浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き2月 その6

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


NHK文化センター、断腸亭の『池波正太郎と下町歩き』


新年度4月スタート。募集中!

NHK文化センター

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



グーグルマップ。





より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き2月 築地〜銀座 を表示




ルートマップ





江戸の地図


昨日は、明石町。
築地外国人居留地のこと。


今日も、引き続き、明石町。


聖路加タワーは、少し前まで、上の展望台に上がれたが、
今は、上がれないので、そのまま、エスカレーターを降りて、
向こう側へ出る。


出て、右。


交差点を渡り、さらに右。
少し、隅田川側に戻ると、左に
和菓子の塩瀬総本家、が、ある。


塩瀬総本家


ここは、創業貞和5年(1349年)の老舗和菓子店。
なんと、室町時代
日本で初めて饅頭を作った中国の僧侶・林淨因を始祖とする。


もともとは、京都にあったのだが、
やはり家康との縁で、江戸開府とともに、
江戸に移ってきたという。


戻って、真っ直ぐ。


左側は、ずっと、聖路加の病院。
明石小学校前の交差点を右。


カトリック築地教会


ここも、居留地時代の名残。


1874年(明治7年)東京で最初のカトリック教会としてひらかれる。
当初はレンガ造り。震災で倒壊後、1827年昭和2年
古代ギリシャ神殿風の聖堂が再建された。(都歴史的建造物)


カトリック教会なのに、なぜ、ギリシャ風?
と、思われるが、確かに、パルテノン神殿のような、
柱が並んでいる。


再び、明石小学校前の交差点に戻り、
渡る。
ここから、右側の、聖路加を見ると、十字架のある、
建物が見える。これは、保存された、チャペルと、
旧病棟。ステンドグラスなども見える。


右も左も聖路加で、その間を通る。
すると、右側。
木造の古い洋館がある。


これは、聖路加のトイスラー記念館というもの。
1933年(昭和8年)建築で、宣教師の家であったよう。
ヨーロッパの山荘を思わせる建物。(区民有形文化財。)


右側は、聖路加の正面玄関。
看護大学。
道路側は、芝生の広場。


一度、外の歩道に出て、右へ。


と、角に、石碑と案内板が並んで立っている。


赤穂藩上屋敷跡と、芥川龍之介生誕の地。


赤穂藩上屋敷は、上の、江戸の地図には
載っていない。これは、この地図が幕末近くのものだから。
赤穂浅野藩は、元禄の頃、浅野内匠頭の代でなくなっているので、
当然ながら、幕末にはない、わけである。


討ち入り後、四十七士は、回向院前、東両国広小路、
万年橋、永代橋、鉄砲洲旧藩邸前(ここ)、汐留、日比谷、芝口、
泉岳寺というルートを歩いた。
そのとき、この旧藩邸前を通っている。


もう一つ。
芥川龍之介生誕の地。
1892年(明治25年)牛乳屋を営む家族のとして生まれるが、
生後7か月で両国にある母の実家、芥川家で育ち、養子となった、
と、いう。
明治の頃で、牛乳屋、というのは、やはり、元、ここが居留地
イカラなものに、縁があった、ということか。


さて。


この、聖路加の南西の角から、もう一度、隅田川方向に戻る。


すると、右側、道の脇に、妙な三角地帯があり、
ここに、二つの碑が、建っている。


一つは、蘭学事始碑。
もう一つは、慶応義塾発祥の地。


この二つは、関係ありそうな、なさそうな、
感じではあるが、それぞれ、こういうこと、で、ある。


蘭学事始碑は、1774年(安永3年)、豊前中津藩医
前田良沢が杉田玄白らとともに、オランダ語の解剖書
ターヘル・アナトミア」を中津藩奥平家中屋敷内で翻訳し、
「解体新書」を完成させた。


慶応義塾発祥の地、の方は、むろん、福沢先生なのだが、
1858年(安政5年)福沢諭吉は中津藩中屋敷内で蘭学塾を始めた。


関係は、どちらも、ここにあった、
豊前中津藩中屋敷で始められたこと、で、あった。
豊前中津は今の、大分県中津市


ここから、右前方に、公園がある。
この公園は、上の、江戸の地図の、奥平屋敷の
ちょうど、南側。
堀が、ちょっと末広がりになっているところ。
これが、ずばり、この形。


つまり、堀の跡、で、ある。


公園の中を通って、隅田川側に出ると、道の向いに、
電信創業の地、の、碑がある。
(しかし、このへん、石碑、案内板の嵐、で、ある。)


これも、居留地に関連するもの。
1872年(明治2年)横浜裁判所と
東京築地運上所に設けられた「傳信機役所」を結ぶ
約32キロメートルの電信線が架設され業務を開始した。
これが、我が国における公衆電気通信の最初である。


東京築地運上所、というのは、東京税関の元、ということになるが、
先にも書いたが、ここには、貿易商のような
人々は、あまりこなかったこともあり、
あまり、活発な仕事もなかったようではある。


この、碑の道をはさんで、右側に、月島の渡跡の案内板。


そして、「電信創業の地」の向うに、都営住宅があり、
さらに、その向こう、隅田川沿いに、「水たき治作」。
私は、行ったことはないが、1931年(昭和6年)創業。
水炊きをメインにした料亭。




ここまでで、明石町は終り。
聖路加も再開発され、それぞれの区画も大きく、
町並みとしては、わりに真新しい、きれいな感じである。
(実は、再開発前を、あまりはっきり覚えていないのだが、
そうではなかったはず、だが、、。)





といったところで、また明日。