浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



その11「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」店賃、お店、のこと。


さて、先週は落語に登場する商家のことから、
若旦那vs旦那を「よかちょろ」を例に書いてみた。


ちょっと、戻る感じになるが、
もう少し、基本的な言葉の説明なんぞを、してみたい。


落語にとてもよく登場する言葉で、今はまったく使わない
もの、と、いうのは、挙げ始めたら切がないのであるが、
大事なものでも、いくつかある。


自分で演ずる場合、いつも気になる言葉。


まずは、店、という言葉である。
これは、ミセ、ではなく、タナ、と、読む。
今日は、この、店、について説明をしてみたい。


「おお、なんでぇ、今日は。え〜?。長屋の連中、集まっちゃってさー。
 勢揃いだねー。なに〜?」
「いや〜。大家(おおや)が呼んでるってんだよ。」
「大家が呼んでる〜?。なに?」
「うん。わかんねぇんだけどさ。俺がちょいと、思うにゃ、
 チンタナのせぇそくじゃねえかと思ってね。」
「チンタナ?なに、それ?。中国のビール?」
「そら、チンタオ(青島(ビール))、ってんじゃねえか?
 チンタナ、タナチンだよ。」
「あー。店賃。店賃どうしようってんだ。」
「どうしよう、って、取るんじゃねえか。」
「誰が取んだよ。」
「誰が取る、って、大家が取んに決まってんだろうよ。」
「ほほー。大家が〜。取るの。店賃を〜。ほ〜〜。図々しい。」
「図々しかねぇ。あたりめぇだ。」


これ、筆者が演じる場合の、「黄金(きん)の大黒」という、噺の頭。
話し出し部分である。
チンタオ(青島)なんという、現代のギャグも入っているが、
これは、筆者の師匠である、立川志らく師のものをそのまま
やらせていただいている。


ここのチンタナ、タナチンがわからないと、致命的である。
もちろん、チンタオ(青島)という、シャレもわからない。
悪くすると、ここで、思考停止。聞くのをやめてしまう。
そんな経験が、過去にはあった。


タナチンは店賃、である。
店賃と、いうと、今でいう、家賃。
この場合は、彼らが住んでいる、長屋の家賃のことである。
ここで、店賃ではなく、家賃、という言葉を使ってもよい、
のであるが、せっかくの、チンタオというシャレが
使えなくなってしまうので、筆者はこのままやっている。


なぜ、店賃などというのか。店(たな)とはなにか?
これを、説明しようとすると、少し、たいへんなことになる。
つまり、昔の社会構造、のようなことに触れないとならないのである。


ミセ、ではなく、タナ、という言葉には、
広い意味の、商売をする、ミセ、と同じ意味に使う場合もある。


例とすれば。


「おタナもの」と、いう言い方がある。


「見たとこ、おタナ(店)もんらしかった、けど、ねぇ」


と、いうような使い方をする。
これは、例えば、前掛けを掛けて、手代(てだい)風の格好をした若者を
町で見かけて、いった言葉、というところである。
今でいう、ミセ、と、ほぼ同じ様な使い方であろうか。


これに対して、ミセ、とは、ちょっと違ったニュアンスを持つ場合もある。


「ちょっと、タナへ行ってくらぁ」


職人が、自分の内儀(かみ)さんにいって、家を出る。
そんなときの、セリフである。


ある商家へ奉公をしている人間がタナ、といえば、
自分の店(みせ)のことになる。
しかし、職人がタナ、と、いう場合は、当然、奉公をしている店がある
わけではなく、出入りをしている商家、のことを、タナ。
敬って、おタナ、と、いう言い方をしたのである。


出入りをしている、ということは、大工、左官(江戸弁ではシャカン)、
鳶(とび)、などがある決まった大店(オオダナ。大きな商家のこと。)から
いつも仕事を貰っている関係。
例えば、大工であれば、塀が壊れると、いつも呼ばれる、ような関係。
これを「出入りをしている」、と、いう言い方をしたのである。


ちょっと余談になるが、こうした出入りの職人にとって、お店は、
主家(しゅけ)にあたり、その店に一朝なにかあった時には、もちろん、
雑用でもなんでも、旦那から頼まれたことは、一にも二にもなく
働かなくてはならない。
また、店は店で、なにくれとなく、金銭的にも面倒をみてやる。
盆暮れには、店の印(しるし)の入った半纏(はんてん)を渡す。
この半纏は、その職人の職人としての(大工であれば、大工としての)
半纏ではなく、あくまでも、その商家の者としての半纏である。
その店へ用があるとき、には、自分の大工としての半纏ではなく、
その、店の半纏を着ていくものであった。


大工の棟梁(江戸弁ではトウリュウ)などで、
こうした出入りのお店(たな)が何軒もある場合もあった。
複数の出入りの店へ、挨拶をして回るような場合は、なん枚も、
それぞれの店の半纏を重ね着をし、その店へ行くときには、
その店の半纏を一番上に着る。こうした、職人が半纏を重ね着している姿は、
出入りの店が多い、という証明で、その職人の、
貫禄(かんろく)でもあったのである。
(こんな描写は「子別れ」などにも出てくる。)


さて、冒頭の、店賃で、ある。
今は、家賃といい、家の賃で、家の借り賃、という意味であるから
わかりやすい。店(たな)は、ミセ、のことであるのに、長屋の家賃が
なぜ、店賃、になるのか、わかりにくい。


前に、長屋は一般的には、大きな商家、
大店の持ち物であることが多い、と、いう説明を、した。
つまり、長屋は、店(たな)の持ち物である。
そこで、店賃、になるのである。


では次に、そのお店の主人と、長屋の住人とのことを解説したい。


(ちょっと、またまた余談である。
落語には、店(みせ)をやっていない、いわば、大家専業と思われる大家さんもいる。
どちらかというと、落語に登場する大家さんは、その方が多いかも知れない。
店をやらなくとも、土地を持って、長屋を持っていれば十分に食えた、と、
いうことであろう。
因みに、冒頭の「黄金の大黒」の大家さんは番頭さんも出てくるので、
店をやっているとみてよかろう。
また、下の「大工調べ」の大家さんは、焼き芋屋をやっているが、
これは、まあ、片手間仕事で、本業が大家であろう。)


店の奉公人や、先の、出入りの職人とはまた違った、
関係が、大家=大店の旦那と、その長屋に住む者の関係にはあった。


大家に対して、店子、と、いう言葉がある。
店子は、タナコ、と、読み、その長屋の住人のことである。


いろいろな噺にもでてくるが、
「大家といえば、親も同然、店子といえば、子も同然」と、
いうような、言い方を昔はした。


これは、今ではあまり実感はないかも知れない。
大家さんは親、その長屋に住む、賃貸人は、子供である、と、いう。
実際に、こうした親とも、子とも思う、と、いう、
強い結び付きがあったのである。


この大家と、店子の関係は、あながち、精神論ばかりではない。
実際に、江戸時代までさかのぼると、制度上のものであったのである。


五人組、という言葉を思い出していただきたい。
日本史などで、習った、記憶がおありではなかろうか。


江戸時代の相互扶助、相互監視組織。
何か、犯罪が起きた場合には、連帯責任を取らされる、そんなものである。


江戸の町では、大きな商家などの土地を持っている者(大店の旦那)
がその、五人組などにあたり、そういう意味では、市民権を持ち
お上(かみ)に対して、直に責任を追う立場にあった。
長屋の住人達は、五人組という市民権はなく、いわゆる
戸籍、住民票としては、大家さんの下に所属する者、であった。


そこで、大家さんである、大店の旦那は、自分の持っている
長屋の住人達のことも、お上に対して一切の監督責任を、
持っていたのである。
そして、先の、
「大家といえば、親も同然、店子といえば、子も同然」
と、いう言葉になるのである。
つまり、店子は、お店(たな)の子供、と、いう意味である。


落語の中では、先の五人組は町役人(ちょうやくにん)、
あるいは、町役(ちょうやく)、と、いう言い方をすることが多い。
こんな感じである。


「なにを、丸太ン棒たぁなんだ?目も鼻も口もねえ、血も涙もねえ、
 のっぺらぼうみていな野郎だから丸太ん棒ってんだ。
 誰のおかげでそうやって、大家だの膏薬(こうやく。町役のシャレ。)
 だの、いろいろになったんだ。
 先(せん)のことを知らねぇと、思ってやがん(だ)。
 てめえの、氏素性(うじすじょう)をなぁ、そっくり並べてやるから、
 びっくりして、シャックリ止めて、腰ぃぬかして、座りションベンして
 馬鹿んなんな!おう。」


これは有名な(?)「大工調べ」の啖呵(たんか)の冒頭である。
大工の棟梁、政五郎が自分の部下の職人である、与太郎


(珍しくこの噺では、与太郎は、ちゃんと大工という仕事を持ち、
その上なんと、腕もよい、ということになっている。)


の道具箱を取り返すために、町役であり、かつ、与太郎の大家と、
喧嘩をし、啖呵を切るのである。
政五郎は、町役ではなく、大家さんよりは、身分としては、下である。


落語では馬鹿にされ、揶揄されることの多い存在であるが、
大家さん、偉かったのである。


最後であるが、大家には、家主(いえぬし)、
という言い方もあった。これも憶えておいていただきたい。


さてさて、今日も、また、少し、堅い話になってしまった。
店子、店賃、あたりは、意味がわからないと、落語に入れない、
そんな思いで、書いてみた。