9月24日(土)第二食
さて。
土曜日。
昼すぎ、久しぶりに上野の蕎麦や[翁庵]へ。
不忍池の帰り、で、ある。
朝から曇っていたが、天気予報通りついに降り始め、
瞬く間に本降り、さらに土砂降りになった。
自転車だったのだが、多少の雨であれば、濡れて行こうかとおもったが、
この降りでは風邪をひきそう。急遽レインコートをコンビニで買って、
土砂降りの中、やっとここまでたどり着いた。
さて[翁庵]。
[翁庵]は上野警察署前、という説明が最も適当であろう。
上野駅、正面玄関前はロータリーがあって、その前を
南北に昭和通りが横切っている。
昭和通りの正面向こう側には東京メトロの本社ビルやら、
三井ガーデンホテルが角にあってその交差点から
浅草に向かう浅草通りが真っ直ぐに西に延びている。
この交差点の先、一つ目の信号の左側が上野警察で
その向かいが「翁庵]、で、ある。
久しぶりに江戸の地図も出しておこう。
現代の地図と見比べて、だいたいお分かりになろう。
上野警察とその裏の台東区役所の場所が、広(廣)徳寺に
あたるといってよいのか。
「おそれ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺・・・」
などという、江戸の地口(じくち)言葉にもなっている、
このあたりではランドマーク的なお寺であった。
この広徳寺は大正時代の関東大震災で焼失し、
その後、二度に分けて練馬区の桜台に移転している。
江戸の地図を見てわかるのは、まず左手、西側。
今の上野駅になっているところは、もう既に上野寛永寺。
○○院というのがいくつも見えると思うが、これらは皆、
寛永寺の支院、塔頭の類。
上野の山は全山寛永寺であったわけである。
東叡山寛永寺は、江戸幕府開府当時に、幕府を守り、
国のために祈願する寺として建てられた。
また、芝の増上寺と並んで将軍家の菩提寺であったわけである。
東叡山は東の比叡山という意味である。
まあ、それも今は昔。
維新の上野戦争ですべて焼かれ、第二次大戦の空襲で
残っていたなん人かの将軍の霊廟もすべて焼かれた。
今の日光東照宮を思い浮かべていただきたい。
あれと同じような豪華絢爛な霊廟が今の国立博物館の裏手、
にあったのである。
増上寺も同様であるが、まったく残念なことである。
今あれば、むろんのこと、国宝であり、間違いなく世界遺産に
なっていたであろう。
わずかながら江戸のものが残っているのは、上野東照宮、
動物園の中にあるが五重塔、それから清水堂、など。
さて。
その寛永寺の支院の並びの下に「山下ト云(いう)」とある。
ここは今のJRの広小路口あたりになろうか。
あるいはガードあたり。
上野山下といっていた。
ここには岡場所(私娼窟)などもあったようであるが、
落語をお好きな方は上野山下というと思い出す向きも
あるかもしれぬ。
志ん生師で有名だが「黄金餅」。
「え〜〜、下谷の山崎町を出まして、上野の山下から、
上野広小路・・・」
山崎町というのはもう少し北の方で、当時名代の貧民街。
与太話ばかり書いていてはいけない。
[翁庵]であった。
今時珍しい、木造二階建ての日本建築。
戦後だとは思うが、遅くとも昭和30年代頃には
建てられたものではなかろうか。味がある。
入って、すぐに右側におかあさんのいる帳場があって、
ここで食券を買う。必ずしもいつもいるとは限らないのだが、
混んでいる時だけかもしれぬ。
ねぎせいろ。
ここはもう、これ一本。
そして、ビール。
あいている席に相席で座り、食券を出す。
お姐さんが、一緒に持ってきていいですか?
と、聞いてくれる。
こんな、といっては失礼だが、まったく気取っていない、
町場の蕎麦やでも聞いてくれるのである。
むろん、いえば、酒を呑み終るまでそばは待つ、という
気の使い方をする。
一緒でいいです。
ビールがきて、すぐにそばもきた。
これが名物、ねぎせいろ。
そばつゆに、小かき揚げが入っているもの。
かき揚げに入っているのは、いか。
以前はここのオリジナルだと思っていた。
他の蕎麦やでは、まず見かけないであろう。
しかしそれはしばらくして、誤りであることがわかった。
元祖は室町[砂場]。
あそこも池波レシピで、創業明治2年の押しも押されぬ大老舗。
メニューの名前は、天もり、という。
むろん、これの元祖を名乗ってもいる。(私はこの二軒以外では
見たことはないが。)
かき揚げを崩して食べながら、そばをつゆにつけて、
たぐる。
うまいもんだし、なにしろこれ、愉しいのである。
別段、難しいものではない。
他の蕎麦やでもやらないのは、なぜであろうか。
不思議ではないか。
天ぷらがある、そう、立ち喰いそば、路麺でも、できそうである。
大ヒットにはならなかろうが、そこそこ人気メニューに
なると思うのだが。
台東区東上野3丁目39−8
TEL 03-3831-2660