さて。
今日は最近考えたこと。
7月の隅田川花火大会の回に、落語「たがや」のことを
少し考えてみた。
この時にも書いたのだが、落語が生まれて発展した
文化文政から、天保、そして幕末の頃、まとめて江戸後期と
いってよかろう、がここなん年か深く気になっている。
これは、立川談志は「人間の業(ごう)の肯定である」といったが
落語とはなんなのか、という命題に私なりの答えを出そうとする
試み、ではある。
この頃の世の中や人々がどんな状況で、どんなことを
考えて生きていたのか。
当然これを背景に落語も生まれているのだから、明らかにする
ことが、落語とはなにか、ということとも同義なのでは
ないか、とも思っている。
そしてちょっと大袈裟な言い方になるが、この時代の人々の哲学を
明らかにすることは、それ以後、明治から現代に至るまでの
我々日本人を考える基盤にもなると思っている。
落語だけではなく歌舞伎もその考察の一助である。
勉強として歌舞伎も観なければと観始めて、ここにも
素人なりの観劇記らしきものを書いているが、その中で、私が引っ掛かったのは、
やはり同時代の作者、河竹黙阿弥という人の作品である。
むろんこの人の作品は江戸から明治にかけてたくさんあって
様々なバリエーションがあるので、一括りにはできないが、
やはり、盗賊を主人公にした幕末の白波物といわれる一連の作品群。
中でも、なん度も書いている「三人吉三」のことである。
親殺し、近親相姦、その他なんでもあり。
世紀末的世相を反映して、こういう作品が生まれた
などとよく説明されるのだが、そんな単純なことではないと
思っているのである。
さて。
ここでこの前の、落語「たがや」考察の最後に書いたことに
もう一度戻ってみよう。
「たがや」では、今は武士の首を飛ばすが、この話が生まれた頃には
たがやの首を飛ばしていたのだろう、と考えた。
おそらく明治になって単純な勧善懲悪が好まれるようになり
今の形になった。
「勧善懲悪の落語など、落語らしくない。
“たがや”の首をなんの衒(てら)いもなく、すっ飛ばす。
これこそ江戸落語。いかがであろうか。」と。
以前に黙阿弥翁の歌舞伎「三人吉三」でも書いたが、
この江戸後期の江戸人というのは、
個として自立している近代人といってよいのでは
なかろうか、という仮説である。
(ここでいう近代人というのは産業革命後の、
欧米でいうところのものとは社会背景も違っており、
江戸的近代人とというような言い方をしなければならなかろうが。)
それを背景に江戸落語も生まれている。
ここで江戸人と書いたが、主に町人、と、いってもよいのかもしれない。
例えば、江戸に住んでいても、幕臣の、それも上級クラスの
大身旗本などは、武士の価値観があって、家と身分を
守らねばならず、この限りではなかろう。
ただし、幕臣であっても、江戸に住んでいれば、身分がある程度以下の、
例えば勝海舟のように、そういった古い価値観から自由な
人も少なからずいたのではあろう。
武士でありながら、それを嫌って、それこそ噺家になったり
三味線の師匠になったり、という例もよく聞く。
武士は支配者階級ではあったが、実質的には幕府を含め
莫大な借金を慢性的に抱え、経済はほぼ行き詰っており、
実質的には商人が握っていたわけである。
士(農)工商、一応は身分社会として固定化されてはいたが、
商人であっても、やはり稼業を嫌って他の仕事を選ぶということも
あったであろうし、またあるいは、若旦那はお金があれば遊び暮らし
その挙句に勘当され、芸人に、なんということも武士以上にあった
であろう。
かの黙阿弥先生も元は日本橋の大店の次男だが、
放蕩をして勘当され、その後歌舞伎作者になっている。
落語に遊び暮らす若旦那がべら棒に多く描かれているのも
あながち誇張された世界ではなかったのだと思われる。
逆にお金さえあれば、御家人や旗本の株を買って、武士にもなれた
わけである。先の勝海舟の家もその例である。
むろん今のような職業選択の自由はなかろうが、
現代の我々が考える以上に『自由』だったのでは
なかろうか。
これは“家”というものからの自由といってもよいように思う。
日本社会には家制度というものがあって、これに縛られていた
のが旧来の価値観であると説明されるが、これもあまねく広まったのは、
明治以降ではなかろうか。
今考えている江戸時代後期の江戸にあっては、先のように一部の
武士階級と限られた大商人などだけのもので、職人は無関係であろうし、
商人であっても、よほどの大店でも次三男はあまり関係なかろうし、
ぼて振りの唐茄子売りの子は、むろん継ぐ理由はなかったろう。
割合としてはわからぬが、文化の担い手は『自由』な江戸人であった
ことは間違いなかろう。
一方で、日本全体のことを考えてみると、多少異なっていたであろう。
地方、農村部に住む、農民は田畑を耕さねばならず、文字通り封建社会の一員として、
(そこそこ以上の田地を持つ百姓は)家を守らねばならない
という規範は、大きな柱としては存在し『自由』は
土地に縛られない大都市江戸特有のことであったとは思われる。
ただし、田舎のお百姓であっても、完全に無関係ではなかった
はずである。
またまた落語だが「ねずみ穴」という噺がある。
これは田舎の農家の次男が、財産を分けてもらって
商売を起こそうと江戸に出てくるが、遊びを憶えすべてを
使い果たしてしまうというのが冒頭である。
(この噺では兄も出てきて、最終的には二人で江戸の商人として成功する。)
お百姓も次三男は家とは無関係であろうし、飢饉その他で
食えなくなる者は少なからずおり、そうした農民は多く江戸に
流入しており、江戸人の『自由』はまったく知らない世界の話では
なかったことであろう。
つづく