浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

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「花燃ゆ」のことから その2

dancyotei2015-01-13



昨日から、NHK大河「花燃ゆ」のことから
幕末、明治維新、そして明治以後のことを考えている。


確かに、幕末というのはエンターテイメントとして
特に、薩長など討幕側から描くととてもスリリングだが
勝ち戦だし、また、大儀のようなものもあるように見えて、
おもしろい。


だからいまだに、幕末はそういう文脈でなん度もなん度も
描かれる。


歴史小説などではその代表選手がやはり、
司馬遼太郎であろう。


司馬氏が関西、大阪の出身であるからであろうか。


幕末、維新、明治、と一連、肯定的にとらえているといって
よいのではなかろうか。


幕末、明治のものでは先年ドラマ化された「坂の上の雲
あるいは「龍馬がゆく」、随分前に大河になっている「花神」なども
そうであろう。


別段、この人だけではなかろうが、司馬氏は人気もあり
幕末から明治維新、そして明治万歳!、を戦後も一般に広め
定着させた多くの部分を担っているのではなかろうか。


池波正太郎はどうか。


やはり、東京下町生まれの池波先生は、必ずしも
そういう書き方はしていないように思われる。


幕末ものでは、幕臣で剣客、箱館まで戦った伊庭八郎を描いた
「幕末遊撃隊」。新撰組永倉新八を描いた「幕末新選組
など幕府側から描いた作品群。


また、新政府側だが、長州ではなく薩摩の桐野利秋を描いた
「人斬り半次郎」。
どうも江戸者に対して薩摩人は長州人とは違う
態度を示していたようである。


その他、架空の人物だが元旗本の剣客の幕末から明治を描いた
「その男」いう長編もあるが、人斬り半次郎こと
桐野との交流が描かれている。


一方で池波先生は、明治の文明開化を舞台にした作品は
書かれていない。
これも偶然ではないのではなかろうか。


さて。


幕末、米国によって無理やり鎖国を破られ、
幕府は統治能力を失っており、薩長による討幕。


そして彼らによる明治新政府ができた。


まあ、昨日も書いたが、ここまでは必然であった
と私も考える。


幕臣勝海舟などほんの少数だけが改革派で
二百数十年続いた既得権益に胡坐をかいた幕府側に
自己改革能力があったとはとても思えない。


それはもうひっくり返すしかなかった。


改革のために討幕に働いた有名無名な若い志士達は
きっと血沸き肉躍る、たのしい日々であったのであろうと
想像する。(たとえ、それで倒れたとしても。)


だからやっぱり、幕末ものはおもしろいし
勝ち組である薩長側から描いて追体験したい
のである。


さあそれで。


慶喜は謹慎、江戸城無血開城
東北諸藩の抵抗も終わり、残すは箱館、、、。


ここから、薩長による新政府の国家建設が始まるわけである。


最初の外交課題は幕府が結んだ不平等条約の撤廃。


このために、富国強兵、文明開化、ということになる。
猿真似と笑われても、鹿鳴館を作り欧化にいそしむ。


条約改正のための富国強兵、文明開化はまだよいが、
なぜあそこまでの欧化をしなければならなかったのか。
まあ、やはりこれは疑問ではある。


皆さんはご存知であろうか。
最近歌舞伎を観るようになって知ったのであるが、
明治になってこの鹿鳴館時代から、新しい歌舞伎が
作られていたのである。


欧州の上流社会には、演劇、特にオペラを観る習慣があり、
我国でもこれを演ろう、ということになったのだが、
目を付けたのが、歌舞伎であったという。


江戸期、歌舞伎は武家は正式には観るものではなかった。
(むろん、プライベートでは観ていた人はいたわけだが。)


武家の正しい芸能といえば、能、だったのである。


そこで、能から題材を取った演目が作られた。


代表的なのものは「鏡獅子」というやつであろう。


歌舞伎を観たことがない人も、映像などでよく出るので
ご存知だと思う。


役者が頭から床まで届く長い毛を付けて、
グルグルと廻すアレ。


團十郎海老蔵、親子で紅白の毛を付けて二人でやるのを
連獅子、なんといっている。


派手で勇壮。
今でも人気なのであろう。
よく演じられている。


個人的には、たいしておもしろくもないというのが
本音である。


初演は明治26年である。
こういう演目を作って演じた動機というのは、
鹿鳴館と同じなのであろう。


私は観たことがないが能の「石橋(しゃっきょう)」
という演目を歌舞伎に移したものなのである。


能の演目であれば、華族様、皇族方、さらに両陛下に
ご上覧いただいても、障りはあるまいということか。
(実際に明治天皇の天覧歌舞伎も催されていたようである。)


また、列強大使、公使の人々を招待して見せても
誇れるものである、と考えたのか。


これに対して、江戸からNO.1の作者であった
河竹黙阿弥先生などは、冷や飯を食わされたわけである。
(それで、新七という名前から隠居名である
黙阿弥を名乗るようになったという。)


江戸人を描いた、いわゆる世話物などは、旧弊、旧式で、
鹿鳴館時代にはお呼びでなかったのである。


文化的な価値は、私は自ずと知れていると
思うのではあるが。





もう少し、つづく。