浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



その31 らくだ

さて、落語案内、少し、お休みしてしまった。

まだまだ、書いておきたい噺は、ある。


今日は、「らくだ」。


これは、もともとは、上方(かみがた)の噺のようである。
鶴瓶(つるべ)師の師匠、六代目笑福亭松鶴師のものがよかった、
という。


古今亭志ん生 名演大全集 3 らくだ/強情灸/親子酒/宿屋の富
こちらでは、志ん生師、八代目三笑亭可楽師、などの音が残っている。
志ん生師の、ぞろっぺいな、キャラクターと口調は
「らくだ」には、ぴったり、で、ある。すばらしい。


現役では、やはり、立川談志家元、で、あろう。
家元のものは、志ん生師のものがベース、であろうかと思う。
もちろん、家元のものも、よい。


また、この噺は、
「眠駱駝物語(ねむるがらくだものがたり)」として、
歌舞伎の演目にもなっている。


ストーリー


ある長屋に、らくだ、と、渾名(あだな)される乱暴者がいた。
本当の名は、馬。馬で、らくだ、であるから、似たようなものである。


このあたりを流して歩いていた、屑やの、久六(久蔵、の場合もある。
まあ、久さん、で、ある。)。
らくだの長屋の前に来ると、呼ばれる。
「いけね。らくだの家の前で声出しちゃいけなかったんだ、、」
それまでに、脅かされて、使えもしない、古道具を買わされるなど、
らくだ、には、相当に泣かされてきた。


しかたなく、入ってみると、なんと、らくだ、は死んでいる。
そして、らくだの兄弟分だ、と、いう“丁の目の半次”という、
やくざ者がいる。


らくだは、昨夜、ふぐを手料理して、あたった、と、いう。
そこで、その兄貴分という奴は、
「お前も、らくだ、の出入りの商人(あきんど)だろ。
 出入りのところに不幸があったら働くもんだ。
 俺はこいつの、弔い(とむらい)をしてやりたいが、銭がない。
 長屋の月番(*1)のところへ行って、らくだの死んだことを言って
 香典を集めて持ってこい、と、言ってこい」
と、いう。
久六は、仕事に出たばかりでもあり、関わり合いになりたくもない。
まして、生前あれだけ、泣かされた、らくだ、である、
勘弁してほしい、と頼むが、やはり、脅され、道具を取られて、行かされる。


月番の家へ来てみると、案の定、長屋でも、らくだの評判は悪い。
「そりゃねえ、屑やさん、長屋には祝儀(しゅうぎ)、
 不祝儀(ぶしゅうぎ)の付き合いはあるよ、
 だけどね、あいつは、そんなことしたこともねえんだよ。
 端(はな)はね、立て替えといてやるだろ、
 だけど、払ったことなんか、ないんだぜ。
 ま、でも、いいや。死にゃあ仏だ、っていうしな。
 あいつが死んだって聞きゃあ、喜んで、強飯(こわめし)を蒸そう
 って奴もいるだろうからさ、その代わりに、って、もらって
 こようじゃないか。
 ま、いくらも集まらねえだろうがさ。
 お前さんも、いつまでも、捕まってねえで、早く逃げちゃいなよ。」


久六、が、らくだ、の家へ戻ると、半次は
今度は、大家のところへ行ってこい、と、いう。
らくだ、が死んだことをいって、
「今夜、らくだの通夜をしたい。
 大家といえば、親も同然、店子といえば、子も同然、
 親子の間柄だ。遠慮のないところをいわせてもらうと、
 いい酒を三升。悪いと頭にさわるといけねえ。
 それから、芋、竹輪、はんぺん、なんてところを
 からめに煮て、大きな皿に入れて。
 腹が減るといけないから、飯を三升炊いて、握り飯にして、
 持ってきてもらいたい。」
と、言ってこい、と、いうのである。
近所でも名代の、因業(いんごう)大家である。
そんなことをいっても、出すわけがない。あべこべに、
こっちが、怒られる、と、いうと。


「出すの出せねえの、いったら、な、
 『死人(しびと)の置き場に困っております。
  大家さんは、親のところですから、
  こちらへ担ぎ込んで、死人にカンカンノウを踊らせます』
 って、いえ」


カンカンノウとは、もともとは、江戸の頃、清の芸能の『九連環
と、いうものが起源で、長崎に入ってきたものと、いう。
その後、大坂や江戸でも大いに流行し、明治あたりまで
唄われた、踊りのある、俗謡である。
看々踊り(かんかんおどり)、などともいった。


久六は、大家のところへいって、これをいうが、
案の定、けんもほろろ、に、断られる。


大家にも、らくだ、は、酷(ひど)かった。
店賃はまったく、入れない。催促にいくと、大きな刃物を持って
脅かす。下駄も履かずに、慌てて飛び出してくると、
奴は、その下駄を履いて、大家の家の前を湯に行く、と、いう。
「取れない店賃を棒引きにしてやるくらいが、せめてもの、
 香典だ。その上に、酒だの、食い物だの、とんでもねえ!!」
と、いう。


長屋に戻り、これを、報告すると、半次は、
屑やの久六に、らくだ、の死骸を背負わせ、本当に、大家の家へ行く。
そして、久六にカンカンノウを歌わせ、らくだ、
の手を持って、踊らせる。
驚き、恐れた大家は、「いわれたものは、全部出す」、と、いう。


これは、落語だからよいが、実際に、映像であれば、
凄いことになる。なんといっても、遺体、で、ある。
首は座らないであろうし、死後硬直しているのか、いないのか、、、。


死体、と、いうものに、あまり縁のない、
現代人は、今一つ、ピンとこない、ところもあるような気がする。


余談であるが、昔は、むろんのこと、病院ではなく、人は、
自宅で死んだし、湯灌(ゆかん)といって、亡くなると、
清めのために、湯で洗い、仏になるため、髷(まげ)を落とし、
頭を丸めさせた。これを自宅で行ったのである。


らくだの兄弟分、丁の目の半次、
屑やの久六、二人で、戻ってくる。
と、丁の目の半次は、もう一回、いってこい、と、いう。


「もう勘弁して下さいよ。!ほんとに、仕事に行かないと、
 釜のふたが開かない(*2)、んですよ、、、」
「いや、今度が最後だ。
 表に、八百屋、が、あんだろ。
 そこいって、空いてる、菜漬けの樽を借りてこい。
 こいつを入れる、早桶(はやおけ、棺桶のこと。)がねえんだ。」
「貸してくれますかね?」
「空いたら返すって言ってやれ。
 ん、でなあ。貸すの貸さないの、いったらなぁ、、」
「カンカンノウ、ですか?」
「はは。わかってきたじゃねえか」


久六が八百屋のところへいき、話をするが、
案の定、


八「冗談じゃねえ。ああやって置いてあるけどな、
  いらねえもんじゃねえんだよ。だめだ、だめだ。」
久「そうですか、だめだとなると、面倒なことになりますよ。
  こう座敷が増えちゃ、かなわねえ・・・。」
八「え?、、、大家んとこで、、、。
  、、、、カンカンノウを、、、、、やったの?、、、、
  あーーーーーー。いい、いい、持ってけ持ってけ。
  そこにある、棒もいいから、、、。」


久「もらってきました。」
半「お。ご苦労さん。」
久「カンカンノウ、っつったら、すぐ貸しましたよ。」
半「は、は、そうか。
  んで、今なあ、長屋の奴がわずかだけどな、
  香典まとめて、持ってきた。
久「あー。長屋から。
  大家さんはねぇ、、あんななのに、、、。」
半「それから、大家んとこのババアが、酒と食いモン持ってきた。
  悪い酒だったら、叩っ返してやろうと思って、
  ちょいと、味見したら、まあまあ、いける。
  オメエ、死人ぉ背負(しょ)って穢(けが)れてるから
  清めだ、一杯やんな。」
久「あー、そーですか。
  えー。もう、あの、お気持ちだけで、、、。」
半「なんだ、呑めねえのか?」
久「いや、呑めるんですけど、、。」
半「じゃ、やんなよ」
久「いや、、、。呑んじゃうと、だらしなくなっちゃって、
  仕事、出ないと、、、、」
半「ま、いいやな、一杯だけだ。な、呑めよ。」
久「いや、いや、、ほんとに、だめなんですよ、、
  釜のふたが、開かないんで、、」
半「おう!、優しくいってるうちに、呑め、って、いってるんだ!!」


脅かされて、久六、一杯呑む。
と、半次はなおも、脅して、二杯目。
そして。「駆け付け、三杯だ!」、と三杯目を、呑ませる。
二杯目、三杯目、と、段々と、久六が酔ってくる。
ここが、聞かせどころ。
久六、酔うほどに、性格が、変わってくる。


半次と久六、人が入れ替わったように、なり、


久「おう!、注げよ!
  なんだい。さっき、あんなに景気よく注いだのに、
  こんだぁ、少ねえ、ってなぁ、おもしろくねえなぁ!
  この酒だって、俺が働いたお蔭じゃねえか!」
と、いうありさま。
さらに、酔っ払った久六は、生前の、らくだ、に
どれだけ酷い目にあったかを喋る。金を巻き上がられ、
殴られ、蹴られた。
これが、可笑しくも、悲しい。


そして、半次に
「あんた、偉いよ。
 人の世話はするもんだ、ってけどさ。
 金があっても、大家みたいに、なんにもしないやつもいる。
 それを、あんたは、なんにもなくて、こうして、
 やってしまう、、、、」
と、いう。


これから、近所で剃刀(かみそり)を借りて、らくだの頭を丸める。
この描写は、談志家元は、剃刀が切れないので、酔った久六が
手で、引っ張って、毟(むし)るという、ような形までする。


久六の知り合いが、落合の焼場(やきば、火葬場)にいる、というので
樽に入れて、酔っ払い二人、ふらふらと、差し担いで、向かう。
芝の長屋、という設定で、芝から、落合まで、町名を言い立てる。
これは黄金餅、同様で、ある。

淀橋(今の、西新宿の高層ビルの建っているあたり。)
あたりで、けつまずいて、らくだの死骸を、落っことしてしまう。
火葬場へ付いて、気が付き、戻る。
と、道端に、酔っ払って寝ていた、願人坊主
(がんにんぼうず。江戸の頃の乞食坊主。かっこうは、僧だが
実際は、もらって歩く乞食。)を間違えて、拾ってきてしまう。
火葬場に戻り、これを、火に入れたから、たまらない。
火の中から、願人坊主が飛び出してきて、


「うぉーーー。あち、ち、ち、ち、、、、、
 ここはどこだーー!」
「ここは、火屋(火葬場)だ」
「火屋(冷・ひや)でもいいからもう一杯」


凄まじいラストシーンで、ある。


火屋、というのは、関西の言葉である、という。
(こちらでは、焼場、である。)
下げになっているので、変えられず、
上方(かみがた)の、火屋、のまま、である。
しかし、まあ、誰が聞いても、あまりいい下げではない。
(談志家元は、別の下げを考えている。)



さて、この噺、どうであろうか。


なかなか、凄い噺、である。
いろいろな意味で、これぞ、落語である。


屑やの久六と、ヤクザ者の半次。
ただ、金がない、だけではなく、二人とも、
いわゆる、社会からはみ出た存在、である。
(望んでなったかどうかは別にして。)
彼らと、一般市民である、長屋の住人や八百屋、そして、大家、
と、いう図式。
そして、この噺は、そのアウトロー側から描かれている。


これが、落語、である、ということだろう。
可笑しく、そして、悲しい。
人間の、生と死、を描いている。


落語は、こういうものも、描ける、のである。
いや、「らくだ」という噺は、こういった者達の中にこそ、本当の
笑いや、怒り、悲しみ、があり、本当の人間らしさがある、
と、いうことを、描いている。
(また、ここまで描かないと、らくだ、という噺は完結しない、かと思う。)
また、もう一つ、付け加えると、現代ほど、一般市民と
彼らとは離れた存在ではなく、聞く者に共感を与えられる
ほどに、近かった、のかとも、思われる。



これぞ落語。
談志家元のいう、「落語とは人間の業の肯定である」という言葉を
裏付ける噺、といってよかろう。


*1、月番:長屋の雑用などをする、係り。月毎に回り持ちでやるため、
こういった。

*2、「釜のふたが開かない」:暮らしが立たないことの、慣用句である。