浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)
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蜀山人 大田南畝先生その後 1.


先日書いた、筆者が妙に惹かれる大田南畝


もともとは、「恐れ入谷の鬼子母神・・」が大田南畝の作である、
ということを確かめるために調べ始めたのだが、
調べていくうちにもっともっと、南畝先生のことが、
知りたくなってきた。


そして、「蜀山人 大田南畝先生」ということで、
三十代までの前半生のことを書いてみた。


「蜀山人とあいやき」


「蜀山人 大田南畝先生」


今日は、「その後」、と、いうことで、少し長くなるが、お付き合い願いたい。
(恐縮であるが、ここから読み始めた方は、上のページと合わせて
お読みいただきたい。)


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大田南畝先生。幕臣として御徒(おかち)の役目を勤めながら、
30代、人気実力ともに、江戸第一の狂歌師、
一流の文化人、知識人として、肩で風を切って
江戸の高級料亭やら、吉原やら、遊び歩いていた。


そんな、南畝先生にも転機が訪れる。
南畝先生だけではない。時代が180度転換してしまう
出来事が起こったのである。


池波作品をお読みの方であれば、
(筆者のこの文章を読んでおられる方々は、ほとんどが、
池波ファンなのであろうか。いつも、なんとなく、
その前提で書いていたりする、のであるが、、。)


ご存知であろうが、老中田沼意次
剣客商売では、大治郎の妻、三冬の実父、で、ある。


その田沼意次が失脚してしまったのである。



■田沼時代


老中田沼の時代をどのようにとらえるのか。
この文章の主眼ではないが、その後の松平定信寛政の改革を含め、
時代背景を抜きにして南畝先生を考えるはことは、ありえない。
簡単に触れておきたい。


池波先生などは、重要な役割として作品に登場させており、
政治家、田沼意次としても一定の評価をされている。


今現在、日本史(近世日本政治史、というのであろうか。)で、
田沼政治はどのように、評価されているのか、筆者はよく知らないが、
一般には今まで、いわゆる、賄賂政治、金権政治の見本のような
とらえられ方をしてきたように思う。


江戸時代、まずは米を基本とする、米経済であった。
南畝先生を含め、武士たちは、給料を米でもらった。
七十俵五人扶持、というやつである。


しかし、江戸という大都市で武士が暮らすには、その米を
金に換えなくてはならない。(これが札差の仕事であった。)


米経済が基本のはずが、実際には商品経済、貨幣経済が進展し、
武士たちは、経済の実権を商人達に奪われ、生活に窮していく。


江戸半ばの南畝先生の時代には既に、そういう状態になっていた。


江戸初期の頃はともかく、平和な時代が続くと、
物(商品)の生産が活発になり、それを売り買いするのは、
お金、ということになってくるのである。


そもそも、米経済、と、いうのが、江戸時代、本来的に、
矛盾を抱えていた、と、いうことになるのである。


そこで、田沼政治は、それまで、江戸幕府では、商人には税を課して
こなかったのだが、その方針を転換した。
商人を認め、保護すると同時に、はじめて、
運上(うんじょう)、冥加金(みょうがきん)という名前で
課税するようにした。これは、いわゆる、重商主義である。
しかし、田沼意次の政治はそれだけではない。
印旛沼の開拓など、農業の振興策も行っていた。


農業と商業、どちらも伸ばそうという、重商重農主義、である。
これはこの時代の政策として、歴史的には一定の評価を与えて
しかるべきであろうと思われる。
(池波先生もその立場、で、あったろう。)


しかし、その課程で、商人からの金品をもらう。田沼意次を頂点として、
そこに群がる、大名、旗本達、、。
そんな構図、も同時にできあがっていったのである。


しかし、経済は活発となり、
幕府そのものの金蔵も潤ったことは、事実であった。



■文化的には、、。


今考えれば、バブル、の時代、と同じようなことなのかも知れぬ。
そんな田沼政治を背景に江戸の町人文化も一気に花開いた。


それが、歌舞伎であり、南畝先生などを中心とした、狂歌
山東京伝などの黄表紙(庶民向けの小説、で、ある。)、
浮世絵で有名な東洲斎写楽も、この少し後である。


筆者には、真田広之写楽葉月里緒菜が吉原の花魁を演じた、
映画「写楽」を思い出す。
これをみれば、この時代がわかりやすいように思われる。


そして、忘れてはいけないのが、この映画では、
フランキー堺が演じていたが、蔦重(つたじゅう)こと蔦屋重三郎
彼は、当時の版元(出版社)でありプロデューサー、
文化の仕掛け人、で、あった。


また、現代まで続く落語の始まりも、この頃。
談州楼焉馬(だんしゅうろうえんば)によって
人を集めて行う「落とし噺」として、今の落語の原型が
できてきたようである。


(落語の成立をもっと以前、江戸初期の鹿野武左衛門にする
考え方もあるが、筆者は、時代的な連続性として、この頃とするのが
妥当であろうかと思われる。余談だが、談州楼焉馬には、色々な顔があり、
戯作者、浄瑠璃作家、大工の棟梁でもあった。南畝先生が晩年に住んだ、
神田駿河台の家は、焉馬によって建てられたという。
彼には、立川焉馬、立川談州楼という名前もあり、当代立川談志
まで続く、「立川」の祖、かもしれない。(これは未確認です。
またまた、調査課題にします。))



田沼意次の失脚、松平定信寛政の改革。南畝先生、筆を折る。


さて、そんな華やかな時代であったのだが、天明6年、1786年
南畝先生38歳の年、田沼意次が失脚する。


代わって登場したののが、謹厳実直、
祖父の吉宗の政治を理想とした、松平定信であった。
田沼政治を一掃し、重商主義を廃し、重農主義一本。
札差に借金で抑えられていた幕臣達を救うために、棄捐令
(きえんれい)といって、借金の棒引き、札差側からいえば、
踏み倒しを行ったり、、。


政権の交代とともに、田沼政治に連なっていた、旗本達も一掃された。
南畝先生は、それに連座していた、ようなのである。


田沼の腹心の一人であったという勘定組頭、土山宗次郎が、
田沼失脚後、公金横領などの罪で、処刑された。
直接、金品の援助があったのかどうかは、わからないが、
南畝先生は宴席などにも呼ばれ、付き合いがあったのである。


また、南畝先生が青年の頃からの狂歌漢詩の仲間として、親しく
(年齢は南畝先生の二十三歳も年長であるが)
新宿の煙草商であった、平秩東作(へずつとうさく)が追放。
東作は、土山の密命で蝦夷地の探索なども当時行っていた、
のであった。


また、他に、黄表紙作家の山東京伝は、手錠50日。
先の蔦重こと蔦屋重三郎は身代半減(しんだいはんげん)など
定信の寛政の改革で弾圧を受けた文人も多かった。


このあたりから、南畝先生にも直接、冷たい風が吹き始めた。
時代が一気に変わったのである。


最も顕著な話が、例の


世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず


という狂歌、落首、であった。


これは、華美を廃し、文武を奨励した松平定信
揶揄したものだが、前にも書いたが、現代でも、文学史上、
南畝先生の作であると、されてもいる。


この落首が江戸城内でも話題になってくると、誰いうとなく、
南畝先生こと、大田直次郎が作ったのであろうという、ことになっていく。
南畝先生は、上司である、御徒の組頭に呼ばれ「お前が作ったのか」と
詰問されるが、これに対して、南畝先生は、否定している。


ここから、南畝先生は自ら筆を折り、狂歌を作ることを
一切やめ、また、それまでの文人仲間との付き合いも、絶ち、
御徒という幕臣としての役目一本で、
いわば、逼塞(ひっそく)生活を始める。


ここが、南畝先生を考えるうえで、まず一つのポイントである。
当時、彼のような武士作家は少なくなかった。


南畝先生と同様に筆を折る者もいたが、
当時の黄表紙作家では一、二の人気を誇り、駿河小島藩士でもあった、
恋川春町は、反発し、政治を揶揄する作家活動を続けたが、
幕府から取り調べを受け、自殺に追い込まれた、というような例もあった。


作家として、表現者として、どちらの道を選ぶのか、なのである。


あるいは、ほとぼりが冷めるまで待つ、というような手、も、ある。


南畝先生の場合、先の、処刑された、土山との付き合い、
などもあり、組頭に詰問されただけでなく、
命の危機、も、もしかしたら、予測されたのかもしれない。


しかし、いずれにしても、同じ文人仲間でも、
彼は真っ先に筆を折っている。
このあたり、変わり身の早さ、転向のすばやさが、この当時も
その後、文学史上の評価でも、非難されている点、で、ある。


考えてみるに、南畝先生の他の文人と違う点は、
恋川春町などが大名の家臣であったのに対して、幕臣であったということである。
最下級であれ、徳川幕府直参の御家人という身分。
幕臣という社会的責任の重さとプライド、その両方だったのかもしれない。


さて、そして、ここから始まる、先生の後半生が、実に、おもしろいのである。


寛政四年、南畝先生四十四歳の年、
松平定信は、寛政の改革の一環として、幕臣の人材登用のための試験
「学問吟味」を行う。
これに、南畝先生は、受験しているのである。






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今日はここまで、続きは明日。




参考:浜田義一郎著 大田南畝 吉川弘文館