浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



鴻上尚史著「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」その4

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もう少し、鴻上尚史著「不死身の特攻兵 
軍神はなぜ上官に反抗したか」。(講談社現代新書)

なんだか特攻兵と関係なくなってしまったようである。

三回で終えるつもりであったが、伸びてしまった。

考えてみたかったのは、あと二つ。

一つめ。「世間」を大事にし所与のものとして受け入れるのは
他民族に征服されたことがないから、というもの。

これはどうであろうか。
アカデミアではあまりいわれないことかもしれない。

そもそも他民族に征服されたことがない、ということ自体は
どうであろうか。

有史時代、大和王権ができてからあたりからみてみると、
他国、他民族に元寇などの侵略がわずかにあるが撃退し、
支配下に置かれたということはない。

お、そうである。
太平洋戦争の敗戦も入れて然るべきかもしれぬ。
進駐軍が入り、サンフランシスコ平和条約までは
占領下で、条約発効から初めて独立が成立していると
いうことであろう。
現在の日本国憲法がこれ以前の占領下で作られ、
また、日米安保体制に基づく米国軍の駐留は現在も続いており、
独立状態ではない、という論もあるにはあるが、
まあ、少数議論でトータルすれば支配下にあったとしても
ほんの数年ということでよろしいか。

有史以前はどうであろうか。
問題は、縄文時代弥生時代の間である。

もちろん、文献のある歴史のフィールドではなく、
考古学の領域なので、明確なことはわからないという
ことになるのだろうが、殺戮行為や征服といったものでは
なかったのではないか、ということ。
稲作を持って朝鮮半島、中国大陸から日本列島に入ってきた
人々は、徐々に同化していったと専門家の間でも
考えてよいようである。

ただし、奈良から平安期の朝廷による蝦夷討伐、
元祖征夷大将軍坂上田村麻呂の東北地方の平定は、
それにあたるといってよいだろう。

日本民族は、ほぼ侵略、征服されていないが、日本民族
この場合、大和民族は、蝦夷アイヌといってよいのか、
さらには、もう少し時代は下るが、琉球は江戸初期、
薩摩藩によって事実上の支配下に置かれている。

これは、意外に日本史上も知られていないかもしれぬ。

「薩摩入り」といって、薩摩藩琉球に侵攻し江戸幕府からも
琉球支配を認められている。以後、琉球薩摩藩支配下にあり、
かつ、中国大陸の明、その後の清とのいわゆる朝貢貿易の二枚
看板というのか、二重の主従関係を持っていた。いや、琉球
介した、明、清との貿易のために薩摩に持たされていた
というべきか。

江戸期以前はこんなところ。
明治以降でいえば、台湾併合、朝鮮、さらに第一次大戦
よって、パラオなど太平洋諸島、その後、満州、、、
まあ、皆様ご存知のことであろう。

征服したことはあるが、ほぼされたことがない国。
しかし、そんな国は、けっこうあるのではなかろうか。

イギリス、イングランドなどはそうではなかろうか。

いや、イングランドも11世紀にヴァイキングに征服されている
時代があったようである。
ヨーロッパなどは島国とはいえ、征服、被征服の歴史で
あったということか。

世界中探せば、まあ、あるのかもしれぬが、
やはり征服されたことのない国、というのは稀有な存在
ということではあろう。

前にも書いたが、最も歴史が長いということで日本の
天皇家は、世界の王、皇帝の中で最上位にあるという。
これも征服されたことのない国の証左であろう。

さて、問題は征服されていないから「世間」を大切にする
のか、ということであった。

これは、否(いな)、で、あろう。
韓国の例を考えると、朝鮮半島は日本の支配を受けているし
それ以前は中国王朝の支配秩序の傘下に入ってた。
このことを考えると、征服されていても「世間」を大切にする
文化はあるといってよさそうに思われる。

我が国の「世間」を大切にするメンタル文化に、
征服されていないことは影響はあるかもしれぬが、
必ずしもこれがなくとも成立するということになろう。
(こうなってくると、韓国がなぜ被征服の歴史を持ちながら
「世間」を大切にするメンタルを持つようになったのか、
ということをよく吟味しなくてはいけなくなってきた。)

さて、いよいよ最後。

災害の多い国土、である。

あまりにも災害が多いので一心教ではなく
八百万の神になったという説を提出している。

そしてこのあたり著者は曖昧に書いているが、
文脈的には「世間」を大切にするメンタルの
構成要素というのか、一体のものと位置付けているといって
よさそうである。

これについて考えて見たい。

まずこれも、そもそも日本は多神教なのか、
から考えてみなくてはいけなかろう。

日本には神社、お寺、キリスト教会、、
いろいろな宗教がある。

私達に身近なものは、お寺、神社。いわゆるお参りには、
観光の一部としてでも、皆、行き、手を合わせる。

また、神社は私も鳥越神社の鳥越祭に参加するが、
地域のお祭りというのが身近である。

氏子という名前で、住んでいる場所によって神社は特定され、
ある意味どこかの神社の信者という位置付けになる。

また少し前までは、地域にもよろうが、神棚はある程度
どこの家にもあった。特に商売をしている、あるいは
なにかの職人であればこの傾向は強かったと思われる。

神棚は、氏神産土神)様を祀る、あるいは、伊勢神宮
天照大神アマテラスオオミカミ)を祀る。(あるいは両方)
特定の商売、特定の職人ではその業、職の神様があり、
それを祀る。大工であれば聖徳太子、酒屋であれば京都の
松尾大社、といったものが例である。

 


つづく

 

 

鴻上尚史著「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」その3

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 もう少し、鴻上尚史著「不死身の特攻兵 
軍神はなぜ上官に反抗したか」。
(講談社現代新書)
https://amzn.to/2P5R2Ux

なぜ、崖っぷちになると思考をやめて特攻などという
愚策を受け入れてしまうメンタルに日本人はなったのか、
ということである。

それは運命共同体である「世間」が大切だから。
所与のものとして「世間」を黙って受け入れることを
著者は、農耕で結びついた地縁社会に求めている。

そしてさらにこのメンタルが“日本だけのもの”とし、
その理由は他民族に征服されたことがないからという。

また「世間」というものを所与で不変のものとして
受け入れてしまうメンタルになった理由を、地震や風水害などの
天災が多い不可避な自然環境のもとに暮らしてきたからから。
あまりにも天災が多いので一神教にはならずに八百万
(やおよろず)の神を敬うメンタルになった、と。

鴻上先生の説はこんなこところであろうか。

まあ、これ、そうとうに難しいのである。

日本人のメンタル文化などがそう簡単に結論が出るとわけがない。
これだけで論文が2~3本書けてしまうであろう。

最初に書いてしまうが、今回結論はない。
いや、わからない、が今の私の結論。

だが、とてもおもしろい。
考えてみる甲斐がある議論である。

そもそも、この民族のメンタル文化そのものを、こうである、
と決めてしまうのも、十分に注意しなければいけない。
どこの国でも、民族でも人それぞれ、もちろん個人差がある。
大きく平均値をとればこのあたりかな、ということだと
思わねばならない。おもしろい議論なのだが、大いに注意が
必要であるということである。

それでは、まず、簡単なところから片付けよう。

“日本だけのこと”で、ある。

「世間」を大事にする、あるいは思考をストップする、は、
前回書いたように、韓国などは今の日本以上に
この傾向は強いのではないか、ということ。

まあ、書いたように別段私は、韓国文化の専門家
でもなんでもない。どこが同じなのか、違うところがあるのか、
などなど詳細な検討を加えなければいけなかろう。

よって、断定的なことはもちろんいえない。
もしかしたら、韓国以外にも似たようなメンタルを
持っている民族はあるかもしれぬ。

ただ少なくとも日本だけのものではないということは
言い切ってもよいのではなかろうか。

そして、次。
稲作農耕社会に起源を求める論である。

これはアカデミアでもよくいわれる説であると思われる。

例えば、水利、で、ある。
同じ水を利用して稲作をしていると
互いに譲り合わなければ皆が食べる分の稲は育たない。
水利以外でも豊かではないムラでは互助をしていかなければ
暮らしてはいけない。

また私の学んだ日本民俗学では稲作を日本人の中心的な生業
に位置付け、稲作を中心に年中行事があり、神々などの精神生活も
稲作を軸に展開されていると説明している。
農業、特に稲作が日本人のメンタルを形作ってきたと
考えることに合理性はあろう。

稲を育て、収穫するために多くのムラでムラのルールがあり、
それを守ることが義務付けられ、守らなければ
皆様ご存知の村八分ということがあった、ということになる
わけである。

ただ、こういうルールがいつ頃できてきたのか、
という歴史的時間軸を取り入れてみると、どうであろうか。

例えば、この村八分という言葉はいつ頃からあったのか。

稲作が始まった弥生時代からあったのか、古代、大和王権の頃
なのか、奈良時代か、はたまた平安期、
鎌倉・室町の中世期、近世江戸なのか。

我国の稲作の歴史は弥生時代とすると紀元前10世紀からあり、
通史的に吟味する必要があろう。

また、時間軸だけでなく、地域という空間軸も
考えなければいけない。

日本列島は東西南北に長く、気候条件も違うのである。

稲作だけ考えてみても大きな差がある。
温暖な気候の西南日本と冷涼、寒冷な東北日本である。

江戸期だけみても、関東を含めて東北日本は寒冷な気候で
飢饉が度重なっている。
江戸期、収穫量とすれば平和な時代が続いたこともあり、
西南日本は大幅に伸びたのに対して、東北日本は飢饉のお陰で
伸び悩んだ。つまり、西日本は豊かになっていったが、
東北日本は苦しかった。

気候によるものなので、それ以前の時代でもおそらく
この傾向は違わなかろう。
こういう豊かさ、ゆとりの違いは双方の社会に及ぼす
影響、違いというものは大きかったはずである。

また江戸期などはよくわかっていると思うのだが、
領主の治め方の違いというものもある。

関東地方、関八州などというが、特に北関東などの
周辺部はかなり農村として荒れていたと考えてよいようである。
関東地方は譜代大名や幕府旗本の領地として細かく分けられて
おり、直接的には代官はなどが年貢の収集を受け持っていた。
これはある意味、無法地帯。(ばくち打ちの国定忠治、大前田英五郎、、
などが活躍したのも北関東である。木枯し紋次郎もそうか。)
これに加えた冷害、浅間山の噴火などの自然災害で、
土地から逃げ出す農民も少なくなかった。
例えば、ここに登場したのが、かの二宮尊徳
彼は今でいう農業のコンサルタントのようなことを
領主に依頼され、北関東の荒廃して収穫が減り、
やる気もなくした農民の土地に赴き、農民達にやる気を出させ
農作業の改革を行い、元気な村に導いた。

これを逆にみると、皆がルールを守る優等生であったのか、
といえば、様々な理由はあったにしても、
そんなところばかりでは必ずしもなかったわけである。

もちろん、逆に、よい領主に恵まれてモチベーションの
高い地域もあったわけである。例えば、上杉鷹山米沢藩
などは、東北にあって好例なのではなかろうか。

こんな風に地域、歴史も踏まえて慎重に論を進めなくては
いけないと思うのである。

 

もう一回、つづく、、

 

 

鴻上尚史著「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」その2

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引き続き、鴻上尚史著「不死身の特攻兵 
軍神はなぜ上官に反抗したか」。
(講談社現代新書)

なぜ、特攻なんという非科学的で戦略にもなっていない戦略が
生まれたり、国家総動員の戦争遂行体制、従わないものは
非国民、なんということになっていったのか。

この本の、後半部分である。

もちろん、いろんな考察はあろう。
著者は日本人の特性に原因を求めている。

「世間」というものを大切にし、それを「所与」あらかじめ
与えらえて不変のものととらえている。
その「世間」というものに所属していると集団で生まれる
自我、「集団我」というものになりより強くなる。
そして自ら考えるということも停止する。

日本人にはこういう特性があるため、追い込まれると、
なんの疑問も思わずに、特攻や国家総動員に巻き込まれていく。

指導者側からすれば、そういった特性をうまく利用している
ということなのであろう。

これは戦後、現代まで続いている、と。

日本人論ということになろう。

社会学社会心理学文化人類学社会人類学などなど
関係する学問領域で考えられてきた大きなテーマである。
そして、そうとうに難しい。

「世間」というのは毎日顔を合わせる
自分の“所属”している集団。
この集団は利害を共有している。

古くは稲作を基本とした農業地域社会。
地縁という言い方もされる。

「世間」に対しては「社会」という概念がある。

「社会」は毎日顔を合わさない、道ですれ違う人、
居酒屋で隣のテーブルで呑んでいる人々。
また「世間」は前近代、「社会」は明治以降
近代になって持ち込まれた概念。

明治以降、稲作農業に基づいた地縁社会である
「世間」は、企業などに置き換えられ“社縁”などと
いう言葉も使われるが、現代まで生き続けている。

社会人類学者、中根千絵先生の「タテ社会の力学」などは
私も学生時代に基本書として読んでいる。

戦後70年経ち、私などが社会人になってからも
30年経っているが、どうであろうか、変わった部分も
あろうが日本社会全体とすればいまだに継続している
のではなかろうか。

このあたりのことが最近の学術分野でどのように
議論がされているのか。私自身あまり情報を持ち合わせて
いない。(あまり議論されていないのかもしれぬ。)

多様性、ダイバーシティーなんという言葉が
会社でもよくいわれるようになっているが、
変わっていない日本企業では、どうもやはり
言葉だけが踊っているような気がしてならない。

業績がよい時であれば、多様性、いいんじゃない、
ということになろう。
だが、業績がわるくなり、なんとしても数字を
作らねばいけない、という局面になると
そんなことは途端にどっかへいってしまうであろう。

戦争を遂行するために、すべてを総動員する。
特攻でもなんでもする。同じである。

東芝の「チャレンジ!」といって不正な数字を
作り続けた、なんというのも多かれ少なかれ
どこの企業でもある話しであろう。
日産など自動車会社の品質試験の不正、
直近では高層ビルの免震装置の試験結果の
偽装も然りであろう。
納期を守る、結果としては会社の業績を
達成するためには、不正でもなんでもする。
マネジメントが知っていたか。知らなかった
かもしれぬ。現場や現場に近いところの
思考ストップである。

不正に至らなくとも、数字の達成のためには
運命共同体として、なんでもする。
もちろん、営利企業であるから数字の達成は
あたり前の話ではあるが、問題はそのやり方、
部下の反応の仕方なのであろう。
パワハラ、それに伴う組織全体として思考ストップ、
という反応をしてしまう。議論は受け付けない。
崩れかかっているかもしれぬが終身雇用を背景にした
“多様性”とは反対の方向に行きがちなメンタルがあることは
事実であろう。

ちょっと横道にそれるが、最近韓国の企業と付き合う
機会があったが、こんな傾向はあちらの方がもっと強い。
財閥系の大企業などは顕著であろう。
トップが黒といえば、白いものも黒。
思考ストップである。
会議の場で一番上席の者が発言するまでは、下の者は
一切発言はしない。日本でもこういうことはなくはないが
韓国企業ではよくあることである。

「世間」というのも同様だが韓国ではもっと強いシバリがある
のではなかろうか。スキャンダルが出た歌手や女優が
自殺に至る例がよく聞かれるがそれも一例かもしれない。
私自身、実証的にもあるいは、学問的に韓国社会を熟知している
わけではないのでいい加減なことは言えないのだが。

さて。

ここまでは、まあよいのである。鴻上氏の論に賛成である。
ある程度皆様も頷かれることであろう。

問題はなぜ、こんなメンタルに日本人はなったのか、
ということである。

これがかなり難しいのである。
社会論、文化論に歴史、さらに地政学的な要因が加わり
そうそう簡単には結論は出せないのである。

先にも書いたが、こうした「世間」感覚を
著者は、農耕で結びついた地縁社会に求めている。

そしてさらにこのメンタルが“日本だけのもの”という理由に
他民族に征服されたことがないからということを
挙げている。

また「世間」というものを所与で不変のものとして
受け入れてしまうメンタルを、地震や風水害などの
天災が多い不可避な自然環境のもとに暮らしているから
という論を展開している。

そうであろうか?。

 


もう一回、つづく

 

 

 

 

鴻上尚史著「不死身の特攻兵軍神はなぜ上官に反抗したか」から私の父のこと

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鴻上尚史著「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」
(講談社現代新書)

最近読んだのだが、この本をご存知であろうか。

出版されたのは1年ほど前。
(今年「ヤングマガジン」で連載漫画化されているよう。)

話題なのかわからないが、なにかの書評で見て
読んでみた。

鴻上尚史氏といえば、なんというのか、
TVにもよく出て、柔らかいことを喋っているので、
タレントのようだが、元来は劇作家、演出家。
私などは舞台は観たこともなく、タレントの側面しかしらないので
ユニークで親しみの持てる人だなぁ、程度の印象であった。

著作を読んだのも初めて。
あの鴻上氏が「特攻隊」なんという堅いものも書くのか、という
意外性にむしろひかれて読んでみた。

内容は陸軍で9回特攻に出撃して、生き残り今は亡くなっているが
数年前まで健在で著者自身も会ってインタビューをしている。
この方のノンフィクションルポのようなものである。

新書であるが、過去の特攻隊関連の記録、著作を丹念に読まれ
書いたように本人へのインタビューも行い、かなりの力作
といってよいだろう。
だが、著者のキャラクターを反映してか内容にくらべて
かなり読みやすく書かれている。

特攻といえば海軍、それもゼロ戦という程度の知識で
陸軍にも飛行機の特攻があったことも私は知らなかった。

太平洋戦争のことはほとんどここに書いたことはない。

ただ、2015年戦後70年の夏であったか、
一度だけ書いたことがあった

私の父のことである。
私の父は終戦時20歳で、陸軍士官学校の学生、航空の通信という
部門にいた。
士官学校を卒業すると少尉で、陸軍の通信少尉ということに
なるはずであった。通信の将校がいったいどんなことをするのか、
疑問に思って、父に聞いたこともあるが、ほぼ要領を得た答えは
聞けなかった。
鴻上氏のこの作品には、ほんの少しであるが、通信の将校が登場する。
これによれば、実際に飛行機に乗って通信に携わる、という。
戦闘機、爆撃機の乗務員は皆、兵、下士官かと思っていたのだが、
将校もたくさんいた。(まあ、そういう人は、○○隊の隊長さん、だったり
したようだが。)実際に父は配属前に終戦になったので実戦には
行っていないが、本当であればなにかの軍用機に乗って、
通信任務をしていたということなのかもしれない。
なぜ父が陸士で航空の通信を選んだのかこれもあまり明瞭な理由は
話してくれなかったが、できるだけ実戦から遠いところ、
学校に長くいられる部門だから、そんなことは聞いた記憶はある。

だが、とにもかくにも、父自身あまり思い出したくない若い頃の記憶、
ということもあったのであろう。

特攻に限らず、戦争中の飛行機の話は、真珠湾攻撃であったり、
やはり海軍の方が我々の目に触れることが多かったと思われる。
我々の子供の頃も、戦争のマンガというのはそれなりに人気があり、
私なども「紫電改のタカ」(作、ちばてつや)などが好きだった記憶がある。
男の子は、戦闘機のようなものをカッコイイと思うのである。
紫電改も海軍であるが、陸軍の飛行機といえば、隼。
まあ、それくらいの情報しかなかった。
(まあ、父は「隼」ではなく中島飛行機の「キの43」などと
番号でいっていたが。中島飛行機は今の自動車会社のスバルである。)

この著作では、陸軍の航空が舞台なのでそこそこ詳しく語られている。
今の、フィリピン、インドネシア、マレーシアなどの南方に陸軍は
地上部隊として展開していたわけであるが、これに付いて、なのか、
陸軍の航空部隊も南方の島々に飛行場を作り守備、攻撃していた、
わけである。陸軍の航空の特攻もこれら南方の島々で米艦隊に
向かっていった。

この主人公は体当たりをし見事米艦を沈めた軍神として国内では
報道されていたという。
私の父などは、もちろん知っていたことであろう。
もちろん、こんな細かい話しはしたことはなかったし、
戦闘機など子供心に興味を持って、よく父に聞いたりもしたが
やはり積極的には答えてくれなかった。
これももちろん、詳しく知っていたであろう。どんな思いであったのか。

また、話をしなかったのにはこんなこともあるかもしれぬ。
士官学校生であれば、それなりの機密情報も知っていたのかもしれない。
終戦になり、士官学校の生徒であった父は占領軍が進駐してくるのに
備えて、どこか田舎の山の中に行っていた時期があったという
話も聞いたことがあった。まあ、隠れていたということである。
戦中のことは話してはいけないという意識もあったのかもしれない。
ただでさえ父は無口な方であったし、ほぼなにも聞かずに
私が大学4年の頃、亡くなってしまった。

著作の話から、父の話が長くなってしまった。
今まであまり語られたものに接する機会のなかった、
旧陸軍の航空のことを読み、父の若かりし頃のことを少し
考えてしまったのであった。

私の父は昭和2年生まれで、健在であれば91歳。
もう生きている方も少ないであろう。
もちろん実際に戦争へ行ったそれより上の人も然り、であろう。
ただ、兵や下士官ではなく、父のように陸士や海兵を出た
将校だった人は、戦争のことは語らないという選択をした人が
多かったのかもしれない。(語る人は、この著作にもあるが、
美化するような論調であった、のかもしれぬ。)

今、考えてみると、やはりちゃんと語ってもらった方がよかった。
この著作を読んで改めて思うが、過ちは繰り返してはいけないから。
様々な意味で。

さて。
肝心のこの著作のこと。

とてもおもしろく、先に書いたように読みやすいので
是非、皆様にもお勧めしたいのだが、この著作で気になったことを
少し書いてみたい。

この著作の前半、半分以上は、陸軍の航空で9回出撃して
生き残った特攻隊員のノンフィクション小説のような体裁に
なっている。

そして、後半は海軍も含めた特攻に関する
鴻上氏の論説といってよいと思われる。

日本人論、あるいは日本社会論というような切り口にも
なっている。

特攻がなぜ行われたのか?。
戦略(戦略ともとても呼べぬものではあろうが。)、としては
追い詰められ、石油も飛行機も戦艦も爆弾もなにもかも
底が見えてきて、仕方なしに爆弾を抱えて、突っ込むことを
考えた、わけである。
なぜ、こんなことがまかり通ったのか。
いや、特攻に限らない。
終戦前1年、あるいは1年半前あたりの、国家総動員
老若男女問わず戦争遂行体制の頃の我が国のことである。
「欲しがりません勝つまでは」
「一億玉砕」
なんという言葉がおどっていた頃のこと。
特攻はそういう文脈の中で出てきたものであろう。

 

つづく

 

 

麦とろ・まぐろやまかけ

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10月28日(日)夜

麦とろ、で、ある。

昨夜、なにかのTVでやっていた。
私が食べたいのもあるが、半分は、内儀(かみ)さんの希望。

麦とろというのは、麦飯にとろろ。

浅草にはご存知の方もあろうがその名も[麦とろ]という
料理やがある。
我々もたまに行っている。

麦とろ、うまいものである。

昨年であったか、とろろ汁で有名な東海道丸子宿の江戸からの老舗
[丁子屋]さんクラウドファンディングに参加し、大和芋など
送っていただき、うまさを実感した。

浅草の[麦とろ]も大和芋。

長芋もうまいが、断然大和芋。
粘りも強いし、うまみも濃厚。
もちろん、値段も高いのだが。

[丁子屋]さんから送っていただいたものを食べ終わった後、
やはり通販で取り寄せたりもしたが、それは妙にアクが強かったりし
なかなかむずかしいものであることもわかった。

今日は、近くで売っているものでやってみようと、
考えた。

先に麦飯の準備。
米を研いで、押し麦を入れ、水加減をしておく。
米二合に対して、麦90gほど。

大和芋は自転車で出たついでに、浅草松屋で調達。

棒状でそう大きなものではなくて、500円程度。

麦とろだけではさびしいので、マグロも調達。
そこそこよい中トロのサクとお安いバチマグロ赤身
切り落としを購入。

帰宅。

大和芋、群馬産である。

これはもちろん、切ったものであろう。
1/3くらいであろうか。
産地から取り寄せると一本ものの長いもので値段も
それなりに張る。このくらいの長さで十分である。

まずは、鰹削り節で出汁を取る。
量いらない。
常温に冷ましておく。

大和芋は洗って、ガスの火でひげ根を焼き切る。

皮ごとおろし金でおろす。


これは内儀(かみ)さん。

かなりかゆくなるようである。


そして、すごい粘り。
これが、大和芋、で、ある。

ここに、鰹出汁、全卵1個、酒、しょうゆ、わさび(チューブ)。


静岡県の[丁子屋]さんのレシピは味噌であったが、
やはり私は濃口しょうゆ。

出汁の量をどのくらい入れて、どのくらいにゆるめるのかの
塩梅がなかなか難しい。

この量で100cc、カップ一杯程度入れているが
このくらいでちょうどよさそうである。
また、全卵を入れると薄まる方向ではなく、むしろ
堅くなる方向のようである。

時々味見をしてしょうゆを足す。

よしよし、なかなかうまいものが、できそうである。

麦飯を炊き始める。

先に、山かけ。

中トロのサクを切って、かける。


ブツでよかったが、これは贅沢。
生の本マグロ、中トロ。

マグロにはまったく、とろろはよく合う。
そしてまた、やっぱり大和芋のとろろは、格別。

マグロ山かけ。
「マグロの山芋かけ」の省略形ということになろう。
“山かけ”は蕎麦でも使う言葉であるが
省略形として定着していたわけである。

これはいつ頃のことであろうか。

山芋をかける料理は、マグロが最も代表的といってよいだろうが、
実際にはもっとある。精力が付くという連想からかうなぎ蒲焼
にもかける。また、豆腐、納豆あるいは、ぶりの照り焼きなどに
かけたりするのは和食の定番である。
山芋自体はもしかすると、それこそ狩猟採集生活をしていた
米以前の縄文時代から食べていたのではなかろうか。
日本列島の長い長い歴史の中で様々な食べられ方がされていたことは
想像にかたくない。

ただマグロについていえば、定番の魚として流通に乗り、ちゃんと
食べられるようになったのは明治以降のことだと思われる。
蕎麦の山かけは江戸期には既にありそうだが、
マグロ山かけはそう古くから食べられてきたものでは
ないのではなかろうか。

ともあれ。

麦飯が炊きあがって、麦とろ。


青海苔を散らすべきであった。
だが、もちろん、うまい。

やはり、大和芋、単に長芋の粘り気を
強くしただけではなかろう。
味というのか、うまみというのかが、濃厚になっている
と思うのである。

うまい、うまい。

食べすぎぬよう、注意、で、ある。

 

 

 

インドカレー その2

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引き続き、インドカレー

昨日はフライパンで炒めた玉ねぎなどに
スパイスを合わせたルーを作ったところまで。

ここまでで手間のかかる作業は終わり。
あとは煮込む。

煮込み用の鍋を用意。
フライパンの中身をすべて鍋に移す。
水をとりあえず、500ccほど。

焼いた手羽先。

トマト缶、カットのもの。

これもとりあえず、半分。
トマトを入れるととろみが強くなる。

今日、目指す、サラサラから考えると反対方向なので
ちょっと控えてみたのである。

また、トマトの割合が多いと赤味が強くなる。
やはりカレーは黄色くないと気分が出ぬので
入れすぎはあまりよくない。

割合を見て、サラサラ、シャバシャバから若干
離れそうなので、さらに水を追加。

点火。

ここでカレー粉。
これはS&Bの赤缶。
大さじ1程度。

別段、スパイスのミックスは最初のルーで入っているの
入れなくともよいのだが、いつもここで
カレー粉を入れることにしている。

これは、学生時代に最初に手本にしたインドカレー
レシピにここでガラムマサラを入れるとあったものから
きている。

ガラムマサラというのは、スパイスのミックスのこと。
ガラムマサラという名前で日本でも売っているものが
あると思うが、インドでは家庭ごとにオリジナルなミックス
があるのであろう。
その家らしい味(香り)にまとめるということになるのか。

S&Bの赤缶を入れているのはカレーらしい味(香り)に
まとめる、ということである。

また、日本のカレー粉はむろん黄色い。
ターメリックを多く配合されているのであろう。
黄色味を補うという意味もあって私は入れている。

黄色を補うため、ダメ押しにさらに、別に
ターメリックを追加。

そして、カスリメティー

乾燥した葉っぱのようなものである。

スパイスというのか、ハーブというのか。

別名、フェネグリーク・リーフ。
フェネグリークというのはマメ科の野菜でその葉っぱを
乾燥したものである。

私は使っていないがこのフェネグリークの実も
スパイスとして使われている。

カスリメティーを入れると豆っぽい香りと味が加わり
うまい。
最後にコンソメ1個。

これですべてのものが入った。
ふたをして弱火で煮込む。

ただし、インドカレーのレシピはあまり長時間煮込むものは
多くないと思うが、煮込み時間は30分。
やはりスパイスの香りが飛んでいくということであろう。

ここでご飯を炊く。
今日は、残っていたタイ米の、“元”香り米。
古々米くらいであろうか。
買ってからだいぶたっているので、香りはほぼ飛んでいる。
2合分ぴったりあった。
インディカ米は浸水をしないので、洗って水加減だけをして
電気炊飯器のスイッチオン。
これだけ。

30分後。

お気付きであろうか。
今まで塩をまったく入れていない。
味見をしながら、私は最後に入れている。

塩の量は小さじで3杯弱程度であろうか。
まったく感覚で入れているのではっきりしたところは
覚えていないが。
小さじ3弱というのは大さじ1弱。
水は結局1L弱、トマト缶半分、手羽先9本、、
に対してである。
日本人の感覚としては少し多いと感じられるかもしれぬ。
スパイスが強烈なので塩味もこのくらい入らないと
感じないのであろう。塩の量が少ないと、ほぼ
味らしい味は感じない。
ただし、私のように味を見ながら塩を入れていると、
だんだんわからなくなり、つい入れすぎてしまう。
まあ、入れすぎたら水を足せばよい、のであるが。

飯が炊きあがるのを待つ。
電気が切れたら蒸らし時間も普通にとって
盛り付け。

タイ米だが日本の粘り気の多い米用の炊飯器なので、
やっぱりふっくらめに炊きあがる。

らっきょがあったので添える。

ビールを開けて、食べる。

サラサラ、シャバシャバ。
意図通りにはできた。

手羽からのうまみも出ているのであろう、うまい。
辛みはレッドペッパーで大さじ1で、私としては
標準。極辛ではないが、そこそこの辛口。

[デリー]の回にも書いたが、最近のインドカレー
とろみの強い傾向があるように思う。これは先に、脂分と書いたが
それ以外に、玉ねぎを狐色まで炒め切らずに、ミキサーで粉砕する
という作り方をしており、これもとろみになっている。
もちろん、好みではあるが、私としては原点回帰というのか、
サラサラのものが、最近はうまいと思うようになった。
これも年のせいか、な。


 
 
 

インドカレー その1

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10月27日(土)夜

さて、土曜日。

天気がよい。

ちょいと自転車で外に出て、
カレーを作ろうと思い立つ。

カレーというのは週に一度は食べたくなる。
いや、ほぼ必ず食べているといってよいだろう。

だが、ウィークデーに食べるということは
なぜか私の場合はほぼない。
それで、カレーは土日が多くなってくるのである。

どこか外のカレースタンドなどで好物のカツカレー
とも思ったが、少し時間があったので、久しぶりに
インドカレーを作ることにした。

私のインドカレーは学生の頃から作っているもの。
ということは、30年は作っていることになる。
その間に、日本のインドカレー事情も随分と変わっているし
私自身も様々なものを食べてきた。
それで、レシピもできるものもいろいろな形を
経てきた。だが、今日は最初に作っていた水気の多い
シャバシャバなものに戻ってみようか、と考えた。
先日の、上野[デリー]の回に書いたが、最近の
インドカレーの傾向はバターチキンだったり、
脂分の多い、とろみの強いものが多くなっているように思う。
ちょっと原点に戻ってみようか、ということである。

肉は鶏で、うまみの出る骨付きにしよう。
骨付きでも腿(もも)は扱いがたいへんなので、手羽先が
よろしかろう。

ハナマサで買って帰宅。

玉ねぎ、1個半をみじん切り。
にんにく、生姜を大さじ1ほどみじん切り。

大きめの皿に玉ねぎをのせ、上にバター1かけら。
レンジで10分。
フライパンで狐色まで炒めるのだが、その下ごしらえ。

途中で、一度かき混ぜる。
10分経過。
10分くらいではまだまだ。

ん!。
トマト缶がなかった。

もう一度、レンジ10分をしかけ、買い足しに出る。

帰宅。

あれま。追加の10分は長かった。
焦げもできてしまった。

にんにくと生姜は、ここから炒め始める。
今までレンジで玉ねぎと一緒に下ごしらえをしてきたが、 それでは香りが出ていないことに気が付いて、 今日は別にし、炒めることにしたのである。

サラダオイルで炒め、ここにレンジで下ごしらえをした
玉ねぎを合わせ、弱火で炒める。
玉ねぎの方はこんな感じなので、軽くでよいだろう。
置いておく。

フライパンで手羽先を焼く。

両面。

軽く焦げ目がつくまで。
これも置いておく。

スパイスの用意。

スパイス類は挽いていないホールのものなので
つぶさないといけない。

大きなあたり鉢とスパイスセットを用意。
座って作業。
クミン。

ガルダモン。

殻に入っているので、はさみで切って中の種を出し、

つぶす。

次はフェンネル

コリアンダー

コリアンダーはご存知のパクチー
その種。なので、正確にはコリアンダー・シード、
で、ある。

パウダーにするのはこんなところ。
混ぜたもの。

キッチンに戻り、フライパンの玉ねぎ、にんにく、生姜に
大さじ1ほどの水を加えて、今つぶしたミックスを合体。

点火し、弱火でよく和える。
よく和えるのはポイントである。

レッドペッパー、大さじ1。

よく和えて、ターメリック

これはパウダー。やっぱり一体にする。

最後に、ホールのまま入れるスパイス。
シナモン、クローブベイリーフ

油を少し加えて、炒める。

炒めるのは香りを出すため。




つづく