浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



いなだ

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ちょっと戻るが、いなだ。

11月9日(金)夜~

金曜日。

例によって帰り道、御徒町の吉池に寄る。

目に付いたのは、いなだ。

いわずと知れた、小型の鰤(ぶり)。
いなだは、関東での呼び名。
(ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ。)
関西では、ハマチでよいのか。

イナダというのは、漢字はあまり見ない。
調べると、鰍というのもあるようだが、これはカジカと読ませる
ことの方が多いだろう。
落語にも「鰍沢」というのがあるが、カジカザワで山梨の地名。
秋に獲れるからか。
(由来はわからぬが、魚偏に水でいなだというのもあるよう。)

ともあれ、いなだはかな書きでいこう

吉池の売り場にはいなだが、二種類。

値段が倍ほど違う。高い方は北海道。
安い方は、銚子。

銚子は一匹しかなく、閉店間際の半額で300円ほど。

買ってみようか。

時間があれば自分でさばくが、頼んでしまおう。
三枚。

もう一つ。
やっぱり、半額。
明石のたこ。
たこというのは、国産の真蛸はかなり高い。
半額でも700円ほど。
だが、やはりうまい。
買おう。

帰宅。

いなだ。

半身。

今日は刺身であろう。

刺身包丁で皮を引く。

身側を上にして尻尾から刃を入れる。

ウワッ、、切れてしまった。
なかなか難しい。
実際のところ鯵、鯖、鰯以外は、ほとんどさばいたことがない。
経験値の不足である。

あきらめて、刺身に切りながら皮から外すことに
方針変更。

半身のさらに、半分ほど切って皿へ。

たこは切るだけ。

いなだは、きれいに盛り付けられなかったが、
味はまあまあであろうか。

いなだというのは、脂のない鰤?。
いや、いなだには、いなだのうまさがある。
状態はそこそこよいのかもしれぬ。

脂が少ないと白身のような感じでもあるが、
うまみは濃い。

蛸は流石に地物の真蛸。
水分は少なめでコリコリとした歯触りと、うまみ。

上々であろう。

残ったもの。
いなだはそのまま冷蔵庫。
蛸は甘酢に漬けて、酢蛸にしよう。

さて。
残った半身と1/2。

翌々日。

焼いてしまおう。
時間も経っているので、ただの塩焼きではイマイチであろう。

ポワレ、で、よいのか。
バターでフライパンで焼こう。
脂が少ないのでバター。

洗って半分に切る。
http://www.dancyotei.com/2018/nov/inada_pan.jpg

皮はそのまま。

フライパンを熱し、バター。
皮側から置く。

身側に塩胡椒と、タイム。
魚にはやはりタイムが必須。

皮はパリッと焼くのがうまい。
強火から中火、じっくり長めに。

焼け具合をみて、順番にひっくり返す。
脂が減ってきたので、バターを足す。

全部ひっくり返して、、
いいかな。

皿にのせ、ケッパー。

食べる。

フライパンで焼くとパサパサになりがちなのだが、
なかなかよく焼けた。
しっとり。
たっぷりバターがよかったか。

銚子産いなだ、成功であった。

 

 

おでん

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11月11日(日)夜

そろそろ、本当の季節到来であろう。

なにかというと、おでん。

もちろん、私のいうおでんは東京風のしょうゆで真っ黒のもの。

もはや東京でも風前の灯。
コンビニのおでんはもちろん、飲食店として
おでんを看板にしているところも、ほぼすべて、透明なつゆの
関西風。

東京風の真っ黒なつゆのおでんやの名前を挙げる方が
簡単である。
日本橋やら銀座、新橋になん軒かある[お多幸]。
そして、私の近所では池之端仲町の[多古久]あたり。
それこそ限定されてしまう。

さて。
東京のしょうゆで煮〆たおでんがいつ生まれたのか。
このことである。

毎度書いているがこの問題。
去年かなり詳しく考察している。


落語、歌舞伎など江戸から明治にかけてのおでんの
取り上げられ方などから考えている。

江戸の末期には味噌で、温めたこんにゃくなどを食べる味噌おでんが
流行していた。これは「煮込みのおでん」と呼ぶのが
正しそうである。
「煮込みのおでん」はそれ以前のいわゆる豆腐などに味噌を塗って
焼く焼いたおでん(いわゆる田楽)に対する言葉。

江戸末でもしょうゆで煮〆たものはまだなかった。
紀文のサイトには、明治20年創業の「呑喜」(東京・本郷)という店が
最初である、という説を紹介している。

結論はおそらくこの店でなくとも明治20年頃と推測してよさそうである。

意外に新しい。
前から書いている通り、これが関西に伝播し透明な関西風の
つゆになり、関東大震災後、京都・大阪の料理人が東京に
流入し、これとともに透明なつゆのおでんも東京に逆移入
された。つまりつゆで煮込んだおでんは生まれてから40年ほどの間に
行って戻ってきた。それも透明になって。なんと早いことか。

まあ、この震災後のタイミングが先日の[八百善]などの
江戸固有の料理屋料理が勢いをなくしたタイミングと同じ。
つまりおでんに限らず、ここが江戸固有の味の転換点である。

しょうゆで煮〆たおでんも事実上とっくに滅んだ
といってもよいのだろうが、

スーパーで種の買い出し。
色々入っているので、セットものを一つと別にがんもどき、
つみれ、すじ。すじは、棒状のものではなく、つみれのような
丸いもの。それから、やっぱり里芋は欠かせないであろう。

今、コンビニのおでんに里芋はあるのであろうか。
セブンイレブンで調べるとやはりないようである。
里芋はおでんが先の、味噌を塗っていた頃からの種である。
志ん生師匠の落語「替り目」にも出てくるが、東京では大きな
八つ頭を使うことが多かったと思う。しょうゆ味との
相性はすこぶるよい。

作る。

里芋だけは下ごしらえ。
皮をむいて、圧力鍋で下煮。
10分ほど圧をかけて放置調理。
同時に、玉子も茹でる。

30分、里芋に火が通ったら、煮込む鍋に移す。

 

入れるのは、水としょうゆ、のみ。

江戸・東京の下町人の味の好みは、しょうゆのみ。
あまいのを嫌う。いろいろな種から、あまみが出るのである。
酒も入れない。私の親父は特にうるさかった。

しょうゆが濃ければ、すぐに食べられる。

まあ、いかにも東京下町らしい即席感であろう。

真冬でもないので、ビール。

朱色の平たい皿。先シーズン合羽橋で調達した。
ご存知の方はご存知。この皿は[お多幸]のもの。
しょうゆのおでんといえば、やっぱりこれが気分である。

メラミンの“塗り”モドキ。合羽橋の塗りの器を扱っている
店のおばさんに教えられた。「おでんやさんは、お皿の上で
包丁を使うでしょ。だから塗りなんて使えないんですよ」。
だそうな。

一皿目は、

玉子、、なのだが、茹でた時に割れ目が入って、黄身と白身
分かれてしまったがそのまま煮込んだ。

下がすじで、その隣がつみれ。
里芋が一番味が染みるのに時間がかかるので次。

二皿目。

里芋、がんも、さつま揚げ、もう一回すじ。

里芋というよりも、この大きさなので、小芋?。

里芋もうまいが、がんもも、しょうゆの煮〆は、
うまいもんである。
がんもだけでも煮ることもある。
できれば、スカスカよりも、身が詰まったものよい。
上等なのか、わからぬが、その方が、うまい。
だが、スーパーなどではなかなかそういうものは、置いていない。
今度探してみようかしら。

たが、おでんはそうそうたくさんは食べられない。
おでんというのは、腹にたまるのである。
やっぱり、安くて腹にたまる。
庶民の食い物。

食べ終えたらすぐに片づけ。

しょうゆが濃い分、このまま置いておくと、翌日には
しょうゆが染みて、食べられなくなってしまう。
従って、食べ終わったらすべてつゆからあげて、
別々に容器に入れて冷蔵庫へ。

東京おでん?!。
最近は、静岡おでん、金沢おでん、ご当地おでんが知られるように
なっているが、元祖のはずが、東京おでんといわねばならぬか、、。
いや。それほどにも存在感がないか。

だが、これが、うまい。

 

 

 

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11月11日(日)昼

先日、カレーチェーン[日乃家]
のことを書いた。

今まで、チェーン店というのは、私自身カレーに
限らず、できるだけ行かないようにしている。
従って、ここにもほとんど書いていない。

[日乃家]に行ってみて、ちょっと認識を変えた。

意外に、うまい。

チェーン店というのは、どこかのセントラルキッチンで
大量に作って、配送され、店は温めて出すだけ。

それでも、例えば[吉野家]などは、意外にうまい。
いや、安定して私は好きである。

チェーン店というのは、どこへ行っても同じ味。
それが特徴であるし、それが安心して食べられる
という価値を提供している。
もちろん、私はそれを認めるが、食事を選ぶという愉しみを
減らすように思えて、極力しないようにしているのである。

ともあれ。

カレーのチェーンのこと。
スタンドカレーといってもよいか。
以前は、東京には、昭和の頃、私がティーンエイジ、
もっとあったように思う。

今は新興のところ増えているが、バブル頃かその後か、
一度なくなっていたのではなかったろうか。
たまに私が行っている、上野の[クラウンエース]

など昭和48年創業というが、そんな頃。
今も市ヶ谷にあるが[カレーの王様]も古いと思う。
また、それこそ路麺ではないが、個人経営の
スタンドカレーも随分とあったと思う。

東上野になると思うが近所の春日通り沿いに
[サカエヤ]というのは個人経営で今もある。

今、チェーンのカレーといえば、なんといっても、
COCO壱番屋]であろう。
全国で1400店以上。東京都だけでも180店程度。
タイ、韓国、香港、シンガポールなど海外に150店舗以上
展開している。発祥は愛知県で今も本社は一宮市
私が名古屋に単身赴任していた20年ほど前は名古屋では
あたり前のチェーンであったが、東京には未進出であった。
今は、東京でもあたり前のチェーンになっており、
カレーチェーンとしては、断トツのNo.1である。

名古屋在住の頃、一度入って、それ以来、今も入っていない
かもしれない。なぜかというと、当初、高い、と思ったから
なのである。
一番ノーマルなポークカレーが今、484円で、今考えると、別段
高くはない。ただ、ご存知のようにトッピングが豊富で
色々足すと、かなり高くなるのである。
まあ、お金がなかったのであるが、牛丼は500円切るが
カレーでは500円を越える。このラインが、ハードルであった。

そう[日乃家]にしても今、決して安くないのである。
500円は楽に超えている。
今の若い人には、高くはないのであろうか。

考えてみれば、ラーメンやでも、500円は超えるか。

カレーというのは材料の種類も多く、牛丼よりも原価は
かかり、牛丼チェーンなどでは二の足を踏んでいた頃が
あったと思う。([すき家]も[吉野家]も随分前に始めたが。)
安くないのである。

さて[カレーは飲み物。]であった。

チェーンとしては、店舗数はそう多くはない。
ただ、御徒町だの浅草だのにあって、比較的
私の目についていた。
ただ、こんな名前なので、入ったことはなかったのである。
御徒町店。[ぽん多本家]の並び。
うなぎの寝床のようなカウンターだけの店。

[黒い肉カレー]890円。小盛、中盛、大盛、山盛りと
値段は変わらない。
大盛以上でなければ、割高な印象になろう。
午後の半端な時刻であったが、客は入っている。
味玉、らっきょや福神漬け、ポテトサラダその他、トッピングが
三種選べる。
ラーメンやでもないのに、味玉があるのが不思議。

黒カレー、小盛、味玉、らっきょ、フライドガーリックの
トッピングを頼んだ。


欧風カレーといっているが、かなりコクがあってそれらしい。
意外に、うまい。

大きな角切りの豚バラがかなり柔らかく煮込まれている。

カレーは飲み物、といっているが、別段そこは普通の
カレー、で、ある。(「飲み物」という表現は、TVの大食い
系タレントの噛まないで飲み込む、ということを言っていた
という理解でいいのか。)

たくさん食べたい若い人、大盛以上を食べれば、うまいカレーで
コストパフォーマンスが取れる。そんなポジションであろうか。

もう少し、私の行動範囲にもカレーチェーンはある。

[ゴゴーカレー]、[上等カレー]、[ラホール]、
まだまだあるのか。
今まであまり目に入っていなかったのだが、そういう目で見ると
近所の上野、秋葉原、神田界隈には随分とある。

しかし、なぜ増えてきたのであろうか。
神田は「グランプリ」でも有名だが、昔からカレーやが
集まっており、今は聖地といわれている。
なにか関係があるのであろうか。
いわゆる名店、老舗とチェーンとは微妙に
違うようには思うのだが。

では、ココイチはその中で、どんなポジションなのか。

上野、御徒町界隈はインド人経営のインド料理店も
数多くある。
これもなにか関係があるのか、なさそうな気もするが。

500円を越えた価格でも受け入れられているので
工夫次第でお客が入るということか。

ちょっとまわってみようかしら。

 

http://www.curry-life.co.jp/

御徒町
03-5812-4770
台東区上野3-23-3

 

 

ステーキ

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11月7日(水)夜

ステーキが食べたくなった。
この季節というのは、ステーキの季節なのであろうか。

直接のきっかけは最近の電車の中吊り広告。
以前にもそんなことがあった。
昨年であったか、やはり今、11月頃ではなかったろうか。
広告はアメリカンビーフ、米国食肉輸出協会のもの。

この時期に広告を打つのは、やはり冬を前に、または年末を
前に、おそらくステーキの食べる機会が増え始める頃だから、
なのであろう。

ステーキの付け合わせはなににしよう。

毎度のフライドポテトでは、芸がないし、
あまり身体にもよさそうではない。

きのこ類にしようか。
にんにくと、バターなんぞで一緒にソテーすれば
よいだろう。

帰り道、ハナマサに寄る。

いつもの大きな米国産、アンガスビーフ

きのこは、舞茸とぶなしめじあたりも買おうか。

帰宅。

一応、短時間でも肉の温度を常温にするため、
伏せた鍋にパックのままの肉をラップ側を下にし、
置いておく。

15分ほど。

ハナマサのステーキ肉は、まるまる一枚ではさすがに大きいので、
1/3ほどカット。

舞茸の石突を落とし、たべやすい大きさに手で割いておく。
ぶなしめじも買ったが、舞茸1パック分全部でよさそう。

お!、そうである。
先日のペコロスが依然として冷蔵庫に残っていた。
あれも一緒にソテーしようか。
3個、皮をむいて、天地を切っておく。

にんにくも1かけら、スライス。
バターも用意。
やはりバターの方がうまいであろう。

フライパンを加熱。

バターを溶かし、にんにくスライスから。
香りを出す。

続いて、舞茸、ペコロスも。

軽く炒め、同じフライパンにスペースを作り、
1/3を落としたステーキ肉を投入。

 

強火。

このくらいの厚みの肉であれば、そうそう難しいことを
考えなくともよいだろう。

ここで、舞茸、ペコロス、肉、含めて全体に塩胡椒。

強火から中火に落とし、焦げ目が付いてくるまで。

裏を見て、、、いいかな?。

ひっくり返す。

片面も中火から弱火で焦げ目をつける。

OK。

肉はあげて、皿にのせておく。

隣の五徳でステーキ皿の鉄板を予熱開始。

舞茸とペコロス
舞茸はともかく、ペコロスの方はもう少し加熱が必要であろう。

香り付けと加熱のため、ブランデー。
ファイヤー!。
  

強火でアルコールを飛ばす。
ふたをし、火を止める。
あとは、余熱調理。

5分後、念のためペコロスに串を刺して、火が通っている
ことを確認。

OK。

熱くなった鉄板に肉、舞茸、ペコロスをのせて、
出来上がり。

円形でそうそう大きなステーキ皿ではない。
寸法でいえば、直径20cm。
1/3を切り落として、一杯一杯。

ビールを開けて、食べる。

焼き具合はミディアム程度。

味は、まあまあであろう。

にんにくを最初に入れているが、1かけら程度なので、
にんにくの風味というのはさほど強くない。

鉄板焼きのステーキ店で、乾いたガーリックチップを
使っているがあれはどうであろうか。
あの手の店のステーキは、かなりにんにくの香りが強い。
もっともガーリックチップの量も随分使っているとは
思うのだが。
一度、あの強にんにくを目指したものを作ってみるか。

このところ、ステーキはこの鉄皿を使っている。
例のドリップ対策である。

まあ、対策といっても結局出てくるものが熱した鉄皿
なので、血の色にならずわかりにくい、ということ
なのではあるが。

また、熱くしてあるので、むろん、冷めるのに時間がかかる。
これはメリット。
だが、同時に当初は食べながらも加熱は進む。
これはデメリットにはなろうか。

この鉄皿、日本だけのものだと思う。
欧米ではこんなものを使っていない。
ドリップ対策としては小細工で、皿にのせても
出ないようにするのが、本道なのではあろうが
今のところ、解決策は見つかっていない。

寒い時期は冷めるのに時間がかかり、メリットの方が強い。
見た目もよいし、しばらくは使ってみようか。

 

 

 

 

浅草・中華料理・ぼたん

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先週は長々、書いてしまった。

書き始めた当初は、本当に結論はまったく見えていなかった。
鴻上先生の論を一つ一つ吟味しているうちに
日本人はそもそも、そういう気質を持っていたというのは
あまりに拙速で、考えずらい。意外に、近い時代に
そうなってきたのではと考えるようになっていったのである。
ある意味、消去法である。

それで、江戸か明治。
となると、江戸なのでは、と考えて、五人組と朱子学
というものを挙げてみたのである。
他にはないのか、あるのかもしれぬ。
前後の時代はどうだったのか。
明治は少し触れたが、戦国期、あるいは鎌倉室町期は
どうなのか、など吟味をしなければいけない。
そんな課題を持ちつつの仮説と考えいただければ
と思う。

と、いうことで、通常バージョン。

11月5日(月)夜

月曜日。

栃木から、いつものようにスペーシア
浅草まで戻ってきた。

今日はどうしても、中華[ぼたん]の
オムライスが食べたかった。

理由は、わからない。
ただ無性に食べたかった、のである。

[ぼたん]は東武浅草駅北側のガード脇の
今は三代目(と四代目?)とのことで、
創業は戦前であろうか。

中華であるが、初代の頃から「オムライス」は
あったらしい。中華というより食堂的存在で
あったとのこと。

さて。

今日は、店の前にここの住所について、ちょいと
書いてみたい。

ここは花川戸1-8-1。

まず現代の地図。

drive.google.com

 

続いて、明治。

東武線浅草駅開業前である。

で、なにかというと、花川戸という町名のことである。
なんであろうか、花川戸とは。

歌舞伎「助六縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」。
通称“助六”。市川團十郎家の歌舞伎十八番
主人公助六の苗字。彼は花川戸助六という。

花川戸自体は江戸初期から既にあるようで、地名の方が先。

花川戸の町名由来は台東区によれば、

「町名の由は、はっきりしない。地名説の一つとして、
川や海に臨む地に「戸」を付けることが多いという。
花川の「戸」も隅田川に臨んでいたことにちなんだのだろう。
「花川」のほうは、並木の桜、あるいは対岸の墨堤に咲く桜
などの花と隅田川を結びつけて、この名が付された
と考えられる。」

はっきりしないと言いつつ、断言しているが、
ちょいとこの説、胡散臭いのではなかろうか。

花は文字通り、フラワーの花でよいのであろうか。
川はこの場所なので、隅田川=大川でよいのだろうが
隅田川の別名に「花川」というようのものが
あったのであれば、その花川のそば、という
意味合いであれば、うなづけると思うのだが。
そんな史料でもあるのか。あまり聞いたことはない。
墨堤の桜は江戸に入ってから、吉宗の時代からのはずである。

ここは奥州街道沿いで、江戸初期には既に集落が
あったことは間違いないようで、浅草寺そばでもあり
浅草寺の歴史から考えると、もっと古くから
あったとも考えられる。地名の文字は置き換わることは
通常よくあること。花(ハナ)はフラワーではない可能性を
考えてもよいかもしれぬ。ハナは突端という意味の、端
だとどうか。川の端、、、戸と重なるか、、、、。
まあ、由来不詳でよいか。

江戸の地図。

そんなわけで、江戸からずっと花川戸。
そして、こんなところまで、浅草寺の領地であった。

おっと。余談がすぎた。
町中華[ぼたん]。

カウンターに座って、ビール。

瓶ビールはもちろん、浅草らしくスーパードライ
お通しは、いつももやしのナムルのようなもの。

カウンターの向こうでオムライスができていくのを
眺める。
右側のご主人の受け持ち。
中華なので、中華鍋。
ご飯を炒め、ケチャップを入れ、炒め終わる。
溶き玉子を中華鍋に。広げて焼く。
焼けたら、中華鍋をひっくり返す。
手元は見えないのだが、皿のチキンライスの上へ
のせているよう。

完成。。

半熟ではなく、しっかり焼いた玉子。
私は、半熟もよいが、しっかり焼いた玉子の方が
好み。

アップ。

ラードで炒めたしっかり味のチキンライスが
下町の味。

バカウマ。

ボリュームもある。

腹一杯。

ご馳走様でした。

 


03-3841-5040
台東区花川戸1-8-1

 

 

 

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鴻上尚史著「不死身の特攻兵  軍神はなぜ上官に反抗したか」、

今日こそ最後になるか。 (講談社現代新書)

 

日本人は一神教的なのか、多神教的なのか、という考察であった。

昨日、戦国期の浄土真宗門徒の過激な動きを書いた。
宗教戦争といってよく、多分に一神教的である。

もう一つ。もう少し時代が下るが、江戸に入って、
島原の乱というのがある。
天草四郎という者を旗頭に、キリシタンの反乱、という
イメージもあるかもれしぬ。

だがこれはまあ、当時弾圧されたキリスト教がある程度よりどころと
されたが、全体とすれば圧政、重税に対する、農民一揆、あるいは、
戦国が終わり大量に出た不満浪人のはけ口、そんな理解が
アカデミアでは一般的で、宗教戦争という位置付けはされていない
ようである。

昨日みた、浄土真宗本願寺門徒達の戦国大名への反抗は
一般的には、一向宗徒の一揆なので一向一揆と呼ばれている。
15世紀の終わり頃から16世紀の終わり頃まで、100年ほどの間
近畿、北陸、東海地方でのことである。

日本史上で組織だった宗教が関係する大規模な反乱は
これだけといってよいのか。
応仁の乱から続く、長い戦乱の時代というものが背景に
あったのだと考えられようか。
下剋上があたり前、ある種の無政府状態
自分や家族、家は自分達で守らねばならないと皆が考えていた
時代である。日本人のモラル感、「世間」感も変化している、
と考えるのが正しいかもしれない。

時代によっては、一神教的メンタルを持っていた頃もあり
また、あるいは、日本人の中に場合によってはこういうメンタルが
出てくる可能性を秘めているといってよい、ということ
かもしれない。

日本人が他民族に征服されていないというのメンタル文化的には、
どういうことであったか、以前に私自身、この日記でも
考えてみたことがあった。
http://www.dancyotei.com/2016/sept/onbashira5.html

この時に考えたのは、征服されていないので、
文化的に途切れていないということ。
それで、縄文からの神々も、弥生の神々も、その後の仏教、
その他、陰陽道儒教、、、と層をなすように、神感が重なって
いったのではないかということである。

前のものを否定せずに取り込み、積み重なった。
必然的に、神の解釈、世界観としては、多神教的になっていった。
こういう風に考えたのである。

そこでもう一つだけ。地震や風水害の多い日本列島だから
多神教になったという、鴻上先生の論である。
「たった一つの神が、こんなに試練を与えるという
考え方は受け入れられなかった」のでいくつもの神がある
と考える多神教になったといっている。

自然崇拝、アニミズムの原初的な文化では、世界中で
日本と同じような多神教の世界観の例は少なくない。
日本の場合は、前記のようにその後、他文化により途切れさせられる
ことがなく、そのまま残ったと考えるのが自然なのではないか
と思うのである。

さて。
この多神教的なメンタルと「世間」を大切にする
メンタルとの関係である。
逆にいうと一神教だと「世間」を大切にしないのか、
ということにもなる。

これもやっぱりしっくりこないのである。
「世間」を大切にすることと、一神教多神教は関係がない
のではないか、と今、思っているのである。
例えば、一向宗門徒であっても、門徒の間では
「世間」は大事にしていたかもしれない。
両立してもおかしくはない。
正確にいえば、わからない。
当時の門徒の手紙であるとか、文献を見てみたくなる。

長々書いてきてしまったが、
そろそろまとめに入らねばならない。

いろいろ考えてきて、今、仮説ではあるがこの「世間」を
大切にするメンタルというのは、江戸期以降、ひょっと
すると、明治以降に全国に広まったメンタルではなかろうか、
と考えているのである。意外に古くないのではないかと。

江戸期の制度としては五人組あたりから。
また、思想としては幕府の学問となった朱子学

まず五人組。
五人組というのは、町でも村でも5人(家)ごとに
単位を作らせ、互いに年貢を納める連帯責任を負わせたもの。
元来はキリシタンの禁教のために、監視し合わせたのが元ではあるが
段々に支配の仕組みになっていったものである。
江戸期、この連帯責任は、制度として確立し徹底されていた。
先に書いたようにそれでも飢饉などで年貢が納められず、
逃げてしまう、という例もあったのだが、いずれにしても、
村名主が取りまとめ人として互いに監視し、責任を
持ち合うというシステムとして機能をしていたと考えて
よいと思われる。これは都市である江戸の町々でも監視しあう
という仕組みは同様に機能していた。

身分が武士であればどうであろうか。
「世間」を大切にするメンタルはもっと極端であったと
考える。藩なり幕府に所属し、家と石高は世襲
200年間、同僚も世襲。役目も大きくは変わらない。
これはもうそれこそ「世間」は所与のもの以外なにものでもなかった
はずである。

これが、戦乱のない安定した世の中が200年以上
続き、武士はもちろん、百姓町人のメンタルにも
定着していったのではなかろうか。

そして、それが、明治になりあたり前であった武士のメンタルによって
さらに増幅され、教育等で全国的に水準合わせされるようなことになり、
国民の共有するメンタルになっていった。

そして、もう一つの朱子学のこと。
実は、朱子学は先に朝鮮半島に入り、李氏朝鮮の国家の学問に
なっているのである。
そして、日本では江戸幕府初期、林羅山という朱子学者がいたのだが、
家康、秀忠、家光、家綱の四代に仕え、朱子学は幕府の官学になっている。
また、林家の子孫は代々、儒学者幕臣として大学頭を名乗っている。

朱子学というのは実のところ私なんぞにはちゃんとした
説明はできない。(勉強しておきますという感じ。)
ものの本によれば、上下の秩序を大事にし、幕藩体制士農工商
身分制度を正当化する、思想的バックグラウンドになっている、
という。(また、朱子学は幕末の勤王討幕思想にも皮肉なことに
つながっているよう。)

これが今まで書いてきた「世間」にあたるものの起源では
なかろうか。「世間」というのは結局その集団なり、組織の
秩序ということになろう。
これで、韓国が日本以上に「世間」を大切にすることの
説明もつく。
もちろん、仮説である。

長々書いてきて、考察の大半はなんであったのか、と思われる
かもしれぬ。鴻上先生の説が意外に私の興味のフィールでであったので、
はまってしまった、という感じであろうか。考えていておもしろかった
のではある。


お付き合いいただけた方々、感謝、である。

 

 

 

鴻上尚史著「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」その5

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鴻上尚史著「不死身の特攻兵 
軍神はなぜ上官に反抗したか」、今日が最後になるか。
(講談社現代新書)

長々書いてしまったが、最後のポイント。
「世間」を大切にするメンタルのもとには、
災害が多い国土で、一神教ではなく八百万の神を持つ
多神教の文化であるからという鴻上先生の説である。

昨日、神社のことを書いてみた。

神社に序列があるような、ないような、現代においては
曖昧なのかもしれぬが、戦前であれば天皇の先祖であったという
伊勢神宮天照大神アマテラスオオミカミ)を一応のことろ
頂点としてよいのか。これ以外にもお稲荷さん、八幡様
諏訪神社、その他、文字通り八百万、大社といわれるような
大きなものから、庭にあるお稲荷さんの祠まで、文字通り
八百万、我々のまわりを取り巻いている。

そして、私の専門であった民俗学の領域の神になる。

神社というのは、これも曖昧だが一応のことろ
神道国家神道という宗教思想のもとに整理されているもの
として、それ以外の、もっと身近な民間信仰というものに
入る神様である。(もちろん重なっていものはあるが。)

多くは稲作農業を取り巻いて、一年時期、時期に行事、
神事が行われる。
例えば正月に門松を飾る習慣は今でも一般にあるが、
あれは、もともとは正月に一家の主人が山から若松(松の枝)
を切ってきて年神、山(神)の精気を家に取り込む、
という意味合いがあったものである。

現代においてどのくらいに家庭で行われているのかわからぬが、
人生において生まれてから、成長に合わせ、様々な儀礼が行われていた。
七五三などは分かりやすい例かもしれぬが、例えば、生まれたときの
後産(のちざん、胎盤のこと)をどこに埋めるのか、その時なにをするのか、
それによって、その子がどんなふうに育つのかが決まっている、、、など
地域地域で様々な習俗があった。

これら民俗儀礼、挙げだしたら切りがないのでやめよう。
民俗儀礼、習俗は、現代一般の神社と関係のあるものも
あれば、ないものもある。神道ともまた区別して然るべき
であろうが、仏教でもキリスト教でもない、身近な神の信仰である
ことは間違いなかろう。

この他、トイレの神様ではないが、屋敷神といって、家の
いたるところに神様はいる。竈(かまど)の荒神様(こうじんさま)は
代表的であろう。
その他、山、海、川、池、滝、岩、大木、、。依り代(よりしろ)というが、
神様が降りてくると考えられている自然物である。神の起源としては
こちらが原初的なものであろう。

まあ、八百万であることは間違いなかろう。

宗教学的にいえば、自然崇拝、アニミズムの一つ、
という位置付けがされ、仏教、キリスト教イスラム教の
ような教典がはっきりしているものとは異なっている。
いわゆる神道は、こういったアニミズム民間信仰
神を“もっともらしく”体系化したもの、といってよいので
あろう。

また、いわゆる神仏習合というが、神と仏が合体した
ものも意外に多くある。代表的なものは、修験道
和歌山の熊野信仰、山形の出羽三山信仰など、いわゆる
山伏の信仰である。山岳信仰に仏教を取り込んだもの。
江戸時代に江戸で大流行したが、富士講富士信仰もその例である。

さて、次は仏教。
今さら私が書くべきものではないか。
仏教とはなんぞやなど私が書けようはずもない。

身近なことを書こう。
お寺は、お参りもあるが、日本人にとって重要なものはお葬式である。
無宗教と思っている人も、葬式は先祖からの浄土宗なり、浄土真宗なり、
日蓮宗だったり、お寺からお坊さんを呼んで葬式をする人は多かろう。
これは江戸期にキリスト教禁教のため、すべての人々がどこかの
お寺の檀家にされたことが起源であるのは皆さんご存知であろう。
それでどこの家もどこかのお寺の檀家になり、信仰する
宗派が決まっていた(る)わけである。

また、民間信仰に近いものでは、盆踊りなどは好例であろう。
元々は平安期から中世に広まった念仏を唱えながら終夜踊る、
念仏踊りが起源であろう。
また、念仏講などといって、集落ごとに決まった日に
集まって大きな数珠を回しながら念仏を唱える、なんというもの
もある。

お寺とも関係が薄く民間信仰に近いが、神とも違うものも意外に
多くある。

正式な教典がはっきりして組織化されている仏教教団は
なん百年と存在していきたがその周辺に民間信仰の神や神社、と合体し
神仏習合の形を取ったものも数多くあり、これらも含めて
文字通り、八百万と呼んでよいような姿であろう。

明治に入り、神仏分離が政策として進められ習合していたものが
区別されているが、基本、日本人のメンタルといえば、仏様も
神様の一つ、くらいの感覚もあることは間違いない。
観音様や不動様をあたかも一つの神様のように信仰していた
わけである。

もう少し例を引くと、例えば、入谷の鬼子母神
あそこなどはお寺であることを意識していない人は実のところ多い。
お参りの時に柏手をしている人の多いこと。
江戸の頃、神社やお寺が現世利益の方向へ進んだが、鬼子母神であれば
子育て。浅草の待乳山聖天(これもお寺)であれば、子授け。
薬師様(新井薬師他、もちろんお寺)などは眼病。もう枚挙に暇がない。

さて、最後にキリスト教
我が国のキリスト教徒の割合は1%(文化庁)程度のよう。
かくいう私も敬虔とは正反対だがカトリック教徒である。
キリスト教はちゃんと洗礼を受けて、というプロセスを踏む
ところが多いので、そうそう誰もが簡単に信者にはならなかろう。
ちょっとハードルがある。

で「世間」を大切にするのが、この多神教文化を
背景にしているという説であった。

ここで一神教なのか、多神教なのか、ということももう少し
考えてみる必要がありそうである。

仏教が一神教なのか、という問題である。
だが専門的な宗教論をしようというわけではない。

「世間」を大切にするから多神教という議論の文脈である。
他の教義を認めないというような意味合いと考えさせてもらおう。
曖昧にしていろいろなものを受け入れる。
これは多神教的といってよいのか。

逆に、他を認めない、過激な宗教は日本にあったのか。
日本の仏教でもご記憶の方は多かろうが、戦国期の門徒
本願寺浄土真宗である。
蓮如を頂点に、門徒達が兵士となり、信長、秀吉、家康などと
武力で渡り合っていたではないか。当時の本願寺の本拠地は石山本願寺
それが滅ぼされて、跡地はなにになったかご存知であろうか。
秀吉の大阪城である。大阪城本願寺の本拠地の跡に建てられたのである。
あの当時の浄土真宗はある種、宗教戦争のような過激さを持っていた。
あれはなんだったのか。
日本人にも時として、こういう側面はある、のである。
そう考えるしかなかろう。

あれは例外?。先に書いたように日本人とはこうだ!、
などと、軽々にはやはりいえないのである。

 


う~ん、終わらなかった。
もう一回、つづける。