浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



月遅れの隅田川花火大会

8月27日(土)夜


と、いったところで、来月は、通常の『講座』と
『落語会』と、2本立て。


準備がちょいと、たいへん、で、ある。


ちなみに、来月の『講座』の場所は、人形町
これは、昨年度は行っていない、新規の場所、
で、ある。
このため、下調べ、資料作り。
この週末も、朝から、びっしり、で、ある。


で、落語の方はというと、そうそうすぐにできる
ネタが多いわけではなく、ご存知の方は、ご存知のもの
になりそう。
先週、一度、さらってみたが、なんとかなるかと、
思ってはいるのだが、、、。


まあ、そんな一日、なのだが、今日は、
隅田川の花火大会の日。


震災の影響で、月遅れの開催、ということになった。


今年は、三社祭をはじめ、5月前後にある
下町の名だたる祭りが、軒並み中止。


浅草の商店会などは、せめて、花火だけは、
というので、例年、子供が夏休みに入った最初の土曜だが、
一月遅れた、今日、8月27日、と、なった。


いろいろな、都合があったのであろう。
5月頃のお祭りは、自粛、節電、その他、
警視庁のお巡りさんも、被災地へ支援にいっており、
祭り警備どころではなかったのかもしれない。


8月末になれば、少し落ち着いているだろう、
と、いうことか。


ともあれ。


地元の人間としては、やはり、
開いてもらって、よかったと、思う。


家でも、内儀(かみ)さんが、毎年買っている、
天ぷらやの、蔵前いせやで、特製の天サンドを買って、
路地に降りて、花火見物を、することができた。


三社祭などの、氏神様の祭りもさることながら、
隅田川の花火大会は、単なる、地区の花火のイベント、
ではない。


ご存じの通り、起源は、江戸の頃、
両国の川開きにあげられた花火。
戦後の若干の中断はあったが、300年の歴史がある。
たがや、という落語にもなっている。


下町の年中行事であり、氏神様のお祭りではないが
限りなく、それに近い。
隅田川沿岸に住む人々の、ハレの日、
と、いって、やはりよいのだと思う。


そして、本来、両国花火は、お盆の行事、川施餓鬼、
というものとして始められている。


1732年(享保17年)吉宗の頃。
全国的な飢饉に加え、コレラの大流行で、
江戸市中でも多くの死者が出た。


最初の花火は、それらの人々の鎮魂のためのものであったのである。



NHKで、少し前に被災地のお祭りを取り上げていた番組を視た。


岩手、で、あったか、の、海辺の町で、山車を引き廻す七夕。
あるいは、福島相馬の野馬追。


なんにもなく、ガレキだけになった、海辺の町の通りを、
なんとか、被災をまぬがれた山車を、曳いて廻る、
人々の姿に、やはり、感動の涙を禁じ得なかった。


お祭りといえば、遠くへいっていた家族も帰り、
町もにぎわい、華やかなものであったはず。


家や親族、思い出、その他、すべてを失った、なんにもない町で、
見物人もないところで、お囃子をし、山車を曳く人々。


番組で、解説をされていた方も仰っていたが、
これだけ純粋な祭りはないだろう。


本来、祭は、その地域共同体の人々が、自分達のために
行なうもの。見物人や、なにかのためにするものでは
むろん、なかった。


この純粋な姿には、なんにもなくなっても、
俺達は、ここで生きていくのだ、という強い決意を感じた。


人々が、百年、二百年、三百年と、長い時間その土地に住み、
歴史を積み重ね、その人々の日常、民俗学的にいえば、
ケ、のウサを晴らし、生まれ変わって、また新しい
日常を暮すために、ハレ、の、祭は行われてきた。


日本の祭は、その土地を離れては存在しない。


隅田川と離れては、花火大会も、また、
なんの意味もない。


この震災で、あらためて、我々は、
自分達の住み暮らす土地の上で、先祖から培ってきた生活と、
そこで生まれた文化の総体がアイデンティティーであり、
自分達そのものであることを、思い出している。