浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き 6月 その1

6月18日(土)昼



さて。



今日は、今月の『講座』。




外神田と、花ぶさ、で、ある。



これは、昨年度の5月と同じコース。


お茶の水駅の聖橋口集合。


昨年、気が付かなかったが、今年気付いたもの。


どこあろう、この駅前。


聖橋の南詰、東側、というのか、
昌平橋へ降りていく、淡路坂、というのある。


この坂のこと。


今年の正月観た、歌舞伎の『御摂勧進帳』
ここから、一口坂、のことにいきあたった。


一口と書いて、イモアライ、と、読む。
これは、実は、疱瘡(ほうそう)除けと関係の深い坂だったのである。


都内には、私が知っているところでは、
三つあり、その一つが、ここ。


ここは淡路坂、という名前もあるが、別名
一口坂、なのである。


一口の詳細は、上記のリンクページを
ご参照いただきたいが、今、この坂の上には、
椋の木があり、ここには明治の鉄道が通るまで、
大田姫神社というお稲荷さんがあった。


このお稲荷さんの由来は、古く、江戸以前、
なんと、太田道灌にまでさかのぼる。


これは、太田道灌が、姫の疱瘡除けのために
勧請したお稲荷さん、と、いわれ、江戸以前には、
江戸城内にあったが、家康の江戸城築城とともに
ここに移され、江戸期、ここにあった。


そして、今もある椋の木は、そのご神木であった
ということなのである。


太田姫神社は、今は、この近くだが、駿河台にある。


今、椋の木には、神社の方が書かれたのであろう、
説明がされたものが、置かれている。


正月にも考えてみたのだが、疱瘡除けと、お稲荷さん。
そして、そこには、必ず坂があり、その名前に
一口(イモアライ)と名付けていること。
このことに、私は、引っ掛かるものを感じているのである。


イモアライの、イモは、=疱瘡、と、考えてよいのであろう。
つまり、イモを洗う。文字通り、疱瘡除けと、考えられまいか。


疱瘡除けにご利益があるお稲荷さんは、まだわかるのだが、
必ず、坂とイモアライがセットであること。
(都内に、少なくともイモアライという名前の坂が、三つもある。)
これは偶然ではなかろう。


坂に特別な意味があると、思えてくるのである。
坂自体に、邪悪なものを払う力があるのか。


私の推論では、坂は、境で、異界との境であろうと。


私の学んだ、日本民俗学では、いろいろなところに
日本人は空間的に、境を見出してきたが、坂もその一つ、
と、考えられていたと思われる。


つまり、異界から邪悪なもの(=疱瘡)が入ってこないように、
ここに、神社を祀った。


と、まあ、私の考察は、そんなことなのだが、
都心のこんなところに、とっても、民俗的で
かつ、室町時代まで、さかのぼれるものの痕跡が、
今でも存在しているのは、とても不思議な
感じがする、ではないか。


さて。


ここから、聖橋を渡り、湯島の聖堂。


ここは、いつ来ても、草ぼうぼう。


逆に、今、原っぱなんぞ、なくなった都心では、
雑草でも植物がたくさんあること自体、貴重な気がしてくる。


そんな思いで、皆さんと聖堂の境内を歩いていると、
聖堂の外壁(築地塀)の内側に、なんと大きな
蛇、青大将であろうか、がうねうねと、上の方に、
登ろうとしていた。


雨の振りっぽい、梅雨時。
蛇も、むくむくと、出てきたのか、、。


しばらく、皆さんと見物していたが、
これもまた、珍しい。


ここから、隣の、神田明神へ。


昨年は資料館も見たが、今年は、これは省き、
境内をぐるっと回り、隣の、神田の家へ。
これは、震災後に神田鎌倉河岸に立てられた、
江戸期から続く、材木店、井政、の店舗で、
しっかりした木造建築をここに移築してある、のである。


普段の土曜日は閉館しているのだが、今回は、
イベントをやっており、庭の中まで入ることができ、しばらく見学。


もう一度、神田明神の境内を横切って、表の急な男坂から
明神下へ、降りる。


右手に曲がり、旧講武所花柳界の名残、料亭新開花。
表通りに出て、うなぎの、明神下神田川


明神下の交差点を向こうへ渡り、昌平橋方向、
ヤマギワの手前の路地の入り口。


昨年もここへきたのだが、ここは、今は新宿が
本店の伊勢丹の創業の地。


その、碑が路地の入り口角に、あったのだが、その碑の痕跡だけは
あるのだが、碑、そのものは、ない。


誰かが車でもぶつけたのか、、。


わからぬが、いずれにしても、ここは旧神田旅籠町で、
伊勢丹の発祥の地であることは、間違いはなかろう。


さらに、その、ヤマギワの裏、とんかつや、丸五の、隣。


小さなお稲荷さん。


名前は講武稲荷。
これが、ほぼ、唯一の、花柳界講武所』の
名前を残しているもの、で、あろう。


神田明神下の花柳界講武所は幕末から、
戦後昭和30年頃まで、規模はさほど大きくはないが、
このあたりに存在していた、のである。


ここからは、末広町の花ぶさ、までは真っ直ぐ。


メイドのオネエサンが客引きをする中を、歩く。






今日は、ここまで。


明日は、花ぶさ。