浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)
断腸亭料理日記本店
 

下町のにおい、山手のにおい・その4

さて、今日は昨日のつづき。


「下町のにおい、山手のにおい」という題で書いているが、
実のところ、私の考える“下町のにおい”、なるものに
ついて考えている。(山手の話、ではない。)


昨日は、


1.「下町のにおい」は、具体的なモノ、ではなく、


  人についてである。


2.「下町のにおい=下町人らしい行動様式や考え方」


と定義した。


それに付随して、じゃあ、『人』の対立項である、
「下町らしい『モノ』」はどんなことなのかについて、
少し、考えてみた。


話が途中であったが、どうも、下町らしいモノ、
とは、古い、ということと密接な関係があるということ。
それは、昔のリズムを発信しており、心地よいものである。
あるいは、素晴らしいものでもある。
古い、と、いう意味では、人によっては、町ではなく、
農村でもよい、ということ。


そして、生き方、とまでいえず、趣味、スタイルで、
十分満足できるものであるということ。
(もちろん、生き方の人もいるが。)


そして、では、逆に、
「下町人は、下町らしいモノ、が好きなのか」
あるいは、下町で生まれた、若い人はどうなのか?
と、このあたりに話が進んできたところであった。


考えていくと、これは、大きなキーになりそうなのである。
(というのも、昨日書いた。)



だが、それはそれとして、まわりばかりを考えても
前に進まない。それはまた、別の機会にするとして、
「下町のにおい=下町人らしい行動様式や考え方」
を、わかりやすく説明するのが本論であった。
一度、ストレートに、これを考えてみよう。


私が思う、下町人らしい行動様式を挙げてみると、


例えば、


飾らない。



「江戸っ子は皐月の鯉の吹流し口先ばかりではらわたはなし」。


これは、落語の江戸っ子を評する言葉、で、ある。
江戸っ子をきちんと、定義をしようとすると、
時代による変遷など、面倒くさい。以前に、一度、試みたことがある


一応のところ、それを踏まえて、いわゆる江戸っ子と
私がいっている下町人のメンタリティーを同じとして、
ここでは、江戸っ子=下町人と読み替えよう。


ただし、ここでまた問題になってくるのは、
落語や芝居に出てくる江戸っ子と本当の江戸人=下町人が同じか、
と、いえば、これはこれで、明らかに違っている。


池波先生などは、江戸っ子という言葉が嫌いであった。
エッセイなどにも書かれているが、江戸っ子という言葉は
使わずに、江戸人、東京人という言葉を使っている。


今、現代においては、その江戸っ子、という、
言葉自身ももはや、死語、で、あろう。


少しだけその説明をすると、
落語や芝居で描かれる江戸っ子は、気が短くて、
ポンポンいう。喧嘩っ早い、やせ我慢、正義感が強い。
曲がったことが嫌い、一本気。
歯に絹を着せない、、、。あるいは、ちょっとした
無法者、、。
(落語、大工調べ、の棟梁、、、。
雷門のうなぎや、色川の親方、、、?)


しかし、実際に、そうした人は、江戸人、東京人には、
そうはおらず、初対面の人に早口でまくし立てる人
ばかりが江戸っ子ではない。
むろん、もっと常識人である。
落語や芝居に出てくる江戸っ子は、いわば、デフォルメされ、
カリカチュアされた姿である。


以前に、江戸っ子という言葉が一般的であった頃は、
江戸っ子風を吹かす、などというが、そうしたデフォルメされた姿を
ある意味演じた、わざと、そういう風に振舞う、という、ある種の
俗物、似非(えせ)江戸っ子の風があり、
そんなものを、池波先生なども嫌ったのではある。


そこで、もう一度、言葉を整理すると、江戸っ子ではなく、
池波先生のいう、江戸人を=(イコール)下町人と、
してみよう。


では、池波先生は、その代わり、そうした手垢にまみれた、
江戸っ子ではなく、江戸人とは、なにかに対して、
一言でいえば、『真摯』である、と、書かれている。


先に述べた江戸っ子の形容詞群から、いきなり『真摯』
と、いわれてしまうと、これはまたわかりずらい。
私もこの江戸人の本質は、『真摯』である、というのを
初めて聞いて、はて、そういうものか?という思いであった。


それが、45歳を超えて、この頃、段々にそういうものか、
と腑に落ちるようになってきたのではある。
この間を埋めて、わかりやすく説明をするというのが
どうも、難しいのである。


自分対して、恥ずかしいことをしない、とでもいったらよいのか、、。


なにか、段々、大上段に振りかぶったことになってきてしまったが、
最初に出した「下町のにおい」という言い方は、そんな大袈裟な
ものではなかった。


逆にいえば、そんな切羽詰った場面でなくとも、
「下町人」らしい行動様式がある、ということである。


やっぱり、飾らない、くらいが適当な形容詞なのかもしれない。


と、ここまで、書いてきて、一つわかったことがある。


どういう行動様式が「下町人らしい」のか、という分析よりも
その奥にある、根っこの部分、なぜ、そういう行動をするのか、
ということの方が、実はポイントではないか、ということである。


最初にこの考察を始めた回に
中沢新一氏が「アースダイバー」(講談社)で下町人について、
書かれたことを引用した。


『はじめから、人生は不確実なものだとみんなが知っている。』


これを池波先生流にいえば『人は生まれると死に向かって生きている。』
というようなことになるかもしれない。


つまり、人というものは、明日死ぬかもしれない。
だから、今日を、今を、一所懸命に生きるべきである、
という人生観になる。


そうすると、
『大きくて、堅固で、見栄えがよくて、盤石で、偉そうに見える
ものなどは、たいして重要に思わ』ない。『それよりも
大切なのは飾り気のない真実である。』(「アースダイバー」)


と、いうことになるのである。


『飾り気のない真実』は『真摯』といい換えることもできるかもしれぬ。


いけない、いけない、また、難しい話になってきた。


明日がわからないから、人に対しても、自分に対しても
正直に、一所懸命に今をすごす。
逆にいえば、それ以外に、人生で重要なことはない。
そこさえ押さえれば、後は自由にすればいいんじゃない?!、と。


やっと、いき着いた、か。


ふわっと感じる、「下町のにおい」は、
この『後は自由にすればいい』あたりではなかろうか。


むろん、ただ飾らない、ただの自由、ではない。
ただの自由人では、馬鹿者である。


その前の「人に対しても、自分に対しても、正直に、
一所懸命に対峙した」上での、自由さ、であるし、
飾らないもの、が「下町におい」、ということである。


なんとなく、おわかりいただけたであろうか。


結局、やっぱりそこだったか、と、自分でも思われる。




じゃあ、なぜ、下町人は、そのように考えるようになったのか。
次は、それが疑問になってくる。
また、先ほど、若い人のことを考えかけた。
このあたりも、まだまだ、考えたいこと、ではある。


しかし、「下町のにおい」とはなにか、
ある程度、説明できたつもりになったので、
今日のところは、一先ず、おしまい。
残りは、また、別の機会に。