浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



銀座・新富寿し その2

今日は、前号のつづき。
池波先生の行きつけだった、鮨やとして
あまりにも有名な、銀座、新富寿し、へ行ってみた。
今日は、新富寿し、に、ついて、考える。


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さて。


銀座、新富寿し。
まず、最初の感想は、なるほど、さもありなん。
これが池波先生のお好み、なのか、と。


池波先生は、鮨やでのマナーは、


少しつまみを切ってもらって、酒は多くとも、2〜3本まで。


にぎりなったら、酒をやめて、お茶に。
にぎられたら、すぐに食べる。
呑みながら、だらだらとし、にぎられた鮨を、
いつまでも付け台に、置いておいてはいけない。


または、アガリ、シャリ、ガリ、ムラサキ、などなど、
これらは、店の符丁。
通ぶって、お客が使うものではない。
オアイソ、など、客が使うのに至っては、愚の骨頂。
笑止。オアイソは店がするもの。


あるいは、いくらうまいからとはいえ、同じものを、5つも6つも
頼んではいけない。店への大迷惑。他の客に出せなくなる。


等々、様々、書かれている。


基本的には、私も、この教えを守るように
心がけている。
今日も、ビールは先に呑み終わり、
あとは、お茶にした。
符丁についても使わない。


いいおじさんが、大きな声で、アオイソ、などと
怒鳴っているのを聞くと、失礼ながら、
お里が知れる、、と、思ってしまう。


で、結局、なんであろうか。


今日の新富寿しを考えるには、
まず、鮨やとはなにか、というようなところから
考えねばならないように思う、のである。


考える切り口は、今、書いたような池波先生がいっていた
鮨やでの客、店のマナー、総体として、店の雰囲気。
そして、実際に鮨やで食べるものそのもの、(つまり、
刺身(つまみ)と、にぎり、)の二つに、切り分けて考えるのが
妥当であろう。
(むろん、この二つは、密接に関連しているのだが。)


ちょっと、話題は、新富寿しから離れるのだが、
今年、私は、新橋のしみづ

から始まって、柳橋美夜古

神田鶴八、など、江戸前鮨発祥の頃に
さかのぼれるこの系統を回ってみた。


その中で、得た結論は、鮨やは、にぎり鮨を
食べるところである、と、いうことであった。


つまみとして、刺身や、料理したものを食べても
わるくはないが、料理が食べたければ、やっぱり、
割烹などへいくべきである、と。


鮨、と、いうものは、酢飯と合わせてにぎられる
ことによって、別の“旨味”が生まれる、江戸からの
職人仕事である。(ついでにいうと、私の故郷、東京の
誇るべき、郷土料理である。)


そして、冷蔵設備がなかった頃に江戸前鮨は、
一度完成されている。


冷蔵設備が発達した現代においては、その一度完成された
下仕事を入念にした江戸前仕事が、すべてではなくなっている。
その過去の伝統仕事を踏まえた上で、現代において、最もうまい、
にぎり鮨を目指して、工夫研鑚を積む姿が、職人の
あるべき姿であろうと考えた。


また、今、魚のブランドというものも喧(かまびす)しく
いわれ、神話のようにもなってしまっている。
ともすると、大間のまぐろ、というところだけに
光があたり、うまいまずいとは別のところで、ブランドだけが
一人歩きし、そこに大金を出す。その弊害も忘れてはいけない。


むろん、うまいものは、うまいもの、で、否定されるものでは、
ない。しかし、お客は、あくまで、職人がにぎった一つの
まぐろ中トロを食べるのであり、それだけで、判断すべきである。
つまり、魚の目利きと、その後に施す仕事を含めて
職人の技量として、考えるのが妥当であるということ。


なにか、今年の断腸亭鮨や論、総集編になっているが、
これらが、現代において、鮨や、あるいは、鮨職人を評価する
ポイントである、と、考えている。


人によって、鮨やへの考え方は違っていよう。
そうそう、頻繁にいかない人にとっては、
にぎりだけではなく、料理もうまければよいし、
呑みたいし、と、いろいろなものを求める、こともあるだろうし、
そういうお客がいれば、それを受け入れる店があるのも
また、あたり前のことであろう。
もちろん、それ自身は否定はされない。


しかし、にぎり鮨発祥の地の東京に育ったものとして、
にぎり鮨、そのものの、過去、現在、未来を
鑑(かんが)みて、その発展を願うとすれば、
上のような姿が、最も正しい、東京の鮨や、あるいは、
鮨職人であろうと、考える。


で、前置きが長くなってしまったが、
そういう軸の中で、新富寿しをみると、という
視点が一つある。


とすると、やはり、他に秀でたところは、
東京にはたくさんある、と、考える。


もう一つの、軸、客や職人のマナー、振る舞い、
総体としての店の空気感という視点。
これでみると、私は、新富寿しに、全面的に賛成、で、ある。


先ほど述べてきたのは、にぎり至上主義、というような
言い方もできよう。そういった観点では、
べちゃべちゃ喋られるよりも淡々と、にぎってもらった方が
よいだろう。


また、鮨やに限らず、ある種、こういった寡黙なスタイルは、
江戸から続く、東京の男が通う食べ物や文化、
と、いったらよいのか、そんなものとして、
存在してきたようにも思うのである。


客も店も、ぐずぐずいわないで、さっと作って
出されたものを、さっと食べる。これがよい。


池波先生は「江戸風味の酒の肴」という短いエッセイに
そんな趣旨のことを書かれていた。


ずばり、そういうことのように思われるのである。


手垢にまみれているが、わかりやすい言葉でいうと、
これが、東京のイキ(息、文字通り呼吸。あるいはそれが
粋、という字になるのか。)、と、いうことなのだろう。


そういった江戸東京の呼吸を、銀座、新富寿しは、
今でも継続し、それを心地よい、と、
感じる者にとって、は、よい店、正しい店であろう。


そして、もう一つだけ付け加えると、
鮨やと客は、相性なのだとも思う。


結局、人はそれぞれ、万人によい鮨やなど存在しない。
値段、味、雰囲気、総合して、一番自分が行きたいところが、
自分にとって、一番の鮨や、で、あると。


至極当たり前のことのようだが、鮨や、というところは、
他の食い物や以上に、そういう個人的な食い物や、なのだと思う。





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