2月3日(土)夜
またまた、今日は昨日のつづき。
浅草寿町のとんかつや、すぎ田までいくのであるが、
昨日は、元浅草、で、終わってしまった。
筆者の住む町であるから、このくらい詳しく書いても、
よかったであろう。今日は、その後。
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新堀通りを渡ると、ここから今は、寿になる。
寿一丁目、現町会名は、栄久町。
ここも江戸の頃は、新堀川に沿って、ほとんどが寺。
栄久町は、明治になって、できた町名。
(昭和になり、町名は菊屋橋町となっていた時期もある。)
ここまでが鳥越神社の氏子である。
その東が明治期には、森下町。
ここから東は、三社様、浅草神社。浅草南部のこのあたり、三社祭では
一宮から三宮まで、三つあるの神輿のうち、二宮を担ぐ地域。
江戸期には、やはり寺と
小さな武家地であったようだ。
昭和初期から、現在の寿一丁目となっている。
また、今は台東区の出張所(と済美幼稚園)になっているが、
済美小学校、が、あった。
この北、寿二丁目にある、本法寺には、はなし塚、
というものがある。
古い落語ファンの方であれば、ご存知かも知れぬが、
太平洋戦争中、時局に合わないとして、
廓噺(くるわばなし、吉原などの遊郭の噺)など、
禁演落語を決め、ここに葬った。
塀には朱色の寄席文字で、
数々の落語家などの名前が彫られている。
そして、国際通りに出る。
渡ると、寿三丁目。江戸の頃は、堀田豊前守屋敷などの
武家地から、小さな町の代地などで構成されていた。
明治期には、北側が、寿、南側が新福富町。
やはり、昭和になり、寿となっている。
寿という町名は、もともと今のこの寿三丁目の北部の町名であるが
昭和に入り、このあたり全体を整理統合し、新「寿」となった。
また、この三丁目の路地裏には宗吾殿、というお堂(のようなもの)が、ある。
佐倉宗吾、または、惣五郎という江戸の頃の義民を祀っている。
佐倉は千葉県の佐倉市。江戸期、佐倉藩、で、ある。
現地には、今、宗吾霊堂(成田市)というお寺もあり
現代でも数多くの信仰を集めているようである。
(京成線に宗吾参道という駅もあるので
名前ぐらいは筆者も聞いたことがあった。)
惣五郎は、領主(堀田正信)の重い年貢に抗議し、将軍に直訴をし、
磔(はりつけ)になった、という。
筆者はこの話、まったく知らなかったが
江戸末期から、明治以降も歌舞伎
(名題は東山桜荘子(ひがしやまさくらぞうし))や講談、
映画にも数多く取り上げられたものであったようである。
実際には、この話、伝説の色彩も濃く、定かなところはわからないようであるが
堀田家では江戸末期、屋敷内に宗吾のお堂を建てて、弔ったという。
それが残った(戦後再建)のが、今のものだという。
境内の石には数多くの劇場関係者の名前が刻まれている。
国際通りを右に曲がって、春日通りとの交差点手前。
とんかつ、すぎ田。
やっと着いた。
植木鉢が置かれた店の前に、明るいライトがあたっている。
店に入ってみると、なるほど、混んでいる。
たまたま空いたのであろう、座敷に通される。
いつもはカウンターで、座敷は初めてである。
カウンターは禁煙であるが、座敷は煙草が吸える。
まずはビール。
ここは以前から、アサヒのプレミアムが置いてある。
オーダーは、筆者はロースかつ。
内儀(かみ)さんは予定通り、ロースソテー。
気が付いたのだが、今日は、赤ちゃんを背負った
若い女性が、立ち働いている。
若主人の奥さんだろうか。
「結婚してたんだ、、。よかった、、」
前々から、書いているが、ここは、髭のご主人が、
なかなか秀逸なのである。
まあ、なんでもないと、普通の人、なのだが、
(あたりまえだが、、。)
ちょっと店が立て込み、女将さんやらの段取りが
悪かったりすると、ちょっと、怖かった。
カチッとスイッチが入る、というのか、切れる、というのか、
まあ、絵に描いたような、江戸っ子、そんな感じなのである。
若主人も、最近は、いろいろな調理を任されるように
なってきているようで、段々、親父さんに似てきて、
同じように、女将さん(お母さん)にきつい口調で
なにかいっているようなことも、見かけたりしたのである。
そんなこんなで、おきなお世話だげ、奥さんがいて、よかった、
と、いうことになったのであった。
(奥さんがいなくて、お母さんに怒鳴っているのは、
あまり、見栄えはよくない、で、あろう。)
ロースとんかつ
ロースソテー
ブランデーの香りがよい。
味噌汁
長い道のりであったが、ロースのとんかつに、豚汁。
いつも通り、うまかった。
帰りも、ぶらぶら、帰宅。
すぎ田
TEL 03-3844-5529
〒111-0042 東京都台東区寿3丁目8−3