浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。
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歌舞伎座・吉例顔見世大歌舞伎 その6

dancyotei2017-11-15


引き続き、11月の歌舞伎座「顔見世」の昼、
「雪暮夜入谷畦道」。


この芝居に、黙阿弥や五代目菊五郎は、江戸の粋、
江戸の美意識をこれでもかと押し込んだ、といってよい
のであろう。


結局、この芝居はなんであるか、というお話である。
明治の14年3月が初演。


ちょうどこの3月に上野でなにが起きていたか。


「第2回内国勧業博覧会」という国内の見本市というようなものが
明治天皇をお迎えして、華々しく始まっている。


まあ、まさに文明開化真っ盛り。


この芝居の本当の外題は「天衣紛上野初花
(くもにまごううえののはつはな)」。


どちらも上野、そして同じ3月。


これは決して、偶然ではない。
黙阿弥先生や五代目菊五郎は、明らかにぶつけたのである。


もちろん、興行的な意味も大きい。
日本全国から、田舎の人々がこの博覧会を見にくる。
東京に出てくれば、東京見物をする。
そのコースには、芝居見物はまず含まれる。


そして、その芝居の内容が、昨日まで書いてきた、
そばやであり、入谷大口屋の寮、なのである。


これを、田舎から出てきた人々に見せたかったのである。


まあ、私が参考書にしている、渡辺保氏の説といってしまえば
それっきりだが、私はそんなに的外れではないと思うのである。


いやむしろ、我が意を得たり、なのである。


明治初年からこの明治14年までに、実は黙阿弥翁は
散切りもの、今いう当時の現代劇をなん本も書いているのである。


ただ、どうしても風当たりが強い。
あまり成功はしていない。


江戸期にもお上(幕府、奉行所)の管理下にあって、
様々な統制があったわけだが、明治になってからは、
明治政府、そして、政府系の文明開化論者のような者どもが
演劇改良運動などと称して、ああだこうだと、いうように
なってきたのである。


九代目團十郎など、歌舞伎界でもそちらにつく者もあったが、
黙阿弥は距離を置いた。


明治期も黙阿弥翁は「江戸演劇の大問屋」(坪内逍遥)などと
呼ばれ、歌舞伎界ではとてもとても大きな存在であったわけである。


俄か西洋かぶれの者どもにとって、とても太刀打ちできるような
相手ではなかったのであろう。距離を置いたのは黙阿弥の方ではなく
彼らの方だったのかもしれぬ。


歌舞伎界だけでなく、当時の東京はやはりそのような
状況だったのではなかろうか。


明治新政府は、江戸生まれの人々にとっては、薩長の田舎っぺい。
だが彼らが上から下まで権力を握り、
肩で風を切って東京の街を闊歩していた。


うまく取り入らないと、仕事もない、
そんなこともあったはずである。


幕臣など、取り入るのを好まなければ、田舎に引っ込んだり、
過去を隠して、東京でひっそりと暮らしていた人も多かった
であろう。


そんな時に、黙阿弥達はこの芝居で、こだわったこだわった
江戸を見せた。


江戸というのは、こんな素晴らしいものであった、と
これが江戸の芝居だ、どうだ、お前たちにわかるか?、と、
田舎者達に見栄を切りたかった。


文明開化真っ盛りの頃に、こんな芝居をぶつけるというのは、
そうとしか考えられないではないか。


時代錯誤といってしまえばその通り、かもしれない。


だが「江戸演劇の大問屋」はどうしても
こういう芝居を作らずにはいられなかったのだと
思うのである。


これは、黙阿弥や五代目菊五郎だけでなく、江戸で生まれ育った一般の
人々も多かれ少なかれ、抱いた当り前の感覚であったとも思うのである。
誰だって、自分達のアイデンティティーが壊されるのを
快くは思わなかろう。
(本題とは離れるが、実際、江戸っ子、という言葉はむしろ明治以降、
東京生まれ育ちの者に、明確に意識されるようになっていった
のではなかろうか。)


ともあれ。


実際のところ、明治になって東京から江戸色のようなものが
意図的に、その後、時代の流れの必然として、
消えていったのは紛れもない事実であったろう。
(東京生まれの人間としては、悲しいことだが。)


しかし、江戸の、歌舞伎であれば南北、黙阿弥など
特に文化文政以降に生み出された歌舞伎、落語、などの
言葉を使った表現芸能の質的な高さ、人間に迫ってくる深さというのは、
今となっても私は色褪せないものであると思っている。
(そばの食い方やらそばやでの振る舞いだけでなくて。)


さてさて。


長々と、私とすれば、大真面目に書いてきたが、
引いて考えてみるとそばやでなにを食うか、どう食うか、
など重箱の隅をつつくようなこと、まあ本当はどうでもよいこと。
好きなものを、好きなように食べればよい、とも思うのである。


ただ、過去、やっぱり大真面目にこんな芝居にまで
している役者や脚本家がいたということ。
これを、皆さんに知ってもらいたいのである。


これがまぎれもなく、江戸東京のそばやでの男の食文化
なのである。
池波先生なども書かれていたが「男の作法」まあ、今風に言えば
マナーがあったのである。


それだけ、江戸東京の男にとってそばやというのは
大切な、大切な、檜舞台だったのである。
(笑っちゃうかもしれないが。)


だがこれ、まさしく、これが重要無形民俗(?)文化財であろう。


歌舞伎、顔見世から大分離れてしまったが、これでお仕舞。


最後におまけ。


玉子のヌキ。



これはまあ、見た通り、生玉子をそばつゆに落としたもので
それ以上でも、それ以下でもない。


天や、鴨のヌキなど、他のもの同様、酒の肴になるかと
いわれると、やはりちょいと心許なかった。
(玉子二つくらい入れればばまだよいか。)



お付き合い、いただいた皆様に感謝。





画 国周 明治14 年(1881年) 東京 新富座 天衣紛上野初花
片岡直次良 五代目 尾上菊五郎 大口抱三千歳 八代目岩井半四郎


※これも初演時のものである。




参考:黙阿弥の明治維新 渡辺保 1997 新潮社