少し近いかもしれない。
ロースカツもおそらくラードで揚げおり、香ばしい。
また、玉ねぎの入った豚汁が、実にうまい。
これは秀逸。
河金丼の丼側面。
ちゃんと、名入り。
ライスの皿も、とんかつ、ではなく、洋食[河金]
(店の暖簾は、とんかつ[河金]で、ある。)
こういう店というのは、一度落ち着くと、
肩の力が抜けて、長居がしたくなってしまう。
とにもかくに、うまかった。
ご馳走様でした。
勘定をして、出る。
おっと、外は、朝顔市、であった。