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須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」~断腸亭考察 その26

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さて。
須田先生の研究も読み終わり、私の考えたこと。

幕末の動乱、民衆達にとっては「悪党の世紀」のなかで落語は
どのようになったのか。変わったのか、変わらなかったのか、
円朝師と作品はわかったのだがその他の落語家と作品たちも
含めてである。

もちろん、仮説である。
書かれているものがない。あるいは見つかっていないので。

ということで、あくまで私の考えである。

円朝が、忠義・孝行、勧善懲悪を描いてきたということは
みてきたのだが、落語というのは、もちろんもっと幅が広い。
色々なテーマの噺があるわけである。ご存知の通り。

テーマという言い方は適切ではないかもしれない。
テーマといった明確ななにかがない噺もあるので、タイプ
といった方がよいかもしれぬ。

なん回も書いているが、亡くなった立川談志家元は
若い頃に「落語とは人間の業の肯定である」といった。
「現代落語論」(三一新書・1965)

ちゃんとした落語論である。
当時まで噺、落語家の評論という歴史はあったのだが、
落語とはなんであるか、なんという議論をする人はいなかった。
(その後も、あるいは今でも立川流以外では少ないと思われるが。)

真打昇進、談志を襲名したのが1963年、その2年後、29才に
こんなものを書いているのである。

そんなことも踏まえつつ。
まずは、最もわかりやすいと思われるところから、考えてみよう。
円朝の、忠義・孝行と正反対の噺がある。
「二十四孝」という噺をご存知であろうか。短い一席もの。

円朝はおそらく演っていないであろう。どちらかといえば、
三遊派ではなく、柳派のものといってよいのか。初期の速記、
「口演速記明治大正落語集成」に明治24年(1891年)禽語楼
(きんごろう)小さんと春風亭柳枝(3代目)となぜか二人の別の
バージョンのものが載っている。どちらも柳派。(これ、もしかすると
ポイントかもしれない。)禽語楼小さんのものは、現代に伝わっている
ものとほぼ変わらない。(ちなみに禽語楼小さんとは2代目
柳家小さんなのだが、この人だけ禽語楼の号を名乗っている。
当時名人といわれ、漱石も贔屓にしていたのは有名。)

“孝行”を徹底的に茶化している噺である。
前座噺ではないかもしれぬが、前に書いた、おうむ返しの噺。

八五郎が大家さんに、離縁状を二本書いてくれとくる。

大「一本は手前(てめえ)の内儀(かみ)さんにやるんでわかるが、
  もう一本はいってぇ誰にやるんだ。」
八「決まってらぁな、ババアだよ」
大「なんだババアとは」
八「ババア知らねえかい?うちにいるバアア。古くからいるよ。
  皺くちゃになっちゃって、ガサガサになっちゃって、
  バクバクになっちゃってさ、提灯バアアに、唐傘ババア」
大「なんだババア、ババアと口汚く。ありゃぁオメエのお母(か)っ
  さんだろ」
八「よせよぉ、お母っさんなんて人聞きがわるい」

「二十四孝」は、私は演らないが冒頭が同じ「天災」を演る。

この後「天災」は八五郎に意見をしてもらおうと、大家さんは友達で
心学者の紅羅坊奈丸(ベニラボウナマル)に手紙を書き、これを持って
八五郎は紅羅坊奈丸の家へいく。そこで、様々、紅羅坊奈丸に説教を
されて、なるほど、と一応納得する。長屋へ帰って、熊五郎が別れた
内儀さんと包丁を振り回して大立ち回りをしていたという話しを聞いて、
今聞いた紅羅坊奈丸の説教を熊五郎にしようとして滅茶苦茶になる、
という噺。

「二十四孝」は大家さん自身が二十四孝の話しを例にして、親孝行の
大切さを説くのだが、八五郎はこれを徹底的に茶化す。

大「親孝行をしろ。孝行をしたい時分に親はなし、さればとて、
  石に布団は着せられず、というだろ」
八「はあ。香々(こうこう)を漬けたい時分に茄子はなし、さればとて
  胡瓜は生でかじられず。」

今風にいえば、八五郎はぼけ倒す。

「天災」の方は、喧嘩をするな。腹が立っても、我慢をしろ。
天から降ってきた災いと思ってあきらめろ、という。

紅「気に入らぬ、風もあろうに、柳かな。
  風の吹く方を背中に、柳かな。

  堪忍のなる堪忍は誰もする。ならぬ堪忍、するが堪忍。
  堪忍の袋を常に首にかけ、破れたら縫え、破れたら縫え」

八「神主の、奈良の神主、駿河の神主、中で天神寝て御座る。
  あ~こりゃこれ」

紅「屋根から瓦が落ちてきたら、ここを通った身の不幸と思って
  あきらめる。
  そんな風に思えませんかな」

構造とすれば、既成の道徳なり規範に徹底的に反抗する。
茶化す、ぼける。そういうことになっていよう。

これ「悪党の世紀」の時代にこの形になったのではなかろうか、
というのがまずは私の仮説なのである。

言葉をかえると、既成の道徳、価値観を疑ってみるという
言い方にもなると思う。
これは談志家元がいった「業の肯定」と言ってよいと思う。

高慢なツラをして、上から目線で説教をたれるお前は、一体
なに様だ。裏へまわってなにをしてるかわからねえ。
そんな野郎も多いじゃねえか、と。

ただやっぱり、八五郎だって、言われればわかるのである。
直して孝行をしてみようと思ってやってみたりもする。
まあ、どうせ長続きはしないのだが。

親孝行をしろ、というのは正論。それはわかる。
だが、照れもあろうし、そんな習慣もない。
どうせ続かない。

腹が立てば、喧嘩をする。
我慢する方が、精神衛生上はよくない。
だが、もちろん、腹が立って都度、喧嘩をしていたら、
社会生活は営めない。

私も「天災」を覚えて、実際の生活で、
「気に入らぬ、風もあろうに、柳かな」
と思うことはなんと多いことか。

食い物やに入って、対応がわるくても腹を立てずに
「この店に入った、身の不幸と思って、あきらめる」

そんなことを、なん回も経験した。
都度「天災」の台詞を思い出したものである。

つづく

 

 

つづく

 

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より