さて。
ほんの少しだけだが、仕事も一段落。
世の中も、会社も景気のよい話は聞こえないが、
師走も10日をすぎて、ボーナスも出て、今年ももう
終りである。
今日は、断腸亭料理日記の今年を振り返ってみたい。
私にとっての今年の大きなトピックスは、一つは京都、
で、あろう。
都合、通過だけ、というのも含めると四回。
宿泊が二回。
夏の祇園祭もちょっとだけだが、感じることができた。
先斗町の路地奥の小さな割烹、いふき、
というところを見つけ、二度ほどいく機会があり、また、
四条大橋、三条大橋、河原町、祇園、丹波口、島原、、
うろうろする機会もあった。
これだけ、京都に縁のあった年は生まれてから初めて、
で、あった。
私などが書かなくとも、池波先生なども書かれ
いわれ尽くされていることだが、やっぱり、京都というところは
東京が失ってしまった町としての、なにものか、を
今でも持っていると思われたこと。
これは、人であり、町の匂いのようなもので、ある。
東京であれば、四百年、京都であれば、千年の間、
人のたくさん住む町として継続し、都であり、
首都であったところから生まれてきた有形無形のものである。
京都だって、むろん変わってはいるのだろうが、
それでも、今でも確固として、守っているものがある。
そうしたものを、東京もあきらめずに
掘り起こし、思い出しながら、守り、
次世代に伝える責任が、我々東京に生まれ育った
人間にはある、と改めて、思わされた、ということである。
一つの例が、暗渠となっている、春の小川。
故郷の川である、渋谷川に涙を流す、昭和三十九年生まれの
加瀬竜哉氏。
同世代、あるいは、前後の東京で生まれ育った皆さん。
そうは思われませんか?
(まあ、私はそう思うのだが、人によっても違うのかもしれない。
江戸から東京になって140年。昔いわれていた、
父方、母方とも三代、芝で生まれて、神田で育ち、むろん
今もそこに住んでいる『江戸っ子』というような人は現代となっては、
皆無で、これをいうこと自体アナクロであろう。
また、明治以降、東京に移り住み、既に三代以上
世代を重ねた人もいるだろう。
あるいは、下町に住んでいたのか、
山手に住んでいたのかでも違うのかもしれない。
東京で生まれ育ったから、みんな、故郷としての
江戸東京らしい町の匂いを愛している、
江戸人、東京人の子孫ではないのかも知れぬ。)
(また、こういうことをいわない、という
ヘンに格好をつける、敗北の美学、なんという風も、
伝統的に東京人にはあったりする。
しかし、それがまた、私はイケナイ、と、思うのである。)
やっぱり、私は、なんとしても日本橋の上の首都高は取り払う
べきであると思う。
さもなければ、先祖の助六に申し訳が立たねぇだろう、と、
私は思うのである。
(むろん日本橋の件は、象徴的な一例ではあるが。)
もうよいではないか。
我々の世代だから、こういうことを
考えられるようになった、とも思うし、
今まさにそういう時代にもなっているように
思うのである。
さて。
もう一つ。
この秋になってからのことであるが、歌舞伎と、
着物を着て、出歩く、ということ。
この二つは、もちろん本質的には、別のことであるが、
なんとなく、時期も一緒で、ワンセットになっている。
歌舞伎は、たまたま飛び込んだのと、
勘三郎の平成中村座を見た、ということ。
別段マニアになろうと思っているのではないが、
まあ、知識として知っていてもよいし、
思い出したように、飛び込んで観てみる、というような
関係が私にとっては、よいのかもしれないと、
思っている。
落語を聞きにはいかないで、歌舞伎を観にいく、
というのは、落語を捨てたのか?と
思われる方もおられるかも知れぬが、
そうではない。
演じる方は、やりたいのだが、稽古の時間が取れず、
ちょっと、機会を窺ってはいる、という状態。
(聞く方は、昔のテープなどは、今も聞いているが、
現代の演者にさほどの興味を感じないということである。)
着物を着て出歩く、ということ。
これは、まあ、読者の皆様にはなんの関係もなく、
どうとも勝手にするがいいじゃないか、という
ことではあろう。
しかしまあ、着物を着て東京の街を歩く、というのは、
なにか、やみつき、に、なることであるというのが、
実感である。
いろいろ理屈を付けているが、結局、楽しいのである。
内儀(かみ)さんには、文字通り、断腸亭(永井荷風、
世捨て人)になるのか、といわれたりしているが、
週末は、それでもよいではないか、と。
楽しいのだから。
池波先生は、40を越えてからは、和服にしたと
いうが、私も45である。伝統衣装を着て歩くことに
誰に遠慮がいるものか。
ボーナスも出たことだし、もう一枚、古着でもよいから、
ちょっといいのを、買おうか。
そんなこんなが、今年の断腸亭としてのトピックス。
考えてみると、料理日記といいながら、
食いもののことでは、まったくない。
なんとなく、私の伝えたいことをピックアップすると、
今年は、そんなことになる、ということである。
読者の皆様は、どんな風に読んでいただいているのだろうか。
まあ、料理日記であるから、そのあたりを読んでいただいている
ということかもしれない。まあ、どん風にでも読んでいただいても
むろんのこと、かまわない。
毎日、飽きず、くじけず、書いてはいる。
誤字脱字錯誤多い中、読んでいただいている皆様に、
感謝、で、ある。