浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き 9月その3

まだまだ『講座』の9月。
昨日は、吉原大門周辺のことまで。





より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き9月 を表示

江戸の地図






より大きな地図で 吉原界隈 を表示


そもそも吉原とは、、というのも書いておきたい。
今日はここまで。
つづきはまた明日。


そもそも吉原とは、、といえば、私は『講座』では、出さなかったのだが、
落語の「五人廻し」を思い出す。


噺とすれば、一人の花魁の、様々なキャラクターの客5人が
ちっとも花魁が来ないので、店の若い衆に、文句をいう、
というものなのだが、そのうちの一人が、この“そもそも”を
ベラベラと喋るのである。


書くと、随分と長いのだが、これを聞いていただければ、説明は終わり。
(ご興味あれば、是非聞いてみていただきたい。
おもしろいので、できれば、自分で覚えて、
喋りたいくらい、で、ある。)


で、簡単に“そもそも”を説明をすると。


〜〜〜〜〜〜〜〜


1653年(明暦3年)、明暦の大火でそれまで日本橋葺屋町(現人形町)に
あった吉原遊郭も全焼。幕府は町中に置いておくのは風紀上もよろしくない
とのことで(移転の願いは前年の明暦2年に出している。)
浅草田圃へ移転を命じた。
それまでの吉原を元(もと)吉原、こちらを新吉原と呼ぶようになった。
江戸の北になるため北国(ほっこく)、あるいは北廓(ほっかく)とも、
あるいは、吉原仲之町から、ナカ、ともいった。


〜〜〜〜〜〜〜〜


成り立ちはこんなところ。


そして、


〜〜〜〜〜〜〜〜


吉原は、四方を鉄漿(おはぐろ)どぶ、と呼ばれる幅二間の堀があり、
大門から入り、中央が仲之町、江戸町一、二丁目、揚屋町、
角町、京町一、二丁目の六町に分かれていた。
江戸唯一の公許の遊郭、遊女三千人御免の所。
日千両(ひせんりょう)鼻の上下へその下、などといわれ、
魚河岸、芝居と並んで毎日千両の金が落ちる場所ともいわれた。


〜〜〜〜〜〜〜〜


この“日千両”なども落語の枕などでもいわれる言葉。
江戸落語と吉原は切っても切れない。


明治以降。


〜〜〜〜〜〜〜〜


明治に入り、1872年(明治5年)芸娼妓解放令が発布され
(1875年には名称も貸座敷と変えられた。)遊女の人身売買は禁止されたが、
事実上、前借(ぜんしゃく)という名目で東北地方など貧しい農村などからの
身売りは続いた。


大正期に入り大正デモクラシー、女性解放運動の高まりもあり、
救世軍などによる自由廃業を支援する動きも盛んになった。
1911年(明治44年)吉原大火(映画吉原炎上で描かれているもの)、
関東大震災を最後に江戸期から続く花魁道中などを含めた
いわゆる吉原遊郭文化はなくなっていった。


しかし、吉原遊郭自体は戦中、戦後も公的には黙認(戦後は赤線)
という形で営業は続けられた。


1958年(昭和33年)売春防止法施行により新吉原開所から
305年続いた吉原遊郭は法律上、廃止された。
(その後は、トルコ風呂から現在のソープランド
個室付特殊浴場となっている。)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜


歴史をとても簡単にみていくと、こんな感じであろう。


衣文坂から、S字の五十間道があり、大門。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜


大門というのは、江戸期、開所の頃からあった、
当初は唯一の出入り口。毎朝未明に開けられ夜四ツ(10時)に
閉められた“引(ひ)け四ツ”。それ以後はくぐり戸から。実際は九ツ(12時)
大引け”に四ツの拍子木を打ち二時間ごまかしたといわれる。
江戸の頃は、幅八尺(2.4m)木製の黒塗り冠木門。
1871年明治14年)鉄製アーチ型のモダンなものに改造。
その後、吉原大火により鉄柱だけになり、さらに大震災で破損し、
再建はされなかった。
“大門”というのは東京の洲崎、京都島原、名古屋中村遊郭など
全国各地の遊郭にもあり、吉原同様、地名として残っているところもある。
年代からみれば京都島原が元祖かもしれぬ。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜


引け、大引け、なんという言葉はおもしろい。
現代でも“株”の世界で使われている言葉である。


また、「真夫(まぶ)は“引け”すぎ」なんという言葉もある。
意味は、先ほどの落語「五人廻し」の“廻し”、
これは一晩になん人かのお客の部屋を花魁は
廻るのであるが、真夫のところへは最後にくる、という意味。


一応、この大門では江戸期は、遊女の足抜け(逃亡)を
回避するための、出入りをチェックする場所でもあった。


大門を入った通りが、仲之町と呼ばれた真っ直ぐな通り。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜


仲之町
仲之町には引手茶屋(ひきえぢゃや、揚屋・あげや、とも)
という間口の狭い茶屋が軒を連ねていた。
吉原は大店(おおみせ、大籬・おおまがき)、中店、小店と
格が分けられており、大店の場合、引手茶屋を通さねば
登楼(あが)ることはできなかった。
客はここで芸者(吉原芸者)を呼び軽く騒いで、
目当ての店へ向かった。
魁道中はこの引手茶屋へ客を迎えにくる道中のこと。
歌舞伎などで仲之町はよく描かれるが、
春にはこの通りに開花した桜を木ごと植え、
吉原は江戸でも桜の名所の一つに数えられるほどであった。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜


仲之町は、まあ、吉原のメインの通り。
昨日書いたように、吉原そのものを、ナカ、というようにも
なっていったのである。


落語をご存知の方ならば、お分かりであろう。
「・・・堀からあがって、一口やって、夜は“ナカ”へでも行って
わっと、騒ごうか・・・」(欠伸指南)この堀はむろん、山谷堀
である。


現代の仲之町は、他の通りと比べ、間口の狭い“店”が続いているが、
これくらいが名残であろうか。




と、いったところで、またまた、長くなってしまった。
このあたりで、今日はおしまい。


また明日。