浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



浅草・弁天山・美家古寿司 その1

dancyotei2016-03-15

3月13日(日)夜

日曜日、夜。

今夜は、内儀(かみ)さんの希望で
浅草弁天山[美家古寿司]へ行くことになった。

夕方、TELを入れてみると、18時半まで
とのこと。

5時半に行くことにする。

春日通りからタクシーに乗る。
蔵前(江戸)通り経由で吾妻橋東詰、東武浅草から馬道通り。
これでワンメーターで着くのだがちょっと不思議。

弁天山というのは、ご存知の人はあまりおるまい。
まあ、地名といってよろしかろう。

浅草寺境内の南東の隅っこにある
ちょっとした小山(こやま)。
この小山が弁天堂があるので弁天山。

この弁天堂、お堂の見た目は地味だが「老女弁財天」という弁天様で
関東三大弁天の一つになっている。
また、この山には江戸時代、時刻を知らせた時の鐘があり、
今も朝の6時、昔風にいうと明け六つに鐘が撞かれている。

江戸の地図


 

私も東武の浅草駅から朝一番の列車に乗ることが
たまにあるが、この鐘を音を聞くことがある。

それこそ

花の雲 鐘は上野か浅草か

芭蕉翁が詠んでいる鐘の音。
江戸期浅草と上野に時の鐘があって、浅草はここに、
上野は上野の山の大仏のそばにあった。
(上野も今も同じ場所にあるのだが。)

今のようにビルなどなく、他の騒音もない頃のこと。
おそらく、私の住んでいる元浅草のような、
上野と浅草の中間の場所であれば、どちらの鐘の音も
聞こえていたのではなかろうか。かなりの近場である。

浅草というところは、浅草寺とともに元来歴史は古く、
律令の頃までは楽にさかのぼれる。
むろん、江戸城も江戸の町も道灌公すら影も形もなかった頃。

当時武蔵の国と下総の国の往還がこのあたりを通っており、
かつ国境は隅田川で、この浅草あたりには浅草寺とともに町があって、
川を渡る場所であったという。

往時、今の上野から浅草にかけては、沼や池が多くある
低湿地であったのだが、浅草付近は比較的地盤が高く、
浅草寺よりも少し北に待乳山(まつちやま)といって弁天山よりも
もう少し高い丘の上にお寺があるが、これだったり、
弁天山も人の手で作ったものではなく
古くからの小山、で、あったのではなかろうか。

[美家古寿司]はこの弁天山の、馬道(うまみち)通り側にある。
馬道通りというのは、東武の浅草駅の西側の通り。

[美家古寿司]の創業は慶応2年(1866年)と伝えられている。

江戸前のにぎり鮨というのは、それまで江戸でも鮨といえば、
押し寿司などのいわゆるなれずしであったところ
文政7年(1824年)両国の華屋與兵衛が考案したといわれ、
その後、立ち喰い、高級含めて瞬く間に江戸中に広がっていった。

今や世界中で食べられている江戸生まれのにぎり鮨、で、あるが、
江戸創業の鮨やというのは今の東京で数えるほどしか残っていない。
この店はその数少ないうちの一軒である。

初代から数えて当代親方で六代目。
江戸前のいわゆる“仕事をした”種をにぎる鮨を標榜している。

通りに面した店構えは一間半、あるいは二間程度であろうか。
そう大きくはない。

暖簾を分け、ドアを開けて入る。

すぐ左からカウンター。
カウンターの向こう側、手前に親方、奥に七代目。

名前をいって、七代目に示された真ん中の席に掛ける。
ちょうど七代目の前。

七代目は私に、ブログ、読みました、と囁く。
・・・お恥ずかしい。

ビール、キリンをもらって、
つまみ数品の入った、おまかせの「司」をもらうことにする。

お客は他に両側に二組。
両方とも、地元の方のよう。
日曜の夜の浅草は、やっぱり近所のお客が多いようである。

ビール。

 

お通しはすみいかの下足。
薄めのぽん酢か。
珍しい。私は初めてではなかろうか、玉子が入っている。
プチプチとした食感。

つまみ一品目。

 

海苔の佃煮とまぐろの赤身。
これは定番のよう。
前にきた時にも出てきた。

かじきのねぎま、といって出された。

 

おつゆである。
すっきりとしているが、うまみの深いだし。
かじきの身と柔らかく煮込んだねぎ。
寒い時には汁物で酒を呑むのもよい。

磯部焼き。


平貝、で、ある。
鮨ねたにする貝類は、私自身はあまりこだわりはないのだが、
唯一、平貝は例外。
このサクサクとした食感がよい。
特に、こうして香ばしく焼いたものは最高である。

刺身。

 

左が平目縁側、右上まぐろ、下しまあじ

縁側もよいが、しまあじがうまい。

ここまでで、つまみ終了。


つづく

 

 

弁天山美家古寿司