浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き2月 その9

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NHK文化センター、断腸亭の『池波正太郎と下町歩き』


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NHK文化センター

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グーグルマップ。




より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き2月 築地〜銀座 を表示



ルートマップ





江戸の地図





さて、引続き、2月の『講座』。



築地市場の中、で、ある。
今日は、市場はやっている日、で、あるが、
もう河岸の人々は終了。
仲卸の店も、ほとんどが閉めている。


勝鬨橋の門から入っていくと、右側が駐車場のビル。
正面にある奥に長い建物が、仲卸の区画。


これは奥に長く続き、丸く右にカーブしている。
このあたりの、建物のレイアウト、設計が、
昭和初期、ドイツの機能主義デザインの影響という。
むろん、修繕はしているのだろうが、概ね、この頃から
使っている建物。年代もの、で、ある。


仲卸の建物の前を右に曲がり、真っ直ぐ行くと、
海幸橋の出入り口。(いわゆる「場外市場」、側の出入り口)


江戸の頃の地図を見ていただくとわかりやすいが、
今は埋められているが、軍艦操練所の南は築地川。
海幸橋はその跡、である。


その旧築地川沿いの狭いスペースに、
場内の飲食街がある。(鮨やだの、洋食、その他。
よくTVなどにも紹介されているところ、で、
行列にもなっている。)
この突き当たり、フェンスに囲まれた、
ほんの小さな区画だが、魚河岸水神社、がある。


お宮は、築地川跡へ向かって一番奥。
石段があり、少し高くなっている。


魚河岸水神社は、佃の漁師たちが大漁・海上安全と
子孫繁栄を祈願して祀った「大市場交易神」がはじまりという。
明治34年神田明神の境内に「水神社」本殿を建立し、
ここに遥拝所が建立された。


神田多町の青物市場も神田明神氏神にしているが
日本橋魚河岸にあった魚市場も、神田明神との
関係が深い。


この、水神社の入口に入ったところに、水神社とは
まったく関係のない、大きな石碑が一つ建っている。


これは、旗山・浴恩園跡、というもの。


なにかというと、やっぱり、江戸の地図を見ていただきたい。


この地は江戸期松平定信下屋敷「浴恩園」であった。
(地図には「一橋殿」と、書かれているが、定信隠居後、
ここを一橋家から借りて、住んだということである。)


明治5年、海軍本省がこの南の旧尾張藩邸に置かれると、
浴恩園内の築山の上に「海軍卿旗」が掲揚され、
この山は旗山と呼ばれということ。
で、ここに、海軍発祥の地として”旗山”と刻まれた碑を建てた、
ということである。


建てられた年代を見てくるのを忘れてしまったが、
おそらく、築地市場ができた頃かそれ以前であろう。
それまでは、ここは海軍関係の施設で、それを移転させて、
市場ができているためである。


再び、飲食街の前を通り、海幸橋口から出る。
右側、築地波除稲荷。


この神社は、築地埋め立ての頃に縁起はさかのぼる。


築地一帯は江戸開府当初はまだ、海、であった。
いつできたのかというと、明暦大火後。(後述)


築地埋め立ての工事は困難を極めたらしい。
海面に光りを放って漂っていた稲荷大神御神体をひきあげ、
お祀りしたところ、波風がおさまり、工事は進んだという。


そんな縁起のある、築地波除稲荷。
魚河岸の人々の庇護が厚いのであろう、
なかなか立派な神社である。


ここから、場外の人込みをかき分け、新大橋通りまで出て、
右、再び場外の人込みをかき分け、晴海通りの交差点。


晴海通りを渡って、本願寺へ。





廣重 江戸名所百景 鉄砲洲築地御門跡


築地本願寺西本願寺・築地御門跡(ごもんぜき))
真宗本願寺派本山本願寺(西)の別院として1657年(元和3年)に浜町に創建。
明暦の大火(1657年)で焼失後、埋め立て地の築地へ移転。
この際、佃島門徒が埋め立てに携わったという。


現在の建物は震災後、昭和9年に再建。
インド様式の石造り。本堂内は伝統的な真宗寺院の造り。
翼を持った獅子を始め、建物の中にも不思議な動物達が
デザインされている。


「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、


嘘を築地の御門跡、志やれの内のお祖師様、


いやじゃ有馬の水天宮」


なんという地口(シャレ)も思い出す。
浅草も本願寺は門跡、と、通称していたが、
こちらも、門跡、で、ある。


ここへ寄ったのは、実は、これを見るため。


森孫右衛門供養塔。


こんなものが、ここにあったのは、びっくり。


憶えておいでだろうか、森孫右衛門は佃島の初代名主。
建てられたのは、幕末1861年文久元年)孫右衛門の二百年忌。


佃の人々には、浄土真宗の信徒、門徒、が多かったのだろう。
それで、築地の埋め立てにも参加したのである。
(幕府も、ひどいものである。この海を与えるから、
自分達で埋め立てろ、ということであった。)


ついでだが、すぐそばに、江戸琳派の大立者、
酒井抱一の墓もある。
彼も門徒であったということだろうが、大名家の人間にしては、
囲いもなにもなく、他の塔などと並んでいる。


本願寺を出て、右。
路地を渡って、右側。
佃煮の佃茂


前にも書いたが、若旦那と若女将がお知り合い。
(実は、寄ってくれ、という言葉をいただいていたのだが、


着いたのが、予定よりも遅れ、お留守だったが、
皆さんに、と、おみやげまで、いただいてしまった。
ありがとうございます。)





といったところで、
また明日。