浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



鳥越祭2017 その4

dancyotei2017-06-18



一週間経ってしまったが、
引き続き、鳥越祭。


6月11日(日)


鳥越神社の例大祭
鳥越祭。


アド街」でもやっていたが、
鳥越神社は、トリゴエ、ではなくトリコエ、と
濁らない。
したがって、祭もトリコエマツリと濁らない。


ただ、現代の町名の鳥越はなぜかトリゴエと濁る。


鳥越という町名は江戸の頃からあった。
さらに鳥越神社は江戸以前からあって、町名の
鳥越もトリコエと濁らないのが正しいのであろう
と思うが、戦後なのか、どこかで間違ってしまった
のであろう。


これは今年の本社神輿の渡御のルート。


氏子には朱引き図などといって、配られる。


宮元、西三筋、小島二東、阿部川、栄久、菊屋橋、


北松山、南松山、永住、七軒、小島二西、鳥越一、


二長町、柳北、柳壹南、柳二、浅三、東三筋、三筋南、


三筋北、三桂の合計21町を渡して担ぐ。


一方、本社神輿の提灯にも書かれているが氏子町十八ケ町、と
いわれている。


珍しく、一次史料(正確には1.5くらいか)を紹介しよう。


史料名は『東都歳時記』(東洋文庫平凡社・1970・朝倉治彦校注)。


今も出ているものだが、原典は天保9年(1838年)刊、
江戸後期の江戸の年中行事を集めた本である。


六月の項に鳥越祭が出ている。


「九日


浅草鳥越明神祭礼 八日より賑わへり。


別当長楽寺。神主鏑木氏。古来は当月十一日なり。


中古改めて九日とす。寛政八年辰年迄は毎年産子(うぶこ)の


町々より出しねり物を渡しけるが、同じ年より


中絶す。神輿は隔年今日産子の町々を渡す。」


神主鏑木氏は、今も同じ姓を名乗られている方。


産子というのは、今いう氏子のことだが、
産土神(うぶすながみ)を祀る者という意味である。
(今は一般には神社は氏神といわれ、私も氏子という言葉を
使っているが、氏神の文字通りの意味は、氏(うじ)
=一族の神のことである。
これに対し、生まれた土地の神様のことを産土神という。
それで氏子ではなく産子というのが本当は正しい。
この文章の中では混乱を避けるため引き続き、
氏子の言葉を使う。)


神田祭にしても山王祭も江戸期の江戸の祭は、基本
神輿ではなく山車の祭で、山車に加えて、様々な
テーマの仮装行列のようなものが列に続いたのだが、
これをねり物といった。


そして、注目すべきはその後。
ねり物は中止されたが、この頃、神輿は一年おきに
出ていた、のである。


この後、以下のように続く。


「早朝本社の前より、南へ元鳥越町福富町壹丁目


書換所跡町屋敷脇出戻り・・・中略」


「中略・・・松浦家井伊家御屋敷の七曲り通り


甚内橋渡り本社へ帰輿あり。」


神輿の渡御の町(場所)を列挙している。


この界隈、武家屋敷が多くまた、北部は寺町であるがこれらの
寺の名前などを照合してみると門前町なども含んで、驚くことに、
今の氏子範囲とほぼ同じなのである。引用を続ける。


「寛政八年の番組産子町々左の如し。


町数廿二丁、出し数十七本に、ねり物を出しけるなり。


『一番』浅草壽松院門前『二番』同所『三番』同猿屋町


『四番』同代地『五番』同阿部川町『六番』同新寺町


三ケ寺門前十二ケ寺門前『七番』右門前の内『八番』同


『九番』同『十番』浅草花蔵院門前『十一番』下谷小島町


『十二番』浅草元鳥越町『十三番』『十四番』『十五番』


『十六番』『十七番』 何れも同町の内より出る。」


“出し”は、いわゆる山車でよいのか。


神田祭山王祭も同様だが山車に番号が付けられ、
その順に渡御をした。番号はこれであろう。





また「町数廿二丁(22町)」と記されている。


寺の門前などを町として数えていたのだと思うのだが
明治以降、あるいは現在の旧町とは扱いが違うので
増えている、減っているなど、違いなどはよくわからない。


『東都歳時記』の鳥越祭の記述はここまで。


明治以降は原典にあたれていないのだが、
『鳥越神社氏子十八ヶ町睦会七十年の歩み』
(鳥越神社氏子十八ヶ町睦会・1982)という資料があるよう。


「十八ケ町睦会」の70周年記念誌のようなものであろう。


明治の終わり頃に「鳥越八ヶ町、宮元、向柳原、猿屋町、小島町、
七軒町、永住町、阿部川町、栄久町が出来、氏子二十数ヶ町の
睦会が合同し、十八ヶ町睦会が誕生した」という。


まず、鳥越八ヶ町というのはなんであろうか。
主だった町なのか、、それにしては三筋が入っていないのが妙ではある。
なにかの事情があったのではあろうが。


「氏子二十数ヶ町の睦会が合同し、十八ヶ町睦会が
誕生した」これも妙ではある。
十八ではなく二十いくつとすればよかったはずである。
結局、十八ヶ町の経緯、理由はよくわからないが、
江戸期、遅くとも寛政の頃から、現代まで同じような
区域を氏子範囲として、隔年、神輿の出る祭が
行なわれていた。





つづく