浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)
断腸亭料理日記本店
 

上野・インドカレー・デリー

3月14日(水)夜



帰り、上野のカレー店、デリーに寄る。



と、書いてしまうと、簡単なのだが、
実のところ、終着がデリーだった、ということではある。


久しぶりに鮨の一心


はたまた、お馴染みの池の端藪蕎麦


または、上野藪蕎麦


毎度、ではあるが、とんかつ井泉


餃子もいいか。


昇龍


この内、池の端藪、上野藪、井泉、昇龍は水曜休み。
なのであるが、昇龍へはそうとは知らずに、店の前まで
行ってしまった。
(他のところは、頭の中で考えただけではあるが。)


で、最終的にたどりつたのが、カレーのデリーであった。



しかしまあ、この、上野御徒町界隈は、おもしろい街、
ではある。こうして少し考えただけでも
おもしろい食い物やが、随分とある。


上野の盛り場、としての歴史は、それこそ、江戸の頃の
寛永寺門前の広小路、不忍池の畔(ほとり)、
池之端にさかのぼる。
銀座などは明治以降だし、東京でもおそらく、
浅草、日本橋などに次いで、古い盛り場、といってよかろう。


料理茶屋、上野山下のケコロなどといわれた岡場所、などの色っぽいところ。
または、今、残っている老舗を挙げても、松坂屋などの呉服店
櫛、組紐などの小間物関係の店、または薬、その他、様々な商店。
加えて、広小路には露店、小屋掛け芝居、見世物なども
将軍様寛永寺お成りの際には取り払いが可能な状態で
路上に出ていた。





明治以降は、このあたりは、花柳界、芸者さんのいる、
花街として、名をはせるようになる。


下谷(上野、ではなく下谷花柳界の最盛期は戦前、大正期。
1922年(大正11年)で料亭28、待合108、芸妓屋231。


同じ時期の東京の花柳界では、政界御用達だった新橋がNo.1、
次が正統派江戸前芸者の柳橋、その次が兜町や蛎殻の相場師達で
にぎわった芳町人形町)、で、その次がこの下谷、で、あった。
とんかつの発祥はこの街でこの頃、と、いってよいだろう。


戦争で焼け、戦後は上野の大闇市が発生。
これが今のアメ横の起源。


下谷花柳界も戦後、復活はしたが、戦前の繁栄には戻らず、
今のちょっと、場末っぽい、クラブ(今はキャバクラ)街に
なっていった。


江戸の頃の痕跡も多少は残しつつ、明治、大正、昭和、
戦後、と、種々雑多なものを呑み込んで出来上がっている街。


ちょっと新宿に似ていなくもないが、随分とB級(?)。
それは東京東部、東北部、北部、=東京の新下町、を代表する
ターミナル、盛り場であるから?。


まあ、歴史、時代をたどって、やっと、今の上野が
なるほど、と腑に落ちる。そうでなければ、まるで
とらえどころのない、不思議な街ではあろう。


ともあれ。


カレーやのデリーであった。


場所は、春日通り沿い、広小路との交差点から、
湯島方向に歩いた右側。


創業31年、場所もこの場所。
経営は日本人。


上野界隈に集中する、闇市起源の宝石関連の店々。
宝石とくれば、インド人。(昔から彼らはワールドワイドで
宝石に携わってきた。)
そこから、上野界隈には、カレーやが増え、今でも少なからず、
界隈にはインド料理店がある。
デリーは、経営が日本人なので、それと直接関係あるのかどうかは
わからないが。


カウンターと二人用のテーブルが2〜3と狭い店。


きてみると、珍しく、5〜6人の列。
TVででも取り上げられたのか。


ここで長居をする人は、あまりいない。
10分程度で入れた。


私は、最近はここへくると、もうメニューは決まっている。


生ビールに、タンドリーチキンとサラダ、
好きなカレー、というセット。


カレーはもちろん、カシミール
ここへきたら、これ以外、ない。
(むろん、他のカレーもうまいが。)


このカシミール、とにかくべらぼうに、辛い。
なにも注文をつけない、標準品でもそうとうに辛い。
が、辛いだけでなく、うまい。


タンドリーチキン&サラダ。





タンドリーチキンが最近うまくなったのではなかろうか。
とってもジューシー。


これがカシミール





この黒に近い濃い焦げ茶が、いかにも辛い。


一口食べると、顔中から汗が噴出す。


二口、三口、もう、汗が止まらない。



だが、これが、なんとも気持ちがよい。



辛い、うまい。



辛い、うまい。





食べ終わった時の充実感。


爽快、で、ある。






デリー