浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



隅田川花火大会

dancyotei2013-07-29


7月27日(土)

引き続き、土曜日。

今日は、隅田川の花火大会。

私の住む浅草だったり、対岸の墨田区に住んでいる人々は、
年に一度のたのしみにしている大イベントということになろう。

今もそうなのかはわからぬが、
私が10数年前、今住んでいる、マンションを買う際にいわれたが
この界隈の新築マンションは、花火の見える隅田川側から売れていく。
我々の場合は、ぐずぐず考えているうちに、川側が売れてしまい
西側で、部屋の窓からは花火は見えない。(身を乗り出せば見えないことも
ないのだが。)

先般の、東日本大震災では時期が近かった三社祭は中止になったが
花火だけはというので、開催時期を遅らせたが、震災復興祈願
という副題を付けて月遅れだが、途切れずに開催された。

隅田川の花火大会というのは、他の花火大会とは
意味が異なっている。

ご存知かと思われるが、歴史は古い。

起源は、今をさかのぼること、280年前。
むろんこの土地が、江戸と呼ばれていた頃。

1733年(享保18年)、将軍は吉宗。

その前年、全国的な飢饉に加え、コレラの大流行で、
江戸市中でも多くの死者が出た。

この亡くなった人々の魂を鎮めるために、
お盆の行事として両国橋で花火が行なわれた。

それ以来、場所は両国橋付近で、旧暦の5月28日、
隅田川の川開きの日にあげられるようになった。

その後の歴史は、以前『講座』で書いているので
引用してしまおう。

日本橋横山町の鍵屋弥兵が両国橋の下流、西両国広小路の
玉屋市朗兵衛(鍵屋から独立したともいい、随分後の1808 年
(文化5年)創業) が上流を受け持った。
享保から始まった川開きの花火は、人々の人気を博し、
花火の製造技術は年毎に進歩し、享保から90年後の寛政年間には
既に多種多様な花火が生まれていたという。
さらにその50年程度後、幕末も近い1843年(天保14年) 玉屋は火事を出し、
江戸所払(ところばらい)になり、以後鍵屋のみとなる。
墨田区史より)」

有名な玉屋、鍵屋である。

落語で花火というと『たがや』が有名だが、
この枕でも必ず触れる、狂歌がある。

橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋といわぬ情 ( 錠 ) なし 

これはお取り潰しになった玉屋に肩入れした江戸っ子が
玉屋、玉屋、といったから、という説明をされるが、
真偽のほどはわからない。

落語『たがや』でも描写されるが、両国橋の上は人で一杯。
隅田川にも、舟の上を歩いて対岸に渡れるほど、といわれるが、
見物客の舟とその客に物を売る舟で川面はびっしりと埋められていたという。

江戸の頃はむろん、明治以降、戦前まではこんな状況であった。

戦後、川の汚染と交通事情の悪化を理由に、
1960年(昭和35年)に一度中断。

高度経済成長真っ只中。
ちょうど我々の世代が生まれた頃であった。

やはり、我々が生まれた頃には、それまでわずかながらも東京にあった、
江戸の香りが完全に消滅した頃、なのである。

私自身は育ったのは練馬なので直接は知らないが、
当時の隅田川のにおいはひどいものであったという。
(我々の子供の頃は、隅田川に限らず、
東京中の川がひどいものであった。)

ともあれ。

下水道も整備され、隅田川沿いにたくさんあった工場も移転やらして、
汚水を流さなくなったのであろう。川の水も徐々にきれいになり、
地元の熱烈な要望で、場所は浅草付近に移され、1978年(昭和53年)に
20年弱のブランクで、今の形で再開された。

そんな歴史的背景を持った、隅田川の花火大会。

東京下町、隅田川沿いに住む人間にとっては、祭同様、
地域の、ある種のアイデンティティーといってもよい。
誇るべき、隅田川の花火大会、なのである。

で、もう、昼間っから呑んでいる。



この前の、やきとんやの流れで、例の「キンミヤ」の焼酎を
多慶屋で手に入れてみた。

ハナマサで買ったホッピーと、豚のタンをフライパンで焼いたもの。

確かにこの「キンミヤ」焼酎はそのまま呑むと、微かに甘い。
真露などの韓国焼酎にちょっと近い感じであろうか。
あるいは、角がなく呑みやすい?。
(ただ、正直大騒ぎするほどのものではないようにも思う。)

夕方、例年通り、内儀(かみ)さんが、天ぷらの[蔵前いせや]で
天ぷらのサンドイッチ「天サンド」を買ってくる。





枝豆やら並べて、呑み始め(呑み直し?)、
19時、第一会場が打ち上げ開始。

これは毎年、TVで視る。

我々の住む元浅草は、第二会場の真西なので、
こちらが打ち上げだしたら、浴衣に着替えて、下の路地から見る。

が、しかし!。

ご存知のように、第二会場が打ち上げ開始した直後、
土砂降りの大雨。

我々も様子を見に、階下へ降りてみると、外へ出ていた
近所の皆さんが濡れ鼠になって、駆け込んできた。

花火師他、準備、運営をされていた方々、あるいは、多くのずぶ濡れになった
見物の方々には気の毒でならないが、天候には勝てない。

第一会場だけでも見られたのはまだよかった。
(もう少し前に降って、延期になればまだよかったのか?)

ただ、隅田川の花火大会はやはり、続けるているのが
肝(きも)のように思う。

こういう回も280年の長い歴史の中の1ページとして
記憶に残るもの、なのであろう。