浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

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談志がシンダ。9 〜落語とはなにか?「坂の上の雲から」

さて。



もう少し早く終わるつもりであったのだが、
書き始めると、書くべきことが随分と出てきて、
長くなっている。


やはり、私が長年考えていることなので、
どうしても、長くなる。
(書きながら考えている、というのもあるのだが。)
お許しを。


と、言いつつ、ちょっと、タイムリーでもあるので
余談めいているが司馬遼太郎先生の「坂の上の雲」のこと。


昨日、NHKドラマの「坂の上の雲」が再開し、
ご覧になられた方も多いのではなかろうか。


私も視たのだが、あれを視ながら、
気が付いたことがあった。


それは、


「ああ。この人達は、武士なんだ」と。


物語の中でも語られているが、
『圧倒的なロシア軍の火力の前で
日本人は近代を思い知らされた』というような
こと。


そうなのである。
闘っていたのは、武士=前近代人だったのである。


この文章で私は、落語を、あるいは、江戸後期の
江戸人は前近代というには、成熟しすぎている、
欧米でいう近代人ではないが、前近代人でもない、と書いている。


日露戦争が舞台であるあのドラマの主要な登場人物だけを
みていても、聞こえてくるのは薩摩弁と、長州弁ばかり。
(主人公の秋山兄弟はご存知の通り伊予松山藩
松平家で討幕派ではないが。)


乃木将軍は長州で、東郷元帥は薩摩。


高橋英樹の演じている陸軍参謀本部次長、児玉源太郎は長州。
米倉斉加年大山巌満州軍総司令は薩摩。
村田雄浩が演じて鼻息の荒かった、乃木将軍の参謀、
伊地知幸介も薩摩。


海軍は、舘ひろし演じる島村速雄、連合艦隊参謀長は、
珍しく(?)土佐。
(注意して聞いていたのだが、舘さんは、
土佐弁らしい言葉を、使っていた。)
石坂浩二山本権兵衛海軍大臣も薩摩。


挙げていけばきりがないが、ほとんど薩長
たまに、土佐。
(そういう意味で、秋山兄弟はむしろレアケースである。)


明治期のこのあたりの指導者は、ほとんどが薩長出身で
討幕、明治維新の勢いのまま、世の中を動かしていた。
そして、彼らは前近代人である“武士”であった、と。


こういって、差支えないのではなかろうか。


これに対して、落語は、江戸後期の江戸人は、
前近代人ではなく、もっと成熟していた。


そういうことか!。
わかった。


江戸人には、こんなことはできなかったのである。


戦争なんて、寒いし、暑いし、ひょっとしたら、
命が危ない。
そんなことはしたくない。
馬鹿馬鹿しいだろ、と。


幕末の幕臣である、旗本御家人は、刀を差すのさえ重くて、
など、よく聞かれる言葉だが、町人が前近代人でなければ、
江戸の武士達だって、前近代人ではなかったはず。


現代においては、戦争なんて馬鹿馬鹿しい、は、とっても、リーズナブルである。


世界平和万歳!、寒いのも暑いのも痛いのもいやだ、
は、至極当然な考え方である。


が、しかし幕末、開国を迫る欧米列強、ひょっとすると、
植民地化されるかもしれない、という国の危機にあって、
前近代人たる薩長土肥の武士達は、立ち上がった。


明治維新は、ある種、革命であったことは間違いないので、
この時の討幕派の手段を論ずるのは意味がなかろう。


また、幕府はもはや統治能力は失っていたことは
間違いない。
しかし、勝海舟をはじめ有能な人はいたわけで、
革命という形を経なくとも、時間をかければ?、
近代国家に生まれ変わることもできた、かもしれない。
しかし、その時間を待ってはくれなかった、ということであろう。


幕府は倒され、幕臣達は、敗軍となり、その後の
支配者階級には旧幕臣江戸人はほとんど入れなかった。
(入りたかったのか、という論議もあるが。)


それが明治という世の中であった。


前近代人よりも成熟していた幕臣江戸人のうちの有能な人が
多く、その後の政治にも参加していれば、どうなっていたのか。
まあ、そんなことも頭をよぎらないわけではないが、
それは置いておいて、明治の世をもう一度みていこう。


廃藩置県、四民平等。
あるいは、少し後になるが、憲法と国会設立。
これらは、近代国家としては、最低限必要なもの。


それから、欧米列強に対して、不平等条約撤廃のため
文明開化、富国強兵。


文明開化はまだしも、まずは“強兵”が必要であったか。
この議論であろう。


日清、日露、第一次大戦日中戦争から第二次大戦と
この強兵の行く末が、原爆投下、敗戦となる。


この時代に平和主義、というのは、なかったのか?
という議論である。


当時の世界情勢は帝国主義華やかなりし頃。
強くならなければ、やられてしまう。
であれば、強くなるしかない。
そういう議論である。


しかし、同じ強くなるにしても、もう少し別の選択肢も
あったような気はする。


例えば、アジア諸国との連帯。


日韓併合日中戦争満州設立にいくのではなく、
平和主義を基本に、彼らと一緒に、
欧米列強に対抗していくシナリオ、で、ある。


欧米列強に対抗しながらも、実際にはその一員になることを
目標にしてきた。(これは、現代でも変わっていない。)


欧米列強が植民地を作っていたから、日本も
朝鮮半島、台湾、満州と、同じことをした。


明治の頃、日本人はアジアの人々にそこそこ、
尊敬をされていた。


孫文をはじめ、清朝を倒す辛亥革命を支援した日本人は
有名であるし、当時、ベトナム、インドなどの独立運動などを
支援する動きもあった。


清国のように、欧米にやられっぱなしではなく、
一応は独立を保ち、近代国家を目指し、そこそこ
形をつけつつあった日本はアジアの人々にある程度の
手本となっていたといってよかろう。


欧米にくっついて、同じことをするのではない道を
選ばなかったのは、明治の指導者の選択である。


最初に明治の指導者は、武士で前近代人である、
と、書いたが、成熟していた旧江戸人が、指導者であったら、
どうであったか。(もしかしたら、戦争の道は選ばなかったのではないか?
暑いし、寒いし、痛いし。そんなことは江戸人は好き好んでは
しなかったのではなかろうか。)


むろん、こんな仮定は乱暴な話しである。


例えば、落語の了見が、平和主義にすぐにつながるわけでは
ないであろうし、業の肯定で、そのままで、
政治ができるとも思えない。


だが、なにかヒントがありはしないか。


これは、明治のことばかりではなく、
現代の私達の問題としても依然として
存在しているではないか。






もう少し、つづく。