浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



すみいかと穴子の天ぷら

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10月25日(日)第二食

さて、天ぷら、で、ある。

実はこれ、昨日買ったのだが、
面倒になって、一日冷蔵庫へ入れてしまった。

昨日の[珍珍軒]の後、吉池に寄って買ってきた。

昨日は、最初から天ぷらを作ろうと思って、
吉池へ行った。

なぜ天ぷらかといえば、少し時間があいたな
と、感じたから。
調べると、先月の23日であった。

このところ、吉池はすみいかを置いている。

すみいかは、江戸前の天ぷら種。
夏、生まれ、新いかと呼ばれる。
これはとても柔らかく、特ににぎりの鮨では
うまい。
今年は7月末にやった。

売り場には、まだ小さいものも、新いかと書いて
売られていた。

小さい方ではなく、少し大きなもの。
だがまだ、この時期は柔らかい。

一杯、300円ほど。

それから、穴子
小さなものだが、ちょっと安売りになっている。
もちろん、開いたもの。
一枚、これも300円。

迷ったが、二枚。
一枚は煮てもよいだろう。

これ。

穴子
まず、塩で揉み洗い。

ぬめりをよく取る。
このぬめりが残ると、天ぷらでも生ぐさくなってしまう。

5回、7回。
都度、塩をして、洗う。

ぬめりがなくなり、匂いもしなくなったら終了。
以前の反省からだが、塩が残ってしまうので、
水にしばらくつけておく。

すみいか。

一般には甲いかというが、東京ではすみいかという。
なぜか、名前の通り墨を洗わずに、こうして黒いまま
流通する。
もちろん、今は東京湾のすみいかは、ほぼ流通していない
と思う。これも瀬戸内産であったか。
従って、東京用に洗わずに出荷しているのであろう。

さばく。
前回の新いかのものを出しておこう。

大きいだけで変わらない。
ただ、、ちょっと、生ぐさい。
やはり、買ってすぐきれいにさばいておくのであった。

墨がちょっと残っている。

墨が生ぐさい。鮮度の問題か。
生ぐささが残る原因になる。

これも、塩で揉み洗いしてみるか。
穴子同様やってみる。

ペーパータオルで水気はよく取る。

生ぐささはほとんど取れた。

冷蔵庫にストックしてある天ぷら油を揚げ鍋に移し、
余熱をしておく。

いかに天ぷら粉をまぶす。

玉子冷水を作る。

油に再点火。180℃設定。新ガス台は温度が設定できて
便利である。180℃になると、自動で弱火になる。

玉子冷水に天ぷら粉。

いかを投入。

180℃になったら、いかを投入。

いかは、1分以内でよいだろう。

穴子も切って天ぷら粉を振って、衣をからめ、
揚げる。

9月のものを出しておこう。

ほぼこんな感じ。

穴子はしっかり揚げる。

天つゆはいつもの通り、桃屋のつゆ。
そして大根おろしも。

穴子といかで、揚げ時間が違うので、
揚げあがりの色が違うのがお分かりになろう。

なんといっても、すみいか。
にぎりの鮨もうまいが、天ぷらはまた、別格。

プチっと噛み切る時の歯ざわり、そしてやわらかく、
あまい。

今日はリカバーということで、よろしかろう。

 

 

上野・中華・珍珍軒

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10月24日(土)第一食

さて。

上野[珍珍軒]。
町中華
ご存知であろうか。

アメ横といってよいのか、JRガード下というのか、高架下。

アメ横センタービルに最も近い、海苔やがある「海苔やのガード」。
もつ焼き[大統領]、餃子の[昇龍]があるところ。

[昇龍][大統領]が並んであって、その前がまた
もつ焼き、さらにその北隣。

アメ横ガード下でも最もコアなところといっても
よいかもしれぬ。

外にテーブルを出している。

今、有名店であろう。
もともとは、例の町中華探検隊あたりかもしれぬ。

もちろん存在は以前から知っていた。
だが、やっぱり入りずらい。

輩(やから)感がぬぐえない。
お兄ちゃんがコワイ。

ガード下というと、安くてうまいといわれるが、
入られたことがある方はお分かりになろうが、
決して安くはない。一般のチェーン居酒屋の方が、
今はむしろ安かろう。味も、まあ、店によろうが必ずしも
うまいとは限らない。

そんなこともあって、私自身は今は[昇龍]以外は
入らないことにしている。

少し前に、某TVの「王道チャーハン」で
取り上げられていた。

なるほど。
入りにくいが、うまいのねと、いった印象であった。

昼、御徒町で、食べようと思ってきた店が
閉店しており、困ってきてみた。

隣のもつ焼きやも外にテーブルを出しているので
境がよくわからない。

しかしこれ、雨の時はどうしていたであろうか。
庇を伸ばすのか。

土曜の13時すぎ、さすが、満席のよう。

はて?どうしたものか。
ちょっと、戸惑っていると、店のおかあさんを
見つけた。

すると、おかあさん、カウンターを指差す。
一つ、あいていた。

ちょっと、詰めていただき、スツールに腰掛ける。

おかあさんが、メニューを持ってきてくれた。

ちょいと、一杯呑むか。

コワモテのお兄さんにちょっと手を挙げて、頼む。
小の生。
それからもちろん、チャーハン。

中華のメニューは一通りあるよう。

斜向かいの[昇龍]の看板の餃子ライスもある。

まわりの人の注文を聞いていると、
必ずしもチャーハンばかりではなく、
ラーメン、タンメン、餃子、レバニラ、、
いろいろ。

あとで調べると、タンメン、焼きそばもうまそう。

小のビールがきて、呑みながら待つ。

カウンターの向こう側も、雰囲気はほぼオープンエアの
調理場。

ちょっと苦み走ったいい男、それでも40代であろうか、
寡黙に中華鍋を振っている。
ご主人であろうか。

少し待って、きた。

ちょっと縮尺がわかりずらい。

右のスープの器がそうとう大きいのである。
チャーハンにスープは黄金のコンビであるが、
倍とはいわないが、3まわりくらいは
大きいのではなかろうか。

チャーハンもかなりの大盛。
だが、これでノーマル。
きゅうりのお新香付き。

食べてみる。

なるほど。
これ、かなりうまい。

入っているのは、玉子とねぎのみ。

『「引き算の美学」THEシンプルチャーハン』と
番組では言っていた。
味付けは、チャーシューを煮た醤油と塩のみ、
とのこと。

油も多からず少なからず。
もちろん、しっかり、パラパラ。

なにが“引き算の美学”なのか、よくわからぬが、
うまいことは間違いない。

複雑な味ではないのだと思うが、
絶妙の塩梅、なのであろう。

ばくばくとかっ食らう。
かなりの食べで、がある。
かなり、満腹。

勘定は、ぴったり1,000円。

千円札を二枚、おかあさんに出したら、
一枚返された。

ご馳走様でした。
噂通り、うまかった。


03-3832-3988
台東区上野6-12-2

 

 

鮭のポワレ

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10月20日(火)第二食

さて、今日は鮭。

先日の、谷昇シェフの鰈のムニエル

の続き。

フレンチの基本を会得しよう、企画?!。

レシピ出典は「ル・マンジュ・トゥー 谷昇シェフの
ビストロ流 ベーシック・レシピ」

表題、鮭のポワレ

鮭はもちろん、今が旬。

昨秋の秋鮭は不漁であったと思うが、今年は
昨年の2倍の漁獲量と、ニュースで言っていた。
(10/1 NHK

と、書いてきたが、実はこれ、順番が逆。

谷シェフの鮭レシピは頭に入っていて、
あー、鮭いいかも、とぼんやり考えていただけ。

鮭というのが、そこまで好きかといわれると、
そうでもない。
鮭であれば、生のものよりも、塩鮭の方が
好みかもしれない。

たまたま、特段のあてがなく吉池にきて、
見つけ、思い出した、のではあった。

大きいもの。
588円。

帰宅。
こんな感じ。

もちろん、北海道産。

今回はポワレ
前回は、ムニエル。
違いは、ムニエルは小麦粉(強力粉)を振って
フライパンで焼く。
ポワレの方は、そのままフライパンで焼く。

魚の種類による使い分けがあるのか、よくわからない。

料理としての機能は、ムニエルの小麦粉をふるのは
味を閉じ込めるということになるよう。
従って、ムニエルは閉じ込めたい場合。
淡泊な魚ということになるのか。
前回のムニエルは鰈であったが、白身、で淡泊。

だが、例えば、虹鱒のムニエルなんというのも
よくあるように思う。
同じ仲間だが、鮭はポワレでは虹鱒はムニエル
というのは、どういうこと?という気もしてくる。

ともあれ。

作る。

今日は、通しで一本の動画にしてみた。

動画。(BGMを入れたのでご注意!)

中身を書くのは、例によってやめる。
是非、ご覧いただきたい。

ソースをかけて、出来上がり。

ビールを開けて、食べる。

きれいに切れた。

火の通りは、上々。
そして、ふっくら焼けた。
弱火でじっくり、がポイントであろう。

だが、ちょっと相反する、皮目の仕上がり。
パリッが、目標であったが、、。

そこそこのところまではいっているが、
もう気持ち、火加減が強くてもよかったかもしれぬ。
新しいガス台なので、最も小さい弱火が、以前の
ものよりもさらに小さかったようだ。
この塩梅が、難しい。

ケッパー入りの焦がしバター。

ケッパーの効果は、もう一つわからないのだが、
これは、うまい。
焦がしバターは、鮭によく合う。

考えてみれば、これ、鮭のバタヤキ、か。
うまいはずである。

フレンチレシピとしての評価は別にして、
味の、私としての出来は120%である。
うまい。バクバク、食える。

だが、当然、減点ポイントを挙げだすときりがない。

焦がしバターは実際もっと火を入れるので
あろう。仕上がりもちょっとオイリー。
さらに煮詰めてよかった。
まあ、焦がしバターをちゃんと作るのは初めてであった。

もう一つ、ポワレの油は、一度きれいにふき取る
のが指令であった。
これを取っていないのである。なんだかもったいない
気がするであろう。それもオイリーの原因。

フレンチは焼き上がり、ソースは別に作るというのが
普通なのである。
この感覚がもう一つ、日本人シロウトの頭では
腑に落ちていない、のである。
焼いた油にも味が出ており、これも生かしたい
と思ってしまう。
フレンチはそうではない。根本的に考え方が違う。
出くるの味は、むしろ雑味として排除する、と、
シェフのレシピにも書いてあった。

なるほど。
言われた通りにすべきであった。

今回も反省。

勉強、で、ある。

 

 

上野・蕎麦・翁庵

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10月20日(火)第一食

今日は、そばやで一杯。

どこへ行こうかと考えて、上野[翁庵]

に決めた。

ここ、好きなのである。

まず、場所がいい。
上野駅前、というのは少し離れているが、
歩いてすぐといってよい距離。

昭和通りと浅草通りの交差点から数軒、
浅草通り沿い。
上野警察の前。

繁華街、ではない。
どちらかといえば、ポツンとある。

いわゆる有名店ではないだろう。

だが、見た目がよい。
戦後の建築だとは思うが、蕎麦や然とした、
木造二階建ての一軒家。

○○にこだわってます、という感じでもなく、
町の蕎麦やをずっと続けている、という感じであろうか。

ここ、創業はいつだったのか。
今まで、明治30年頃、と書いてきた。

今回、再度調べてみたら、1899年(明治32年)という
ちゃんとした年代が出てきた。
その上、なんと神楽坂[翁庵]の暖簾分けであった。(老舗食堂)

びっくり、で、ある。
神楽坂[翁庵]も私には馴染み深い。
かつ蕎麦が看板。「え?、かつを冷やすんですか?」
という冷やしかつ蕎麦がある。
あそこは1884年明治17年)の大老舗ではある。

屋号が同じなので、もしかして、とは思っていた
のではあったが。
ただ、この二軒、今はほぼ共通点はないようだが。

上野[翁庵]の看板は、つけ汁に小さなかき揚げが
入った、ねぎせいろ、ではあるが、神楽坂[翁庵]には
そういうものはない。

今もなんらかつながりがあるのかないのか。
まあ、どちらにしても120年以上も店を続けているので
両店ともいろいろな歴史を積み重ねてきたのであろう。

改めて、この二軒、興味深い。
東京の蕎麦やの暖簾といえば、藪だったり、砂場、
あるいは、更科?、長寿庵もあるか。
翁庵という暖簾は他には聞かないような気もする。
どんな成り立ちなのか。
そして、この百年以上、どんな風に店が続いてきたのか、
歴史が知りたくなる。
なん代目なのか、経営は一緒であったのか、、。

閑話休題

2時頃、自転車で到着。
店に入る。
夕方から夜であれば、そのまま入ればよいが、
昼は入ったところで、食券を買わなければいけない。

今日は、女将さんであろうか、座っている。
お酒冷(ひや)と、板わさ、それから、ねぎせいろ。

券をもらって、誰もいない奥のテーブルに外向きに
掛ける。TVが見える方向である。遠くて見えないが。

掛ける前にお姐さんに食券を渡すと、
お蕎麦は一緒でいいですか?と聞かれる。

あ、ちょっとずらしてもらっていいですか?。

じゃあ、声かけてください。

お酒と、板わさがすぐにくる。

ここはお通しもくる。
枝豆だったりすることもあるが、今日はきんぴら。
蕎麦やのお通しはそば味噌が多いが、これも
この店らしい。

板わさは、飾り切りがされているが、ちょっと
包丁がぶれている。これもこの店らしいか。

酒は半分ほど残し、板わさをつまみ終わって、
ねぎせいろを頼む。

すぐにくる。

このかき揚げの入ったそばつゆ、日本橋[砂場]にあるが
他では見たことがない。
今日、気が付いたのだが、これ、私も自宅でもやるが、
もともと酒の肴、これで呑むためのものではなかったろうか。

天ぬき、鴨ぬき、のあれ、で、ある。
一般には、温かいそばの蕎麦ぬき、ではあるが、
冷たいそばのそばつゆに入った具を、酒の肴に呑む。
ちょっと濃いが、私などにはなんら問題はない。

このつゆに浸ったかき揚げをつまみながら、呑んで
そのまま、蕎麦を手繰りながらも、呑む。
蕎麦は呑みながらも手繰れないこともない。

と、いうことは、板わさはいらなかったか。

いやまあ、こんな感じも、ちょうどよいかもしれぬ。

いずれにしても、ねぎせいろ、絶対酒の肴として
考えられもののような気がしてきた。

なぜならば、多少でもかき揚げをつままないと、
そばがつけられない。

今は私ぐらいしか言っていないかもしれぬが、
毎度書いている、菊五郎の歌舞伎「直侍」では
玉子のぬき、なんというのも出てくるほど、
明治の頃は蕎麦ぬき=つゆ+具材で呑むのは
一般的であった。

ご馳走様でした。

 


台東区東上野3-39-8
03-3831-2660

 

 

とんかつ考察+おまけ

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さて「東京とんかつ会議」。
かためて、浅草の掲載店をまわってみた。

[とお山]かつカレー。

[とお山]。

[ゆたか]。

[河金・千束店]河金丼(かつカレー)。

実は、とんかつやでは、もう一軒ある。
かなりの高評価で掲載されているところ。
行ってみたのだが、店名・詳細は書くことはやめる。
掲載から数年経ち変わってしまったのか。
肉は水準以上だとは思うが、油切れがもう一つで、
気持ち火も通りすぎに感じられた。
また、これは店との相性であろうが、注文を間違って、
かつ詫びない。客商売として、首をひねらされた。
下町らしい、という言い方もあるが、私はだめである。

さて、気分を換えて、浅草ととんかつの関係。

山本益博氏は浅草のご出身で、かつ、とんかつは
子供の頃からの好物。故郷の味。
やはり、これが多分に影響しているのであろう。
多少の贔屓目はやはり否定はできないように思われた。

ただ[ゆたか]はなるほど、老舗らしい店で
かつ、味も高レベル。客あしらいも上。
とんかつやに限らず、浅草には老舗は数多いが、
その暖簾と看板がかえって、高慢といってもよい
ことになるところも、まま、ある。

とんかつというのは、益博先生も書かれているが、
時代によって、変わってきている。
[河金]のものなどである程度想像ができるが、
以前は、ロースなどは多少薄いものであった。
厚いと火が入らなかったということか。
技術の進歩であろう。
油温の違う油で二度揚げする。低温でじっくり
など、技が磨かれてきた。

また、肉の進歩のことも益博先生は語られている。
豚肉は、50年ほど前、高度成長の頃といってよいのか、
一度、味の落ちた時期があったという。
それが、今から20年程度前、イベリコ豚が入ってきて
うまい豚肉というものが料理人の中でも見直され、
生産者も吟味したブランド豚を生産するようになって
きたという。

浅草には[河金]以外にも[喜多八]という大正創業の
有名店があった。ここは平成20年(2008年)閉店している。
残念ながら私は行ったことがないので味はコメント
できない。

上野も含めてこの界隈は、大正期、とんかつが生まれ
育った街といってよいのであろう。
昭和の日本映画界の巨匠、小津安二郎川島雄三両監督は
奇しくもとんかつ好きで上野の[蓬莱屋](小津)
同[井泉本店](川島)は縁の店である。
大正、昭和の戦前、さらに戦後の高度経済成長前まで
であろう。庶民のご馳走として特に上野・浅草で育った。
我が池波正太郎先生もここでこの時期、生まれ育ち、
とんかつは、大好物であったことは、改めて書く
までもなかろう。(池波先生は[ぽん多本家]目黒[とんき]
などがご贔屓であったよう。)

が、やはり一度、とんかつやは衰退期を経験した
といってよいのだろう。

浅草の[河金本店][喜多八]は閉店してしまったが、
そこを生き残った、上野の[ぽん多本家][蓬莱屋]
[井泉本店]の三軒は、並々ならぬ努力と工夫があった
のであろう。
浅草はこの時期、街自体の衰退期とも重なっていた
可能性は高そうである。

東京の人間でも益博先生世代より下、高度成長期に育った
世代以下では、もはや、とんかつが故郷の味と
感じなくなっていたのではなかろうか。私はそうである。
今の元浅草に住むようになり、上野の各銘店で食べ、
改めてとんかつのうまさを発見している。

浅草ととんかつの関係。
記憶はあったのであろうが、一度衰退、そしてとんかつ自体の
進化、浅草の街のにぎわいの復活、これによって、浅草の
とんかつも目を覚まし始めた、というところであろうか。
まだ、これから。コロナ禍もあり、予断は許されぬかもしれぬ。

さて、口直し、というのか、おまけ。

10月19日(月)第一食

例の、ご近所、左衛門橋通りと浅草通りの角、
[嬉嬉豚とんかつ『君に、揚げる。』(極)]

課題であった、ノーマルなロース定食。1200円也。
この下(?)にランチロースもある。

雨でもにぎわっている。

きれいである。

アップ。

切り口も、よい色。
衣もしっかり。
油切れも上。

上ロースとの違いは、単純に厚み、か。

うまい、が。

もちろん値段が違うが、厚いものの方が、満足感は高い。
上から食べてきたので、当然ともいえるかもしれぬが。

とんかつの肉のうまみ、というのは、一定以上の
厚みが必要といえるかもしれない。

今回、カウンター席。衣付け、揚げているのを目の前で
見ることができた。

外一人、二人体制でてんてこ舞い。

これだけの忙しさであるが、一定以上のクオリティー
保って、かつを揚げ続ける手際。
そして、そのさ中、この方、客対応をしつつ、都度、
いらっしゃいませ、お待たせしました、ありがとう
ございました、丁寧にすべてのお客に声を掛ける。
これ、大事である。

 

 

03-5830-6850
台東区松が谷1-4-6 ライオンズマンション上野松が谷 1F

 

 

赤酢の酢飯で小肌と生まぐろ中とろをにぎる。

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10月18日(日)第一食

さて、小肌。

先日10枚、生の開きを買って、酢〆にして
半分をにぎりで食べた。

残りは、酢〆のまま、冷凍をしておいた。

鯖などの場合、酢〆にしてあえて一度冷凍する
という工程をとることがある。

これは、鯖の寄生虫を一度冷凍して殺すため。
これをすれば、〆鯖であたることはない。

酢〆の魚は冷凍適正がよい、ということか。

それで量が多いので、冷凍してみたのである。

いい加減、食べねば。

朝、冷凍庫から出して、少し常温に置いておく。

念のため、一枚ずつラップに包んでおいたが、
身が薄いせいか、すぐに溶けそうである。

1時間ほど置いて、冷蔵庫へ入れておく。

午後、出掛けたついでに浅草ROXの西友へ寄る。

小肌以外に、なにかにぎるものはないか、
で、ある。

すると、生まぐろ中とろ。
最近はいつもある。
ただ、今日のものは、養殖、長崎産。
刺身用に切ったものだが、880円。

これでいいか。

帰宅。

まぐろ。

開けるとこんな感じ。

養殖のまぐろというのは、食べるとわかる。
なんといったらよいのか、ちょっと身が柔らかい、
ように思うのだが、いかがであろうか。
身がちょっとフニャっとしていると、
多少、味が薄いような気もしてくるが、
まあ、これは気のせいかもしれない。

まぐろは今、完全養殖もできるようになっているが、
割合はまだ少なく、ほとんどは稚魚を獲って育てる
畜養という形なのであろう。(長崎、松浦の双日関連の
養殖場
では1割は例の近大マグロの1年の稚魚
を使っているとのこと。 )

長崎県は養殖まぐろの生産量では、日本一らしい。

完全養殖と畜養、どちらにしても技術を向上させて安く、
また、それによって、天然資源の枯渇を防いで
いただけるように願っている。

ともあれ。

例によって、夕方5時、米を洗い炊飯器をカタメモードで、
スイッチオン。

また、飯台に水を張っておく。

小肌は、昼間、ラップから出して水分を取るために
ペーパータオルにはさんでおいた。

まぐろの方。
刺身用なので、にぎりとすれば、かなりの厚み。
この半分くらいでもよさそう。
だが、一度、この形に切られたものをプロであれば
さらに半分の厚みに切れそうだが、私などにはとても無理。
あきらめて、このままにぎることにする。

先に、小肌を切っておく。
動画。

開きを半身に切って、鰭を切る。

わさびをおろす。動画。

生わさびは拙亭では定番になってしまった。
もちろん、うまい。

新しいおろし金は、切れ味はよいのだが、
まだ、小さいくて、まわしずらい。この上は、プロ用になるが、
やはりそのくらいでないとだめか。

飯が切れたら、8分蒸らし、赤酢の酢飯作り。
毎度、同じだが、動画。

今日は、いつもは、赤酢と穀物酢の割合は、赤酢8:穀物酢2
程度だが、7:3か6:4くらいにしてみた。
やはり、このくらいの方が、混ぜやすい。
ほぼ混ぜ残しがなかった。味もほとんど変わらないので、
これからは、このくらいにしてみるか。

にぎる。

出来上がり。

アップ。

小肌は、冷凍をしてもなんら問題はない。

やっぱり、うまい。
前回はあまり意識しなかったが、脂がのっている。
冷凍によって、なにかかわったということか、
あるいはもともと脂があったのか。
ともかくも、成功。

まぐろは、やはり厚い。
まあ、もちろん、まぐろはうまい、のではあるが。

一般ににぎりの種を酢飯の2倍、3倍にしてにぎる鮨やもあるが、
あれはいけない。にぎりには適切なバランスがある。
柳橋[美家古鮨]の先代親方の教えであった。
江戸前を標榜する鮨やでは、基本これを続けている。
大きい魚が食べたいのであれば、刺身で食べればよい。
酢飯との適切なバランスでにぎられることで初めて
にぎりずしだけの味が生まれるのである。

だがまあ、さらに薄く切る技術がない私は、致し方
ない。

 

 

千束通りから花園通り

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さて。
昨日、書き掛けた、千束通りからの路地。

この界隈、まあ、吉原の隣接地になるわけであるが
ちょっと、昔を振り返ってみたい。

現代の地図。

(できれば拡大して見ていただきたい。)

江戸の地図。

吉原、いわゆる新吉原、はご存知の旧遊郭
今の姿はさておき、歴史的存在はある程度の方が
ご存知であろう。
江戸期には幕府公認の遊郭
明治になっても、黙認も含めて、ほぼ公認。
形態や風俗は変わりながらも、これは、戦後いわゆる
売春防止法が施行される1957年(昭和32年)まで
続いていたわけである。

今日の主題は吉原のことではない。
その手前の、浅草寺以北の千束町あたりのこと。

この界隈、私もはっきりとわかっていないことも実際には多い。
また、この文章は学術論文でもなく、ネットの文章という
側面もあってわかっていても書かない方がよいと思うことも
ある。そんなことも前提に読んでいただければと思う。

まず、江戸の地図を見ていただきたい。

現代の地図と比べると位置関係、縮尺がかなり
いい加減であるが、浅草寺があり、新吉原があるのは
お分かりになろう。

浅草寺と新吉原の間は入谷田圃、吉原田圃などと呼ばれたが
田畑によって隔てられていた。
吉原の北側には山谷掘という堀があり、その南側土手が
通りになっており、地図にも書かれているが、今も町名に
なっている日本堤と呼ばれていた。
また、この土手の通りは土手通り。
山谷掘は今は暗渠で影も形もないが埋められたのは、
意外に新しく、戦後。

落語などでは、吉原に行くには土手通り経由で徒歩、
あるいは籠、あるいは、大川(隅田川)経由、山谷掘から
舟で、などという。

が、地図にも名前を入れたが、浅草寺裏から
現在の千束通り(商店街)が実際には江戸の頃からあり、
こちらの方が、近道であったのがわかる。
ただ、吉原の出入り口は、正式な門である「大門(おおもん)」
以外はなく、千束通り経由でも一度土手まで出てから
でなければ吉原には入れない。
吉原は、四方が鉄漿(おはぐろ)ドブと呼ばれた堀に
囲まれていたわけである。

ここまでは、よいであろう。

私が疑問に思っていたのは、この吉原と浅草寺裏との
間のこと、つまり、千束通り周辺のこと。

江戸期、浅草寺境内北側は奥山などと呼ばれ、日本最古の遊園地
花やしき」は既に幕末にはあり、かなりの賑わいの
盛り場であったわけである。

そして、そこから目と鼻の先の吉原までの間に田畑しかない
というのは、いかにも不自然ではないか、と。

おそらく、ここは家を建てることが禁止されていた
のではないか、と。(理由を含めてある程度の推測は
あるのだが、腰を入れて調べていないので不明としておく。)

さて、それが明治になってどうなったのか。

それで今、手に入った最も古い明治25年の地図を見てみる。

江戸期には千束通りから左に入り行き止まりになっていた
通りが右に折れ、今、花園通りと呼ばれている吉原の南側の
通りになっている。
この千束通りから左に入る通りが今[河金・千束店]のある
通りなのである。もちろん[河金]ができるのはずっと後
昭和の終わりの話であるが。

鉄漿ドブは明治に入っても存在はしていたが、大門以外にも
ドブに橋が掛けられ出入りはできるようになっていた。
明確な年代まではわからないが、いろいろな文献に出てくる
ことである。「吉原炎上」など大火事があるとお女郎さんが
吉原から出られなくて多数焼け死んだというイメージがあるが
そうではない。(江戸期でも、火災の際には吉原外へ逃げ出る
ことは許されていた。)

また、この千束通りから花園通りルート以外にもお酉様の
長国寺、大鷲神社方向、龍泉寺、三ノ輪側などからも吉原への
道ができているのが分かる。

この地図では、千束通りの西側は千束村と書かれている。
しかし、正確には明治24年に千束町一丁目、二丁目と町になっている。
明治に入り、禁止が解け(?)家が建っていったことが
裏付けられるのではなかろうか。

一方。
永井荷風先生なども書かれ、ある程度周知のことで、
以前にここにも書いているが、浅草寺の西側、浅草公園六区から
吉原まで、つまり、今見ている千束通り周辺は“魔窟”と呼ばれ、
銘酒や、楊弓場という名前の私娼街であった。

こういうことは史実ではあっても、当時も吉原とは違い、
公(おおやけ)にはモグリの業態で、実態は記録として
残るようなものでもなく、今明らかにすることは
なかなか簡単ではない。例えば、銘酒やはなん軒、楊弓場は
なん軒あったのかといったことである。

明治から、大正のこの界隈といえば、もう一つ、思い出すのが
猿之助横丁」である。現代の地図にマークを入れた。

この石碑、今、千束通り沿いのマンションの角にある。
二代目の市川猿之助が育ったといわれる場所。

ついでに、そばの電柱にNTTの名前のこんなものも。
当時であるから、電話を引いていたのは猿之助の家
くらいであったのかもしれぬ。

二代目猿之助1888年明治21年)生まれ。
ズバリこの時期である。
この人の、母、つまり初代猿之助の妻という人は、
喜熨斗古登子(きのしことこ)とおっしゃって、
聞き書きエッセイ「吉原夜話」

というものを残している。

この方は、吉原の妓楼[中米楼]の生まれで、初代猿之助
夫婦になった後も、見世を継いで経営していた。
ちなみに、二代目猿之助の生まれ育った明治後期から大正、
関東大震災までは、江戸からの吉原の習慣、風俗、つまり、
芝居、映画、ドラマに出てくる花魁道中などのある
華やかな吉原の最終期である。

まあ、そんな関係で二代目猿之助の家はここにあって、
母である古登子氏は、ここから吉原の見世まで通っていた
のである。

いささか断片的であるが、界隈のこと少し書いてみた。