浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



壽 新春大歌舞伎 その2

dancyotei2011-01-10

今日は昨日の続き。
新橋演舞場の、新春大歌舞伎。
一幕目の『御摂勧進帳』について。


筋書き、の端っこ書いてあった“芋を洗う”ということに
別の意味がある、という。



『植物の芋とは別に、「いも」は疱瘡(いもがさ)の
異名でもある。(中略)語呂合わせだが、江戸の人々は
弁慶の“芋洗い”に御利益を授かる思いであったようだ。』



弁慶の“芋を洗う”場面には疱瘡除けの、意味があった、ということ。


芋が、いもがさ=疱瘡(ほうそう)のこと。
このこと、実は、私は、他にも聞いたことがあった、のである。


このことについて、『御摂勧進帳』から離れるが、
ちょいと書いてみる。



芋洗い、は、芋洗い、だが、坂のこと。


六本木に、芋洗坂というのがある。
ご存知の方も多いかもしれない。
アマンド脇からヒルズ下へ降りていく坂、で、ある。


また、私のオフィスの近所だが、市ヶ谷にある、一口坂。
新見附、法政大の角から、靖国通りに向かう、
細い坂、である。
フジサンケイグループの一口坂スタジオ、
というのがあるので、聞いたことがある方も
あろう。


この一口坂は、今は、ヒトクチザカ、と読んでいるが、
実は、古くは、“一口”と書いて、
イモアライ、と読んでいたのである。


古いといってもさほど古くはなく、以前には、
この坂上靖国通りに都電の停留所もあり、それは、
イモアライザカ、と言っていた、という証言もあるようである。


実は、一口坂は、東京にまだある。


御茶ノ水、聖橋の南詰から、線路に沿って、昌平橋詰まで
下っている坂。(日立製作所の本社のあったところ)
これは淡路坂というが、別名やはり、一口坂といっていたらしい。


すなわち、これもイモアライ坂、で、ある。


東京に、イモアライ坂が、三つもあるというのは、
なにか、ある、とは思われまいか。


一口坂を、なぜ、イモアライザカと読むのか。


これは、京都の南部、淀川の南、久御山町に今もあるが、
一口、と、書いて、イモアライと読む地名がある。





大きな地図で見る




どうも、ここに関係しているらしい。


駿河台の一口坂(淡路坂)のそばには、
今、太田姫稲荷という神社がある。


ここは、以前は、一口(いもあらい)稲荷と
いっており、坂の名前はそこからついた、という。


この太田姫稲荷神社の由来によれば、
起源は古く、大田道灌の頃。


道灌公は姫の疱瘡除けのために、当時、京都の一口に
あった疱瘡除けにご利益があるという、一口神社を
江戸城内に、勧請したというのである。


これが、家康入国となり、江戸城から、
駿河台の地に、移された、という。


そう。


おそらく、市ヶ谷にも、六本木にも疱瘡除けに、
一口稲荷だか、一口神社があったのであろう。


で、ここからが、私の疑問である。
なぜ、坂、なのか。このことである。


一口神社なら、神社で終わればよさそうなものである。
そばに坂があり、坂の名前にもなっているということである。
それも三か所とも。


決してこれは偶然ではないと思うのである。


疱瘡除けの一口神社を勧請した、というのは、
まあ、ありそうなことで、それが、江戸に
三社くらいあっても、不思議ではない。


しかし、それが、どれも坂のそばにあり、
坂の名前になっている、なっている、と、いうこと。


やはり、坂に、なんらか呪術的な意味を感じるのである。


単純に考えれば、坂上に疱瘡除けの一口神社を置いて、
坂下からの厄を除ける、というような意味になろうが、
そんな簡単なものではないだろう。


坂の上の人はよいが、それじゃあ、坂下の人は、
どうなる、と、いうことである。


やはり、坂(サカ)は、境(サカイ)で、境界という意味がある。
民俗学的には、そういってよかろう。


それも、ただの境ではなく、この場合、
ある種、抽象的な境。
例えば、異界との境、と、いうような。


坂の上に疱瘡除けの一口神社を置くことによって、
異界からの厄を除ける。
坂には、そういった、呪術的な意味があった。
そんな風にも考えられまいか、ということなのである。


前に、東京には坂が多く、その坂には、
ほとんど名前がついている、ということを
書いたことがある。


そこで、坂に名前をつける、というのは、欧米などでは
あまり聞いたことがなく、おそらく、日本人に
特徴的なものではないか、とも書いた。


どうも、日本人は、やはり、こんな風に、
坂というものに、そうとう特別な感覚、
例えば異界との境というような認識、を、持っていたことは、
間違いなさそうである。




『御摂勧進帳』芋洗いから、坂の考察になってしまった。


今となっては、不思議な芝居、で、ある。
生首を、里芋に見立てて、巨大な桶で洗う。
グロイと、いってもよいほどである。


しかし、これには、疱瘡除け、の意味がある、ということ。


現代的に見れば、疱瘡は撲滅されたが、
年の初めに、我々の今年の様々な厄を
屈強なスーパーマンの弁慶が、祓(はら)ってくれる。


いわば、セレモニーとしての一幕。
『御摂勧進帳』は、そんな風に観てもよいのかもしれない。


御利益がありますように。