浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



神田須田町・あんこう鍋・いせ源 その1

4460号

12月1日(金)夜

さて。
12月になった。

暖かかったり、寒かったり、寒暖差は日々あるが、
まあ、木枯らしというのは、まだかもしれぬが、
12月、初冬らしい気候になってきた。

と、なると、鍋。

やっぱり、ここにこなければいけなかろう。
あんこう鍋の[いせ源」。

天保元年(1831年)創業という。
江戸後期。
今年で、192年。
押しも押されぬ、大老舗といってよいだろう。

場所は神田須田町
以前は連雀町

その昔、今の中央線の始発駅が万世橋
あったため、駅前としてにぎわっていた。
また都心部で奇跡的に、東京大空襲で焼け残った
地域で、少し前まで、戦前、関東大震災後の
街並みが色濃く残っていた。

それで、にぎわっていた頃の老舗が残りやすかった
ということが言えるだろう。
ここの店舗も歴史的建造物に指定されている。
界隈にもまだなん軒かその名残を見ることも
できる。

今は、かなり高価な店になっているが、
座敷だが、個室ではなく入れ込みで、帳場で勘定。
わりに庶民的な店であったと思われる。

京都などと違って、コースで出す老舗の
いわゆる懐石、会席、割烹料亭の老舗というのは
東京には多くはない。
京都と違ってそういう文化がなかったのか、
とも思われようが、そうでもない。

江戸、東京にもちゃんと会席、割烹の料亭
というのは、あった。
むろん、江戸は将軍様の住まう首府。
一時は、世界一の人口を抱えていた。

八百善

なんという名前を聞いたことが
ある方もあるかもしれぬ。
浅草北部、山谷にあった江戸・東京を代表する
料亭である。
[八百善」はペリー来航時、彼らへの饗応膳を
作ってもいる。
また、落語「百川」に登場する料亭は[百川」と
いう名で、日本橋浮世小路に実在していた。
江戸東京には江戸東京の味と技はちゃんと
あったのである。

だが、江戸起源の料亭は、明治終わりから、大正
の頃までに、ほぼ滅んでしまった。

原因は京都や大阪、上方の料亭が東京に進出し
また、関西の料理人も流入し、駆逐されてしまった
ということ。
なぜか?。
関西の料理の方が、残念ながらうまかった、
のである。

元来、江戸周辺は関東ローム層、赤土で上方ほど
うまい野菜ができなかった。
それを補ったのが、野田・流山、銚子で生まれた
うま味の濃い濃口しょうゆ。
まあ、それでかわりににぎり鮨、うなぎ蒲焼、
天ぷらが発達した。そんな風にもいえるかもしれぬ。

ともあれ。
江戸、東京に起源のある食い物やは、うなぎ、すし、
天ぷらやが主体でむしろ[いせ源]などは例外的
といえよう。
皮肉な話だが、そう高級な料亭ではなかったから、
生き残れた、ともいえるのかもしれぬ。

閑話休題

以前は予約はできなかったが、最近は予約可に
なったのはありがたい。
予約を受けぬのは庶民的な店であったことの
名残であったのかもしれぬ。

17:30の予約で、到着。

このメインの二階家が有形文化財

玄関。

右側のショーウインドー。

氷に覆われたあんこう
最近はこうして下にあるが、以前は
上のフックにぶら下げられていた。

硝子戸を開けて入る。
下足のおじさんに名乗り、下足札を受け取り
靴を脱いで、あがる。。

梯子段を昇り、お二階へ。

あれ、一番乗りのよう。

お膳へ。

赤い塗りのお膳にガスコンロ。
火の付いているものもある。
これは、部屋の暖房のため。
今日は二つ置き程度だが、真冬だと、
全部がついている。

下足札は五十九番。

瓶ビール。
注文は、鍋二人前。

その他の一品料理も色々あるが、最近は
鍋だけでよいようになってきた。

お通し。

おひたしといってよいのか、菊としめじと
ほうれん草。

そして、待ってました。

あんこう鍋。

 

つづく

 

いせ源

千代田区神田須田町1丁目11番地1
03-3251-1229

 

 

 

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