浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その6

f:id:dancyotei:20190317083714g:plain
円朝師の人生を須田先生のテキストに沿って振り返っている。

おもしろいし、幕末期の江戸庶民の状況が生に近い形で
伝わると思うので、細かく書かせていただいている。

円朝師のティーンエイジ、噺家修行中。
17歳、安政2年(1855年)の頃。

円朝師の伝記類には必ず出てくるエピソードがある。
浅草の金龍寺にある初代円生の墓参りに行き、三遊派再興を
誓う、というもの。

落語界をご存知でない方のために少し説明をすると
江戸落語の落語家の系譜は大きく分けると、今も二派に分かれる。

三遊亭円生をトップとする、三遊派
もう一派は、柳家小さんをトップとする柳派(やなぎは)。

前に書いたように、江戸落語が始まったの天保期、
三笑亭可楽三遊亭円生林家正蔵(各初代)の三人が
草分け。
初代円生門下には200人以上の噺家がいた。
それが、円朝が修行当時、二代目円生には円太郎、円朝父子を入れても
3人しか弟子がいなくなっていた。
(この頃はまだ柳派には小さんという名前はなく、麗々亭(春風亭)
柳橋春風亭柳枝あたりが柳派のリーダー格であったようである。)

それで、初代の墓の前で円朝は三遊の復活を期するのである。
同時に師匠円生と兄と相談し、円朝と改名する。

須田先生も書かれているが、意図的に円生の名前を
継ぐことを避けたのではないか、といわれている。

どうも二代目円生という人は、だめ、であったのは
間違いなかったよう。
弟子の数がわずか3人ではどうしようもない。

円朝には弟子も入った。
ただ、まだまだ芸は未熟で、早稲田あたりの端席(はせき、
場末の寄席のこと)にしか出演られなかったという。

今は、東京で寄席といえば、新宿[末広亭]、上野[鈴本]、浅草
浅草演芸ホール]、池袋[池袋演芸場]に半蔵門の[国立演芸場]。
これに永谷の[お江戸日本橋亭]、[お江戸上野広小路亭]、
お江戸両国亭]あたりまでが定席(じょうせき)といって休みなく
落語家などが毎日出演る寄席。
江戸末には寄席の数は200とも300ともいわれ、数町に一つはあった
ことになる。下谷広小路、浅草、両国など盛り場にある人気者が
出演るところから、素人なども混じって出演る場末の席までそれこそ
ピンからキリまで様々であったわけである。むろん場末では
客など入らない。

そして、この安政2年10月、前記した安政地震
起きている。

幸い、円朝本人、家族には命に別条なかったが、兄玄正の長安寺も、
円朝がこの時住んでいた池之端七軒町の長屋も倒壊。
下町界隈はどこもほぼ同じようなものであったようである。
幕府は天保の飢饉の際には、いわゆるお救いは機能せず
それが、大規模な一揆、打ち壊しの頻発、治安の悪化に
つながっているが、さすがに将軍お膝元の江戸では五か所で
「お救い小屋」(東叡山日除地(下谷広小路か)、浅草広小路
(雷門通り)、深川海辺大工町、八幡神社、幸橋御門内)を
開いている。ただし、実際に実行したのは「家持層」で
あったという。大店や町役人ということか。
一方で『「悪党共抜身ニて歩行という噂」も流れていたように、
確実に治安は悪化していた』ようである。

この安政地震の記憶は江戸人にとっては大事件で文明開化期に
なったといってもよい明治19年円朝の新聞連載の噺の枕では
ほぼ安政地震について述べられているようである。

翌、安政3年、やっと円朝は中トリに出演られるようになる。

寄席は、むろん一番最後、トリが最も重要で、トリを取る噺家
本来は、真打という。トリを取ること自体を真を打つともいう。
また、今も、新宿末広亭などは使っているが、その席のトリの
噺家の名前を大きな看板に書いて、出す。これが大看板。
歌舞伎などでもいうようだが、役者、噺家の大幹部のことを
大看板という。真打になることを看板をあげるなどともいったが、
これもそういうことである。

で、中トリというのは、トリの次に重要な出番で中入り
(途中の休憩)の直前になる。ようやく、父、円太郎、母を含めて
円朝の給金で暮らせるようになった。父の放蕩もこの頃には
落ち着いてきたようである

ただまだ、一流の席には出演られない。
円朝は一計を案じる。なにかというと、芝居噺である。

高座の後ろに書き割りのような絵を描いた背景を置き、
道具なども用意し、芝居仕立ての噺。

先代正蔵師が演っていた写真を見た記憶があるが、
芝居噺は今は滅んでいるといってよいだろう。

これが当たった。
段々に円朝の高座に客が入るようになっていったのである。

そして「安政6年(1859年)、21歳になった円朝は師匠円生を『中入り前』に
頼み、「よい席」で真を打てるようなった。」のである。

だが、師匠円生というのは、どうしようもない男であった。

円朝は芝居噺で道具の用意をするので、なんの噺をするのか
まわりでは事前にわかるのである。円生はトリの円朝の前に、
円朝の演じる予定の噺を先にしてしまう、のである。

今もそうであるが、一日一つの寄席では、同じ噺はしてはいけない。
もっというと、同じ噺はもちろん、同系統の噺すら原則かけては
いけないことになっている。(落語には、同工異曲の噺が数多くある。
例えば「おうむ返し」なんというが、大家さんになにか知恵をつけられて、
同じようにやってみて失敗する。「道灌」「子ほめ」「つる」「二十四孝」
「青菜」「天災」、、前座噺が多いか。これらは噺の内容は違っており、
ちょっと厳しいようだが、基本前に上がった誰かが「おうむ返し」を
その日演っていれば、演ってはいけないのがルールである。)

師匠による弟子のいじめ。
パワハラ
伝記の類にはやはり必ず出てくるエピソードである。
これだけでなく、いじめ、いやがらせはもっといろいろあったよう
であるが、おそらく本当のことであったのであろう。私なども30年間
サラリーマンをしていたので、こんなことは日常茶飯事であることは
よくわかっている。

売れてきた弟子円朝。二代目円生自身も自らの不甲斐なさ、
この事実は自覚せざるを得なかった。それでこんないじめ、
パワハラをする器量の小ささ。一言でいえば、セコイ。
この程度の人物であるから、三遊の凋落を招いたのであろう。
だがこんな人は、会社では今も履いて捨てるほどいる。

円朝は師円生と決別をする。
縁を切っても、円朝噺家活動は、円生によって妨げられることも
なかったということであろう。そんな、円生も情けない。
この間、万延の2年ほどか。(万延元年で円生55歳、円朝22歳。)

そんなことをしているうちに、円生は病を得て、寝込んでしまう。
三人の娘のいた円生一家はたちまち食うにも困るようになる。
面倒をみる弟子は一人もいない。

円朝はさすがに放っておけず、見舞い、金銭的援助もしている。
偉い。私なら、ざま~みろ、と思い、しないかもしれぬ。
だがまあ、もはや円朝の人気はうなぎのぼりで、差は明らか。
人気商売、放っておいては、円朝自身の評判にも差し支える
ということもあったのであろう。

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 


つづく