浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き7月 その5


7月16日(土)



さて。



今週も、引き続き、7月の『講座』。
深川、万年橋界隈。
もうしばらくの、お付き合いを。








前回は、万年橋北詰を、隅田川側に折れたところにある
芭蕉稲荷と、正木稲荷。


正木稲荷をすぎて、さらに、隅田川っ縁に歩くと、
目の前は、隅田川の堤防。


堤防に左側と、右側に上がる階段がある。


先に、左側の階段を上がる。


上がったところは、ちょうど、小名木川
隅田川につながる、角。


そして、前方、左手に、清洲橋が見える。


隅田川の広い川面が眼前に開け、清洲橋とともに
よい眺め。


ちょうど、この堤防の上の角のスペースに
芭蕉翁の像がある。


私もそうだが、今回の皆さんも俳句にも
芭蕉翁にもあまり、ご興味はなさそうなので、
炎天下でもあり、早々にここは後にする。


一度、今来た、堤防の階段を降りて、もう一度
反対側、北側の堤防の階段を上がり、川縁のテラスに降りる。


ここからは、しばらく、テラスづたいに北上する。


このあたりの隅田川は、眺めがよい。


北側には、新大橋も見える。


しばらく歩くと、次の階段がある。


江戸の地図を、見ていただきたい。


新大橋が書かれているが、その北側に、現代の
新大橋を書き入れた。


江戸の頃は、今よりもずっと南側、
ちょうど、このあたりにかかっていた。


隅田川に最初に橋が架けられたのは
1594年(文禄3年)の千住大橋
まだ、家康が征夷大将軍になり江戸に幕府を
開く前、で、ある。


江戸移封が決まり、本拠を江戸に決め、城下町の
建設を始めた頃である。
江戸から北へ向かった、奥州街道の橋として
千住大橋を最初に整備をした。


次が両国橋。
千住大橋よりは、随分と時代が下り、1659年(万治2年)。


万治というのは、明暦の次。明暦の大火で江戸中が
焼かれた。


幕府はこれを機に、江戸の町の区画整理をし直している。


中心部にあった、寺を浅草や麻布などに移転させたり、
また、吉原を浅草北部へ移転させたり。
そして、城下の人口の増加などにともなって
隅田川を東へ渡った本所深川の開拓開墾を始めたが
この頃で、それに合わせて、両国橋を作った。


三番目がこの新大橋で1693年(元禄6年)。


当時、両国橋が“大橋”と呼ばれていたのに対して、
新大橋となったという。


長さ百十六間。
約、210m。





より大きな地図で 池波正太郎と下町歩き2011・7月・深川 を表示



現代の地図で、このあたりの川幅を測ってみると
135m。
川幅はそうとうに、狭くなっているのがわかる。


また、対岸の日本橋浜町
今は首都高が通っているあたりより
隅田川側は、日本橋中州、といっている。


江戸の頃は、文字通り、大川の中州で町になるのは
明治以降。


新大橋は、その浜町側の最も川幅の狭いところに
架かっていたという格好である。


元禄6年頃、というのは、ちょうど、芭蕉
ここに住んでいた頃。
芭蕉庵からもこの橋が見え


有難や いただいて踏む橋の霜


の句を詠んでいる。


ちなみに、新大橋の5年後の1698年(元禄11年)に
下流の新川と、深川佐賀町を結んで永代橋が架けられている。
さらに、下って1774年(安永3年)に浅草の吾妻橋ができ、
江戸時代にはこの五橋で打ち止めとなった。


さて、もう一つ。


江戸の地図の、新大橋の、東の袂に『御籾蔵』
というのが書かれているのがおわかりになろう。


これは、松平定信寛政の改革によって、
できたもの、で、ある。


七分積金、という言葉を聞いたことがある方は
おられようか。


寛政の改革というのは、田沼政治の後の
禁制ばかりがよくいわれるが、これは、評価されている
政治、といってもよいようである。


なにかというと、いわゆる町入用(いりよう)という、
町の税金を減免し、その七分を詰めたてさせ、
その金で、飢饉に備えた籾の備蓄をした。


御籾蔵は、その蔵のことであったのである。
当初、向柳原、その後、当地と小菅に設けられた。


この籾の備蓄は、その後の天保の大飢饉や、幕末にかけての
物価高騰時などに大いに江戸の窮民を救済したのである。


さらにこの備蓄は明治に入り、新政府の管理になり、
東京市によって銀座煉瓦街の整備など
近代社会基盤整備資金に使われた、ということである。



白河の清きに魚の住みかねて 元の濁りの田沼恋しき



なんという狂歌が、定信の改革の頃、詠まれたという。
(白河は、福島県の白河。定信の領地が福島の白河であった。)


どうして、どうして、定信の政治は、後の江戸、
さらには、明治に世の東京にまで、役に立っていたのである。




続きは、またあした。