浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



歌舞伎座三月大歌舞伎・夜 その2

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引き続き、歌舞伎座、夜。

「盛綱陣屋」。
この芝居、設定は、ちょっとおもしろい。

大坂の陣の真田なのである。

ご存知の通り、真田は兄、真田信之と弟、幸村兄弟が
関ヶ原の戦い前から、大坂(豊臣)方と徳川方に分かれたわけだが
大坂の陣での二人のお話。

もちろん、江戸時代の芝居で実名を使えないので
鎌倉時代に移し、真田を佐々木と読み替えている。

兄弟が敵味方に分かれて戦うドラマという設定。

幸村は、かの真田丸で有名でむろん大坂の陣では活躍している
のであるが、史実は信之は参陣しておらず、代わりに長男の
信吉と次男の信政が戦いに参加している。

舞台は信之の陣屋でここに幸村の子供、大助が人質として
捕らえられるというところから始まる。

筋は書かないが、伯父であるが敵方の捕虜になった大助。
肉親であり敵味方であることのドラマである。

この大助を勘太郎勘九郎の長男、8歳。
親父さんは視聴率に苦しんでいるようだが「いだてん」で奮闘中。
息子は台詞も多く出ずっぱりの子役の大役。
また音羽屋の眞秀君6歳も、こちらは信之の子として登場。
彼は寺島しのぶのハーフの長男で正月の国立の菊五郎劇団にも
登場したのを観た。やる気満々である。

年のせいか、子役が一所懸命に舞台を務めているのを
観ると、弱い。

さて。
なぜこの系統のストーリーがだめなのか。
あるいは、なぜこんなひどいお話ができていて
今でも支持されているのか。
この分析、考察をしたいのだが、これはちょうど、
書き掛けている、円朝師匠の文章とも関わって
きそうなのでそちらで改めて考えることにする。

幕間。

書いていなかったが、今日の席は後ろの方だが、花道直近。

これだけ近いと、花道を走る役者の息遣いまで聞こえてくるので
なかなかよい。

弁当の鯖の押し寿司。

こういうものはいつどこのものを食べても、うまい。

さて。
二つ目は「雷船頭」という踊りの幕。

寄席では、トリの前を膝替わりといって、
紙切り、太神楽などの軽い色物が出演るが、そんな感じである。

幸四郎が粋な船頭で、空から落っこちた雷と踊りを踊る、
というもの。(交代で猿之助は女船頭として踊るよう。)

エンターテインメント性が高い変化舞踊。
天保10年(1839年)の初演。幕末になるとこんなものが
多くなったようである。

幸四郎は踊りであれば、安心して観ていられる。

そして、いよいよ、お目当ての猿之助の「弁天小僧」。

「弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)」。
もちろん、河竹黙阿弥作。
なん度も観て、なん度も買いている。

勧進帳と並んで、歌舞伎で最も有名な、歌舞伎を代表する
芝居といってよいだろう。

14年国立「通し」菊之助

18年「團菊祭」菊五郎

芝居自体の説明はこちらをお読みいただくとして、
猿之助の芝居。

正体が現れて、居直って、片肌脱ぎ、大あぐらで、
「知らざぁいって 聞かせやしょう~」
の名台詞。

「お・も・だ・か・や(澤瀉屋)」の声がかかる。

さらに。

待ってましたぁ~~~~。

私もこれを観にきた。
まさに、待ってました!。

 

知らざあいって聞かせやしょう

浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の

種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き

以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵

百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字

百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に

悪事はのぼる上の宮

岩本院で講中の、枕捜しも度重なり

お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され

それから若衆の美人局

ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの

似ぬ声色でこゆすりたかり

名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ


この言い立て、長台詞、の、感想ではあるが、なんだか多少
ぎこちなかったような気がするのである。

この浜松屋の幕、むしろ相手役の南郷力丸、幸四郎
台詞回しの方が小気味よかった。

記録を見ると、猿之助の弁天小僧は、亀次郎時代に
一度あるようで、初役ではない。
だが、一度だけ。
もう一つ、こなれていないか。

私だけではなく、猿之助の「知らざぁいって・・」を
聞きにきた客が多かった。この勢いに気圧された?。

わからぬが。

だがやはり、この役者、こんな感じでもやっぱり魅力がある。
観客を引き込むものがある。
そんな気がするのである。

これがやっぱり、いい役者になってほしい。
なるんじゃないか、という期待につながる。

来月も歌舞伎座に舞踊のようだが出番があるよう。
期待をもって見守りたい。

 

 

 

歌舞伎座三月大歌舞伎・夜 その1

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円朝師匠の続きも書かねばならぬのだが、
先週、歌舞伎を観てきた。4月になってしまうので、
書いておく。

3月20日(水)夜

今月の歌舞伎座は、猿之助が出演(で)る。
それも夜の「弁天小僧」。むろん主役。
ただ、幸四郎と交互。

猿之助のものを観ておきたいと思ったのである。
書いているように、猿之助は贔屓といってもよいだろう。
吉右衛門玉三郎は別格であるが、この世代であれば、
応援したい役者である。

猿之助澤瀉屋(おもだかや)四代目。
なん度も書いているが、明治初期に成田屋市川宗家の弟子筋から
初代が旗揚げし、歌舞伎の本流とは様々な確執、恩讐があったと
いってよいのであろう。
猿翁になった先代猿之助は独力で一座、一門を築き、率い、
本流ではないところに、スーパー歌舞伎で一時代を造った。

四代目を襲名した当代は新歌舞伎座になって
16年の「義経千本桜」まで出演しなかった。

長い長い門閥の歴史の中でできてきた関係、どうしても
距離があるのであろう。

だが、この当代猿之助の世代、30代後半から40代。
幸四郎海老蔵菊之助勘九郎七之助など。
どうしても、次の歌舞伎界の大看板、大幹部に、いや、
吉右衛門世代の疲れが見えている今、すぐにでも彼らに
力強く受け継いでもらわなければならないタイミング
であるのは皆、表立っては口には出さぬが隠せぬこと
なのではなかろうか。

この中で、当代猿之助は役者としての器が違うように思っている
のである。
今回の「弁天小僧」の役が付いたのは、松竹(?)も
やはりちゃんと猿之助を育てようと考えるようになったのか。
もちろん、トウシロウの憶測ではあるが。

内儀(かみ)さんも休みなので、ウイークデー。

3時、着物を着て出かける。

冬物はいつもおんなじだが、青竹色のお召し風の紬。
白足袋に雪駄。暖かいのでコートはなし。

弁当は、押し寿司が食べたかったので、三越の地下で
鯖の押し寿司を買って、入る。

例によって、演目と配役を写しておく。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

夜の部
近江源氏先陣館
一、盛綱陣屋(もりつなじんや)

    佐々木盛綱 仁左衛門
       篝火 雀右衛門
     信楽太郎 錦之助
       早瀬 孝太郎
      四天王 廣太郎
      四天王 種之助
      四天王 米吉
      四天王 千之助
  高綱一子小四郎 勘太郎
  盛綱一子小三郎 寺嶋眞秀
     竹下孫八 錦吾
     伊吹藤太 猿弥
   古郡新左衛門 秀調
     北條時政 歌六
       微妙 秀太郎
   和田兵衛秀盛 左團次

 

二、雷船頭(かみなりせんどう)

〈奇数日〉 女船頭 猿之助       
        雷 弘太郎

〈偶数日〉   船頭 幸四郎
        雷 鷹之資

河竹黙阿弥
三、弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)
 浜松屋見世先より
 稲瀬川勢揃いまで

  弁天小僧菊之助 幸四郎(奇数日)
          猿之助(偶数日)
     南郷力丸 猿弥(奇数日)
          幸四郎(偶数日)
     鳶頭清次 猿之助(奇数日)
          猿弥(偶数日)
     忠信利平 亀鶴
    赤星十三郎 笑也
  浜松屋伜宗之助 鷹之資
    番頭与九郎 橘三郎
    狼の悪次郎 錦吾
   浜松屋幸兵衛 友右衛門
   日本駄右衛門 白鸚

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


お目当ては三つ目であるが、前の芝居も書いておかねば
ならなかろう。

一つ目は時代物。
「盛綱陣屋(もりつなじんや)」ではなく「近江源氏先陣館」
というのが本名代、芝居のタイトル。
私は初見。

人形浄瑠璃から歌舞伎に移したいわゆる丸本(まるほん)物。
その八段目が「盛綱陣屋」。歌舞伎で上演されるのはほぼここだけ
のよう。

近松半二、竹本三郎兵衛らの合作。初演1769年(明和6年)大坂竹本座。
もちろん人形浄瑠璃として。明和は田沼時代。
上方から、江戸に文化の中心が移る微妙な時代であろう。

最初に書くのだが、どうもこの系統の芝居は苦手である。
はっきりいって、わからない。理解ができない。

なにかというと、例外もあるが主としてこの時代より前、
浄瑠璃から移された一連の歌舞伎芝居である。

最近観たものでは17年国立の「伊賀越道中双六」

あるいは有名でよく上演されるが「菅原伝授」の「寺子屋」

これもあまりにも有名だが「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の
「飯(まま)炊き場」

主人のために子供の命を差し出す。
子殺しのようなことである。

ちょっと違うが「忠臣蔵」の「五段目」「六段目」の
勘平が切腹に至る一連の件(くだり)。

これもひどい、と思うのである。
自分が誤って殺したと思い、責任を取って切腹してしまう。
普通、気付くであろうと思えて仕方がない。

悲惨ではあるが、あまりにおバカ?。

どれも古典の名作で最近でもなん度も上演されている。
“こういうもの”として観ればよいのかもしれぬ。
しかし、あまりにストーリーがひどくて、どうしても芝居作品として
評価する頭が働かないのである。

同じように思われる方はおられないだろうか。

今回の「盛綱陣屋」もこの私のわからない系統になる。

 

 

つづく

 

 

明治23年東京新富座 三代目国貞  佐々木盛綱 初代中村鴈治郎
盛綱妻早瀬 市川升若 北條時政 四代目中村芝翫 和田秀盛 初代市川左団次
高綱一子小四郎 初代市川ぼたん 盛綱母微妙 高砂屋福助 信楽太郎 市川荒太郎
高綱妻篝火 二代目坂東秀調 盛綱一子小三郎 尾上きく

 

 

 

断腸亭ハワイ島へ行く。その9

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さて。

ワイ島、長々書いてきたが、最終回。

夕飯。

一人でレストランへ行くのも面倒なので、
今日も、一昨日のKTAスーパーストアーのデリで
買ってきた。

これ。

braised beefとご飯。$2.66で値引きになっていたので。

和食というよりは、中華か。

見た通り、牛の煮込み。
しょうゆの甘辛。濃いめの味付けで、うまい。

ご飯も大中小あって、これは小。

これでコナビール。

ビールは結局呑み切れず、持って帰れないので
部屋に置いてきた。

帰りの出発は、朝、9時。

ちょいと雲がかかっているくらいで
フアラライの全体がよく見える。
こちらへきて一番よく見えるのではないかろうか。

例によって今朝もコーヒーは外のカフェで買ってきた。

荷物を詰めて、チェックアウト。
追加は、ホテルの駐車場代、一日分$15。
高い。基本的に物価は高いのである。

中3日というのは、すぐ、で、ある。
もう少しあれば、ダイビングもしたのであるが。

迎えの車がきて、空港へ。
20分ほどであろうか。

着いて、チェックイン。
11時なので随分と時間がある。

中のコーヒーショップで、ビールでも呑むか。

ここも当然コナビール。

呑んでいなかったワイルア・ウイート(Wailua Wheat)。

小麦を使って、パッションフルーツのフレイバー。
軽くてフルーティー

またまた、スパムむすびがあったので買ってみた。


やはり、ご飯でサンドした巻きずし式。
これが定番なのか。

ご飯に白胡麻青海苔が混ぜ込んであるだけで
他のものはなし。シンプルだがうまい。

帰りもむろんJAL。定刻通りの出発。

最初の機内食

チキンライスとチキンのホワイトソースがけ。

無難にうまい。

あとの軽食。

肉味噌のかかったジャージャー麺のようなものなのだが、
これは、もう一つ。
麺の腰がまったくないのは仕方ないとしても、
味噌が少ないのか、味が足らなかった。
これであれば、定番のつゆでたべる日本そばの方が
安心して食べられたように思う。

ついでだが、JALの機内の映画は本数が他社に比べて
少ないのではなかろうか。
個人的には「カメラを止めるな!」があれば視たかったのだが。
ハリウッド映画はよいとして、日本のエアラインなので
邦画はもう少し揃えてほしい。TVのバラエティー番組なども
あるのだが、普通に視られるものを機内で視たいとは
私は思わないのだが。
最近であれば、昨年、一昨年とシンガポールエアに乗っているが、
邦画でさえ充実していた印象がある。

さて。
今回のハワイ島
ワイピオをこの目で見ることができてたのは大収穫であった。
おそらく、あれがハワイの原風景であったのであろう。

1778年、英国人キャプテンクックに発見されてから、ハワイの
原風景は徐々に失われ、80年ほどで王国は米国に飲み込まれた。
当時、他国の人間に全く触れたことのなかったハワイアンは
免疫がなく、様々な感染症などで人口をどんどんと減らした。
歴史の功罪を問うつもりはないが、やはりこれは悲劇といって
よいと思う。

欧米人によるプランテーションは働き手を求め、
ハワイアンの人手の代わりにポルトガル人、中国人、そして大量の
日本人が移住した。
そして、皆さんご存知のように、第二次大戦でハワイの
ジャパニーズは米系白人からの差別とともに敵国として我が国と
戦うことを義務付けられ、日本にマイナスな感情を持った。
4世、5世となると混血も多く、単なる人種としてジャパニーズである
という感覚しかないとも聞く。
ネイティブハワイアン、ポルトガル系、ジャパニーズ、ジャパニーズ
として移住したが戦前、戦中はジャパニーズからも差別されたコリアン、
チャイニーズ、、。そして、もちろん米系白人、黒人。ハワイというのは、
米国本土よりも人種のカオスの度合いは高いともいう。

ただ、今回参考書とさせていただいた矢口先生の
「ハワイの歴史と文化」(矢口祐人)

によれば、今はそれぞれのルーツを言うのではなく、ネイティブ
ハワイアンもジャパニーズもその他でも、それぞれのルーツはルーツとして
大切ではあるが、ハワイに生まれ育ち、暮らしている「ローカル」
“ロコ”であることが大切であるという意識の方が強い人が増えている
ともいう。

これは取りも直さず、今のハワイにアイデンティティーを持ち、
愛し、よいところである、あるいはよりよいところにしていきたい
という思いを持っているということであろう。
ALOHA STATE。常夏の楽園?。

人々はのんびりしているし、癒されることは間違いない。
加えて特にハワイ島、今回は入らなかったが手付かずに近い海、
時に荒々しくダイナミックで変幻自在な山。ビールとコーヒー
そしてなによりもスパムむすびはうまい。
やはり、掛け替えのないところである。

 

 

 

断腸亭ハワイ島へ行く。その8

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さて。

マウナケアから戻ってきた。

もう大丈夫。
コナの街に入るところで、190号線から180号線に入る。

コナの東側、フアラライ(山)の中腹を通る通りが
コナコーヒーベルトと呼ばれている。

書いている通り、フアラライから海までなだらかな
斜面が続いているが、この180号線に沿ったわずかな部分だけの気候が
コーヒーの栽培に適しており、コーヒー農園はここだけにしかない。

また、コナのコーヒー農園は日本人入植者一世が始めたと
いってよいようである。
今も彼らの子孫が多く農園の経営をしている。

コナコーヒーというのはご存知ではない方も多いかもしれない。
コーヒーの生産はアメリカではハワイ州のみ。それもほぼコナのみ。
栽培面積も少なく、生産量もわずか。
そのかわり、高級種を手作業で生産しており、高価なもの。

日本の大手、ドトールとUCCの農園があり見学もできる。

UCC。

UCCに入ってみた。

試飲ができる。

基本、コナコーヒーはすっきりした味で、ちょっと
薄く感じるかもしれぬが、後味がよい、上品なもの。

説明用のパネルを撮らせていただいた。

ちょっとおもしろい。
右側の写真。
区画が縦に長いのがお分かりになろうか。

ワイ島というのは、山から区画が縦に長く分けられている。
これは開拓当時からのものだそうな。

これがコーヒーの木。

小さいのにびっくりしたが、これは手摘みをするために
小さくしてあるとのこと。
ブラジルなど大規模に生産しているところは、大きく作り
機械で収穫している。

これがコーヒーの花。少し残っていた。

真っ白なので、コーヒースノーなどというよう。
時期はもう少し前で、その頃には斜面が真っ白になるという。

白い花が咲き、実は緑から完熟すると赤くなり収穫する。
収穫時期は、9月頃からだそうな。

最高級のものを買ってみた。

アラビカ種のエクストラファンシーというもの。
8oz、一袋$30。
高価だが、さすがにうまい。

コーヒーベルトの180号線を走っていると、こんなものを
見つけた。

ここのあたりはホルアロアというが、ホルアロアのジャパニーズ墓地。

やはり顕彰碑のようなものもある。

ひらがなのない漢字のみの擬漢文で書かれている。
読んでみると明治の頃入植された岩手県出身の方のよう。

ホノカアと比べると時期はこちらは明治でも少し後から
なのかもしれぬ。今は一つも残っていないが、当時は鉄道が
通され、その経営に関わっていたという。亡くなったのは47歳。
成功されたが若くして亡くなったということのよう。

昼飯は、もう少し南にあるガイドブックに載っていた、和食の店
いってみようと考えた。

きてみたのが、満席で待っている人も。ランチタイムも
もう終わりに近づいている。とてもだめだ。

お客さんを見てみると、別段日本人観光客ではない。
皆、ローカルの方よう。
白人もいれば、ハワイアン、日系、様々。
(ホテルもそうであったが、この時期日本人観光客は、
かなり少なかった。)

そうである。
今日は日曜日。
午前中は家族で教会へ行って(?)、みんなでお昼の時刻、
ということであろうか。

さて、どうしよう。

この通り沿いで他を探そう。

ハンバーガー店を見つけた。

入ってみると、ここも激混み。

店リコメンドのアボカドバーガーとアイスティー

上にのっているのは、オニオンリング、玉ねぎに衣をつけて揚げたもの。
「onion tenpura」とメニューには書かれていた。
tenpuraはハワイでは普通に使われている言葉か。
まあ、天ぷらというよりはフリッターでよろしかろう。

もう一軒、やはり日系の見学のできるコーヒー農園
コナ・コーヒー・リビング・ヒストリー・ファームという
ところ。こちらは大手ではなく、ジャパニーズハワイアンの
個人経営。入植当時の模様も展示されているとのこと。
きてみたら、やっぱり。日曜で休み。(土日休み。)

カイルア・コナに戻って、買い物をしレンタカーを返す。

天気もよく、きれいな夕日が見えた。

 コナ・コーストは西向きなので雲が切れていれば、海に沈む
きれいな夕日が見られる。

 

 

 

つづく

 

 

 

断腸亭ハワイ島へ行く。その7

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イレギュラーだが今日も配信。


断腸亭のハワイ島、ワイピオ見学を終えて、
帰路、ワイメアのマックで買ったビックマックのうち一つを食べ、
カイルア・コナ。

カイルア・コナの街。今日はウォール・マートに寄ってみる。
生鮮がほぼない。以前はあったような気がするが。
(日本の西友は売ったし、経営があぶない?)
昨日とは別の味のコナビールを今日は2ケース購入。

ホテルに帰ってきた。

泥道を歩いたのでスニーカーが汚れてしまった。
即席に、ホテルの石鹸で洗う。
エアコンで乾燥するので、明朝までに乾くであろう。

今日買ったコナビールは、ロングボードとファイアーロック
というもの。

残っていたビッグマック

ロングボードは比較的ノーマルなラガー。
ファイアーロックは濃いめのエール。

洗ったスニーカーにはタオルを詰めておく。
こうすると早く乾く。

さすがに、ゆっくり寝て、翌朝。スニーカーは乾いている。

昨日同様、ホテルそばのカフェでコナコーヒーの購入。

雨が降ってきた。
ワイ島は天気の変化が目まぐるしい。

一度部屋に戻る。

さて、今日はどこへ行くか。
ちょいと、マウナケアへ行ってみようかと思い立った。
あの、東京天文台すばる望遠鏡を見てみたい!。

書いているように、ハワイの山は平たいので、マウナケアは
標高4,207 mだが道路も整備されており、車で行けてしまうのである。
googleで検索すると、やはり所要時間2時間弱で行ける。
ワイ島は意外にスポットが近くにあるのである。

よし。行くのなら早く出よう。
午前中には帰ってこられるか。
今日はコナのコーヒー園を見たいと思っていたので。

出発。

山側を走る190号線に入り、途中で右。
ダニエル・K・イノウエ・ハイウエイ。

正面がマウナケア。

やはり平たい。

1時間ほどで、プーフルフルというところまできた。
だいぶ上がっている。
ここから、ハイウエーからから分かれ、登山道のよう。

小高い山がある。これがプーフルフル。

左がプーフルフルで中央が雲に覆われているマウナケア。

この先にマウナケア・オニヅカ・ビジター・インフォメーション・
ステーション(Onizuka Information Station)というのがあり、
マウナケアに登る場合ここに必ず寄るようにという標識が出ていた。
このオニヅカはコナ空港の名前にもなっていた。スペースシャトル事故で
殉職されたハワイ島出身の日系2世のオニヅカ氏。
(wiki)(氏の実家はコナのコーヒー園とのこと。)
(しかし、ハイウエーの名前はイノウエさんで、ハワイのジャパニーズは
がんばっておられ、ハワイで重要な地位にあるということであろう。)

ガイドブックを読むと標高4000mはさすがに高地なので、高山病の
危険もあるので、中腹のオニヅカセンターで身体を慣らす、らしい。

が、ちょっと気になったのは、ガソリンの残り。
借りてから一度も給油はしていない。ここまでだいぶ登ってきた。
登りということもあり、メーターがみるみる半分を切って、
下がってきたのに気が付いていた。
ちょっと不安。
一服して、リスタート。

オニヅカセンターまではすぐ。

中央付近がマウナケア山頂。雲は切れている。
車を降りると、寒い。
肌寒いどころではなく、本気で寒い。

薄い長袖は持ってきて、アロハの上にここで着たのだが、下は短パン。
まわりの人をみると、ニット帽にダウンという人もいる。
こんな人たちには観光ではなく、天文台に仕事できている
研究者の方などもいそうである。

なめていた、か。
どのくらいの時間ここにいればよいのであろうか。
それすら、よくわからない。

あー。
これは、無謀であったか。

ガス欠、高山病。
頭のわるい無謀な日本人の観光客。
遭難してしまったら、洒落にもなるまい。

車で登れてしまうとはいえ、富士山よりもずっと
高い4000mを越えている。

引き返す勇気?。まあ、それほどのものでもない。
ちょいとした思い付きできてしまったのではないか。
だがまあ、せっかくここまできて、と、後ろ髪を引かれる思い、
すばる望遠鏡は見たかったが、戻ろう。またの機会に。

再び、プーフルフル。

周りは溶岩。このあたりの植物の説明である。
この小山は1969 - 1974年、遥か南の海岸に近いキラウエアのマウナウル火口の
噴火時にできたものだそうな。

このダッジのセダン、残りのガソリンの量でなんマイル走れるか
表示されるのである。下り始めると、今度はやはりその距離が
伸びてくる。

後で調べると、オニヅカセンターで標高2800mあったようである。
私は富士山にも登ったことはないが、ひょっとして、自分史上
最高地点であったかもしれない。
こんなお手軽で。

一気に下山。

コナのコーヒー園の集まっているコーヒーベルトを目指す。

 

 

 

つづく

 

 

 

断腸亭ハワイ島へ行く。その6

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今日も特別配信で。

ワイ島ワイピオバレー。

ハワイアンの元来の生活を矢口祐人先生の「ハワイの歴史と文化」
中公新書

からみている。

生業、経済活動はどうであったのか。

昨日書いた、川沿いの三角形の扇状地の古いハワイアンの共同生活単位である
アフプアアでの話である。

「山の木々はカヌーや住居の材料に」なり「山には薬草も生えていた」。
「山を少し下ったところには、主食のひとつであるバナナの林があった。」
その他「ティ」と呼ばれる植物は葉は衣服、肉や魚を包んで石焼にする
調理用、根は発酵させて酒にする他に霊力があるとされ、種々の儀礼など
幅広く使われるものであった。

そして、昨日出したが、タロ(カロ)らしきもの。

「蒸してペースト状に練り、水でのばし、数日おいて発酵させてから
食べるもの」であったようである。

「海岸沿いにはココナッツの木。沖では盛んに漁業が行われていた。」

驚くべきは、魚の養殖技術が発達していたということ。

昨日出したこの写真。
右上の方に池のようなものがちょいと見えると思う。
これがそうなのかはわからないが、ハワイには「平均東京ドーム1.5倍」の
大きさの養殖池があったという。「塩水、半塩水、淡水池があり、
さまざまな種類の魚介類が養殖されていた」というのである。

また「アフプアアには豚、鶏、犬が食用として飼育されていた。」。

実際にワイピオを歩いていると姿は見えなかったが、
いかにも動物を飼っている匂いがしていた、豚のような。
ただ、以前は豚は儀式用で日常的には鶏と犬を食べていた、
とのことである。

「住人の多くは海岸そばに住んで、住居の近くに菜園用の小さな
畑を営みながら、少し登ったところにあるタロ畑で農作業をしていた。」

私有地はなく、土地はすべて神のもので王が管理している。

矢口先生によればこんなものがハワイアンの古い生活であったようである。

さて、ワイピオの荒れた道を谷の奥に向かって歩いていく。

塀がありきれいにしている。人の住まいであろう。

路肩にこんな看板も。

(Mahaloはハワイ語でThank you.である。)

迷惑ですよ!。
「入ってくるな」オーラ全開である。

あ~、、、やはり。
戻ろうか。

あの、28度の急坂1300mを今度は登らねばならぬと
考えると途方に暮れるが。
だが、ここで行き倒れてしまうわけにもいかない。

汗だくになりながら、途中、それこそ10mごとに休みながら
重い足を前に出し、ノロノロと登る。

登っていると、たまにツアーやらの四駆が行きかうのだが、
歩いている方が邪魔な感じ。

と、ある、下りのピックアップトラックが止まり、太った
ハワイアンらしい若い女性が助手席から下りてきた。
彼女はサササっと路肩の丸い石にペットボトルの水をかけて、
再び車に戻り、下って行った。

花と植物も供えられていた。

(赤い葉っぱが前記の「ティ」のよう。)

なんであろうか。
ここがワイピオの入り口ということか。
入るための、ご挨拶?、儀礼であったのか。
おそらくその関係であろう。
やはりハワイアンにとってここは特別な土地だからか。

おそろしい時間をかけて、ヘロヘロになって展望台まで
たどり着いた。

いやー。
私などは、どう考えても、ツアーでくるべきであった。
そうすればある程度、タロの田んぼなど見せてももらえた
のかもしれぬ。

だがまあ、運動になったことは確か、なのだが。

こんなページを見つけた。

アロハアイナエコツアーというところの情報。
以前にNHKの取材があった時のことのようである。
(タロを発酵させていると、書かれている。)

ワイピオには50人ほどの人が住んでいるという。

後で聞くと、以前にはもっと人が多く、小学校もあるほどの
村であったようである。それがある日、津波で根こそぎ
さらわれた。(1960年のチリ津波であろうか。未確認)
ただ死者は一人も出なかったという。
これは、ここがカメハメハIゆかりの場所であり、
「マナ(特別な霊力)」で守ってくれた、などとも
いわれたという。

その後、ここに古いハワイアンの生活を再現して
暮らす人々が現れ(残り?)今に至っている、ということか。

ともあれ。
ワイピオバレー、なかなかの場所であった。
これがハワイ。ハワイアンの原風景で、よいのか。

ホノカアのKatsu Gotoと合わせて、ハワイの少し深い部分を
知ることができたのは私にとっては大収穫であった。

絶景や史跡を漫然と眺めたり、マリンスポーツをするのももちろん
よいのだが、私のようなものは、知らない土地に行くのであれば、
こういうことを本当はしたかったのである。

ヘトヘトなので、車に戻ってすぐに帰路につく。

へんな時間に細切れに食べているのだが、遅い
ランチに途中のワイメアでマックに寄る。

ビッグマック、というと、バイトのお嬢ちゃんが
ミールか?と聞く。これになんとなく、イエスと答えた。

開けてみると、げっ?。なんとビッグマックが二つ。

そしてポテトと飲み物。

$12もしていたので、おかしいと思ったのではある。
2個のセットが“ミール”という名前であったようなのである。
しかし、同じものを2個食べる人がいるのか?。
2個食べるにしても、普通別のものにしたいと思わないか?。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

参考:「ハワイの歴史と文化」矢口祐人

ハワイ王国」矢口祐人

 

 

 

断腸亭ハワイ島へ行く。その5

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(祝日ですが今日は配信します。)

断腸亭のハワイ島、いよいよこの旅のメインの目的地
ワイピオ・バレー。

展望台からの絵葉書のような絶景。

この展望台から眺めて、終わり、というのがほとんどの
観光客であろう。

だがこの谷には降りることができるのである。

ワイピオ拡大

この海岸部分、黒砂のビーチは、はワイピオ・ブラックサンドビーチ。
公園にもなっている。ビーチで遊んでもよい。

そして、この谷には人が住んでいるのである。

いや、それこそこの谷には古代から人が住んでいたと
考えてよいところ。

前に書いたように、ハワイ王国を統一したカメハメハ一世(I)は、
ここで育ったという。
カメハメハというのはハワイ語で「孤独な人」という意味らしい。
こんなところで育ったから、か。

谷に降りるには道が凸凹で、車高の低い乗用車ではだめで、四駆。
レンタカーでは保険適用外ということ。
観光客は歩く。または、四駆のツアーもある。

ただ、歩けるというので、今回は歩くことに決めてきた。

展望台から一本道。
降り始める。

写真に撮るとお分かりにならないと思うが、これかなり急
なのである。

降りるのは楽ではないか、と思うことなかれ。
これが続くと、段々に膝にくる。

展望台から坂の下まで、距離1300m。

後で調べてみると、この台地、崖の上から下までは、
高さ2,000フィート(609m)。

46%の勾配、斜度24度ということになる。(この計算あっていようか。)
もう登山である。

軽いトレッキング?。
いやいや、運動不足の身体には、ほぼ登山。

段々に谷底が見えてくる。

田んぼのようなものも見える。

遥か谷底だが、

家も見える。

個人やツアーの四駆も通るが、欧米人のようだが、家族で徒歩で
降りている人達も見かける。

もう膝が、ガクガク。笑っている。

やっと、底近くになってきた。

谷なので、川が流れている。

川の名前はワイロア・ストリームというよう。
ワイピオ自体が、ハワイ語で「曲がりくねる水」だそうな。

坂を降り切った。
もはや、汗だく、疲労困憊、なのだが、せっかく降りてきたので
この谷を見なければ。ブランク・サンド・ビーチという選択肢もあるが、
重い足を引きずって、谷の奥を目指して歩き始める。

住居なのか、納屋なのか。

パラボラアンテナがあるので、TVが視られるのか。
住居か。

谷の奥の、滝、二筋。

谷は二つに分かれており、本流は右側に続くが、手前側のもの。
イプウ滝というよう。

高さ600m以上の台地の崖から真っ逆さまに落ちているのである。
このあたりには相当数こんな滝がある。

少し歩くと、小川のようなもの。

そして、これ。

私も初めて見る。里芋の葉っぱに似ている。
誰かにここで聞いたわけではないので、断定はできないが、
これがタロイモ、でよいのではなかろうか。
そして、ここはそのタロイモを栽培している、田んぼ、か。

タロイモ、タロというのは、太平洋の島々で主食とされてきた
里芋の仲間。ハワイではカロと発音されるよう。

日本人にはあまり知られていないと思うが、日本の里芋と
違って、タロには多くの水分が必要で湿地のようなところ、
いわゆる水を張った田んぼで育てるのである。

さて。
ここへきたのは、私の学んだ民俗学というのか文化人類学
興味と最初に書いた。ここで、参考書の登場。
東大の矢口祐人先生の「ハワイの歴史と文化」(中公新書)から。

西洋文明が入ってくる以前のハワイアンの伝統的な
生活の成り立ちというのであろうか、そんなもの。

ハワイでは山裾から海に注ぐ川とその三角形の扇状地
一つの生活単位でアフプアアと呼ばれ、これを管理する首長
(コノヒキ)がいた。この一つがハワイ社会の基盤。

こうしたアフプアアがいくつか集まって、貴族階級(アリイ)
が管理し、その上に王(アリイヌイ)が君臨し、カメハメハI
以前は複数の王が分割してハワイ諸島を統治していた。

首長のもとには、平民階級(マカアイナナ)がおり、農業
漁業などに従事し、一定量の作物や魚が税として最終的には
王の手に渡された。
またこれ以外に「祈祷や占いなどの特別な儀式をつかさどったりする
カフナと呼ばれる専門家集団もいた」という。

まさにこのワイピオバレーはそのアフプアアの単位として
わかりやすい例になるのではなかろうか。

少しだけ信仰の話しも書くと、基本的に多神教
「命の神カネ、戦いの神クウ、収穫の神ロノ、海の神カナロア」
の四つの神が主要なもので、これらの神が「風や雨、木や花などに
なって人びとの前に現れると考えられていた」とのこと。
アニミズムというのはどこもそうなのか、我が国の木や石を
神の依り代(よりしろ)と考えるのも近いものか。

そしてこのような神々を祀るために今回は行っていないが各地に
「ヘイアウ」という神殿が建てられた。この神々や王を讃え
謳われる詩がメレと呼ばれるもので、メレに合わせて踊られるのが
フラ(ダンス)ということであったらしい。
ハワイには文字なく、王を讃えたメレで歴史を口承していた。

 

 

つづく

 

 

 

 

参考:「ハワイの歴史と文化」矢口祐人

ハワイ王国」矢口祐人