浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



断腸亭落語案内 その13 古今亭志ん生 火炎太鼓

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引き続き、志ん生師。

No.1は「黄金餅」として、次は「火炎太鼓」。

志ん生の「火炎太鼓」はあまりにもおもしろい。
若い人が聞いてもおもしろいのであろうか。
聞いてみたい。

ただ、昨日書いたように、志ん生以外が同じことを演っても、
おもしろくは絶対にならない噺の典型であろう。
私が志らく師に習っていた頃、この噺が好きで演ってみたいと
思ったことがあったが、素人が演る噺ではないといわれた覚えがある。
「冷静に考えると、たいしておもしろくないよ」と。
目から鱗であった。

そうなのである爆笑噺のように聞こえるのだが、実は例えば文字に
起こすと、たいしておもしろくない。オンパレードである。

志ん生師の「火炎太鼓」も録音がいくつかあるが、その中でも
多少の違いがあるのがおもしろい。文楽師(8代目)のように毎回
寸分違わぬ噺をする落語家もいるが、志ん生は同じ噺でも毎回ブレが
大きいということである。つまり志ん生師の「火炎太鼓」でも、とても
おもしろく演れた時と、そうでもない時がある。(ポニーキャニオン
ものがよさそうである。)

道具や(古道具や、高いものはない)。
主人と内儀(かみ)さんと小僧の定吉と三人でやっている。

主人が市で品物を仕入れてくる。
きったならしい、古い太鼓。
買い手がいなくて押っ付けられてきた、と内儀さんに
くさされる。

定吉にはたきで、埃を落とすようにいう。

内儀さんが「はたきをかけると、太鼓がなくなっちゃうよ」。
これも、志ん生がいうとかなり可笑しいのであるが、
冷静に考えると、実のところそれほどではないなかろう。
これが志ん生マジックである。

はたきをかけると、太鼓が鳴る。

主「お前のおもちゃに買ったんじゃないんだよ。
  はたけって言ったんだ、叩くんじゃないよ」
定「はたいてるだけなのに、音が出るんですよ~~」

すると、立派な武士が「今、太鼓を叩いておったのは、その方の
ところであるか」とくる。
主「あいすみません。はたけって言ったんですが、こいつが、叩い
  たんですよ。親戚の者でして、大きな形(なり)をしてますが
  まだ十一なんですよ。馬鹿な目してるでしょ。バカメっていって
  おつけの実にするよかしょうがない」
  
ここも、実はたいして可笑しくないのだが、爆笑の志ん生マジック。

武「いやいや、太鼓を打ったたのをトヤコウ言いにきたのではない。
  お上がどういう太鼓であるか、見たいと仰ってな」

と、いうことでお屋敷に背負って出かける。
出かける前にも内儀さんに、売れると思っていくんじゃないよ、
こんなむさい太鼓を持ってきてといわれて縛られるよ、と脅される
一件(ひとくだり)ある。

歩きながら、内儀さんの悪口を喋る。
「・・・まごまごしやがると、叩きだすぞ!
 こんちは」

「なんだ、へんな奴がきたな。あー、たいそう威勢がいいな。
 なんだな。」
「道具屋でございます」

つまり喋りながら、着いてしまうのであるが、このタイミングが絶妙。
上手いところである。

で、まあ、結局これが三百両で売れる。
むろん、道具やの主人も取り次ぎの家来もわからなかったが、
殿様は骨董の趣味があり「火炎太鼓といって、世に二つという」
ものであった。

三百両を受け取り「金子を落とすなよ」「落としません。自分、
落っことしても金は落としません」。

大喜びで家に帰り、内儀さんにも金を見せる。

なんでも音の出るものに限るね。
そうさ。今度、俺は半鐘を買ってきて叩くよ。
半鐘はいけないよ、おジャンになるから。
で、下げ。

とにかく、志ん生流のくすぐりが満載。
逆にいえば、くすぐりがなければほぼ成立しない噺である。
従って、演る方はかなり難しい。

さて「火炎太鼓」。
志ん生師のものは初代三遊亭遊三からのものといわれている。
(「落語の鑑賞201」延広真治編)
三遊亭遊三といえば、上から読んでも下から読んでも、三遊亭遊三
当代(三代目)はよく高座でいっていたと思う。初代遊三という人は、
天保10年(1839年)~大正3年(1914年)なかなかおもしろい人で、
御家人上野戦争にも参戦しているという。
天保生まれなので円朝同世代である。杉本章子氏の「爆弾可楽」
(文春文庫)

に入っている「ふらふら遊三」という小説になっている。

初代遊三と五代目志ん生は年が離れているので、楽屋で聞いていて
覚えたということになっているよう。明治40年(1940年)の初代遊三
の速記が「集成」にあった。下げが多少違っており、その他細かい
ところはむろん違っているが大筋は同じ。こんな噺なのでやはり
細かいくすぐりがたくさんあってそれで聞かせるという作りも同じ
である。
だが、成立年代などはやはりわからないといってよいのだろう。

志ん生師が十八番(おはこ)にしたので、志ん朝師他古今亭系、
円鏡の円蔵師(8代目)、文治師(10代目)などなど演った人も
多いし、今も志らく師も演るし、白酒師のCDを持ってもいる。

ただ、書いているように、志ん生版をそのまま演ってもダメ、なのは、
プロであればわかっている。演る人は、自らのくすぐりを大量に
入れて、作っている。まあ、これは必須であろう。
それで、皆、おもしろい。おもしろくできる人、しか演っていない
ということであろう。
「落語のぴん」の志らく師のものは今視ると懐かしい上に、
今もおもしろい。この頃まだ二つ目であったか、真打になりたてか、
師の真骨頂。
談志家元の言っていたイリュージョン、まではいかぬが、かなり
ぶっ飛んだ発想、ドタバタ、ハチャメチャにできるセンス、そして
テンポは必須である。喬太郎師は演っていないようだがやはり
喬太郎師、ちょいと真面目なのかもしれぬ。
昇太師はまずおもしろくできるだろう。演っていないのだろうか。
私は聞いたことはないが。

さて、そんなことで。
志ん生師、次。「富久(とみきゅう)」を書こうか。

文楽師も十八番にしていた。
違っていて、どちらもいい。
談志家元も演った。

 

つづく

 

 

 

断腸亭落語案内 その12 古今亭志ん生

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さて。

円生師を書いてきた。
次は、志ん生師にいってみる。

五代目古今亭志ん生。今、NHK大河「いだてん」でビートたけし氏が
演じている。金原亭馬生(10代目)、古今亭志ん朝の父。池波志乃の祖父。

志ん生師は明治23年(1890年)~昭和48年(1973年)。
円生師(6代目)、書かなかったので書いておくと円生師は明治33年
(1900年)~昭和54年(1979年)で十歳下である。

「いだてん」のたけし氏が演じているのは、志ん生ではなく、たけし
であろう。まあ、それでよいのだろうが。ついでに、他の人も書いてみる。
森山未来氏演じる若き志ん生はよい。もう出演なくなっているが
松尾スズキ氏の橘家円喬(4代目)は「富久」を演っていたが、あれは
酷かった。落語にもなっていなかった。むろん、素人に名人の噺をしろ
ということ自体、無理であろうが。
私の師、志らく師から教えられたが、落語はリズムとメロディー。
落語に聞こえるリズムとメロディーがあって、台詞でもないし朗読でも
ないのである。これがなければどんなに上手い俳優がやっても落語に
聞こえないのである。誰も教えないのか、時間がないのか。
俳優としての松尾氏は好きであるが。

いずれにしても「いだてん」で宮藤官九郎氏は志ん生師も描きたかったよう。
たのしみである。

さて。
志ん生師といえばなんであろうか。
好きな噺。

一般的には「火炎太鼓」。
そして、先にも出た「富久」。

この二席は私も同意する。
どうも富くじと古道具は志ん生師自身好きだったように聞こえる噺。

また、前に書いた「黄金餅」

また、ちょっとこれも先に書いたが「寝床」。
そして「らくだ」、「文七元結」。

また「はてなの茶碗」「井戸の茶碗」あたり。
「火炎太鼓」もそうだが古道具やのものは志ん生師自身も
好きだったのでなかろうか。

あまりいわれないかもしれぬが「三軒長屋」。
一席ものにしては長いが私は大好きである。

とにかく噺の数が多いので、むろんまだまだあるが、今挙げたのは
噺自体もおもしろく、志ん生師のできもよいものである。

談志好きが同じであった小谷野敦氏は「21世紀の落語入門」

志ん生はどうしても好きになれない、理解できない
と書かれている。落語好きでも、こういう人はいるのだろう。

まあ、志ん生師はクセが強い。
録音も、数はとても多いのだが、出来がよいものわるいものの
差が激しい。言い間違い、トチリその他含めてである。
そして当たり前だが、晩年、倒れてから後のものは特に
よくない。つまり玉石混交。

落語家、芸人ではいわれることだが、フラがある。
フラの説明はむずかしいのだが、持って生まれたその人のおかしみ
というのであろうか。今でいえば、天然?、か。
他の人であれば、同じことを喋ってもちっともおもしろくない
というフレーズ、噺は多いだろう。

酒好き、貧乏。
死後に長女の美濃部美津子氏(「いだてん」では小泉今日子氏)
が書かれた「志ん生の食卓」

で、確か「家族は貧乏だったみたいだね」みたいな、ことを志ん生師が
いっていた、と書かれていたと思う。
(読んだのだが、ちょっと探したが今手元に出てこないでの未確認。)
ひどい言いようである。どの口が言いうか。
だが、いかにも志ん生師ならいいそうである。

改名の数、師匠を変えた数、まあとにかく多い。
夜逃げ、引っ越しの数。また、いられなくなって、廃業というのか、
どの師匠にもついておらず、寄席にも出演られない時期まであった。
俺の方から(師匠を)破門してやった、ぐらい言いかねない。
詳しくは「びんぼう自慢」

「なめくじ艦隊」

志ん生一代」(結城 昌治)

あたりを読まれればお分かりになろう。

全身落語家。この人が、落語そのものという感じであろうか。

見ていて、かわいい。
危なっかしい。

酒好き。
いつも酒が入っていたのであろうか、高座で寝てしまって、
楽屋から起こしにきたら、客が「寝かしといてやれ」といった
という逸話は有名であろう。

志ん生、談志、ビートたけし」悪党説、というのを書いたが、
そういうキャラでもあろう。

まじめな人は、理解できないのか?。
そうかもしれぬ。
もちろん、志ん生は落語だが、志ん生だけが落語ではない。
別段、志ん生がわからなくとも円生師もいれば、文楽師もいる。
もちろん、新旧他の落語家もたくさんいる。
それでよろしかろう。

No.1はなんであろうか。
やはり、私だと「黄金餅」になるかもしれぬ。
先日、長々書いたのであれ以上付け加えることはないのだが、
志ん生師の、この噺の枕を書いてみようか。

ケチという切り口の小噺をする。

三つ四つ、演るのだが、

 ケチな人は、
 出すということはなんでもいやだ。
 袖から手ぇだすのもいやだ。
 息を出すのもいやだ。
 出さきゃと苦しいから、少ぉ~し出しとこう。

談志師も言っていたが、この「少ぉ~し出しとこう」が素敵なのである。

 こういう人は、トゲなんぞ刺しても抜きませんな。
 これは身に入ったんだ、なんてな。
 いついっ日(か)トゲ入り、なんてちゃんと帳面につけてあって
 下に認めの判(はん)が押してあったりなんかして。

志ん生師のを聞くと、そうとうおもしろいのだがこうして
文字にすると、おもしろさが半減以下である。
まったく同じように同じことを別の人が演っても志ん生師ほどは可笑しくない
はずである。これがやはり志ん生師のフラ、なのであろう。

 

つづく

 

 

 

断腸亭落語案内 その11 三遊亭円生 松葉屋瀬川

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引き続き、円生師「松葉屋瀬川」。
いよいよ佳境。

もうどのくらいの時刻なのかわからない頃。
忠蔵も善次郎も寝てしまっていた。

駕籠が着き、ピシャ、ピシャ、ピシャッ、と戻っていく。
雨。
刀を差した武士らしい頭巾をかぶった者がスーッと入ってきた。
(そうであった。最初の時代設定のところで、武士は出てこない
と書いてしまっていた。)

差していた大小を鞘ぐるみそれへ。

合羽を脱ぎますと、下は燃え立つような緋縮緬(ひぢりめん)の
長襦袢(ながじゅばん)。頭巾を取ります。
洗い髪、簪(かんざし)ですが、玉の大きなやつにやけに髪を
クルクルっと巻き付けて、スッと立っている姿。そのきれいなこと、
と、いったら。

忠「あ、いらっしゃいまし」
 「忠蔵さんは主(ぬし)ざますか?」
忠「さいでございます。確かに忠蔵でございます。逆さにいえばゾウ
  チュウでございます」
 「主のところに、善さんがいなますか?」
忠「えぇ、えぇ、ッ、イナマス、イナマス。二階にいなまします。」

若旦那も話し声に気が付いた。
 「あ、花魁だ!」

身を乗り出したとたんに、ガラガラガラ、っと二階からもろに
落っこった。

善「あー、あ、痛い」
瀬「会いたいのは、主ばかりではありんせん。わちきも会いとう
  ござんした」

二人の者は暫時取りすがって泣いた。

これは吾朝が手配をして廓を抜けさせたもの。

翌日、店(善次郎の実家[下総屋])へ行って話をしてみると、いい
塩梅というか、お父ッつぁんが大病。
そこへ詫びごとでございますから、一も二もなく承諾をいたします。
家へ帰れば、金はふんだんでございますから[松葉屋]の方には
ちゃんと瀬川の身代金を払いまして、仲人を立て、目出度く夫婦に
なったという。
傾城瀬川の実意でございました。

これも下げはない。

通しで1時間22分。
人情噺といってよいだろう。

「落語の鑑賞201」(延広真治編)によれば講談、大岡政談の
「煙草屋喜八」というのが元という。これは1852年(嘉永5年)江戸
市村座の初演で歌舞伎にもなっているようなので、講談としては
もっと前からあったのであろう。
また、同書によれば、四代目桂文楽が「雪の瀬川」という題で演じた
速記が残っているよう。四代目桂文楽天保9年(1838年)~明治27年
(1894年)(同)とのこと。ほぼ円朝師と同じ世代。

一方、こんな情報もある。
京須偕充氏のTBS落語研究会でのコメントでは三代目麗々亭柳橋の作
であると。
さらに京須氏の言によれば、この速記から今回の円生師(6代目)は
憶えたという。京須氏は「円生百席」などを手掛けたソニーのプロ
デューサーだった方。三代目麗々亭柳橋というのは、文政9年(1826年)
明治27年(1894年)(「落語家の歴史」柳亭燕路)。ちょい上だが
ほぼ円朝同世代。この人は、幕末から明治の柳派の頭取と言われた
大物。

四代目文楽、三代目柳橋、どちらの速記も手元にないので、確認は
できないのだが、講談が元で、三代目柳橋が幕末から明治初めに落語化し、
これが元で四代目文楽も演っていたということになるのか。
(この二人、年代が近く、京須氏の混同という可能性はないだろうか。)

四代目文楽の「雪の瀬川」は後半部分に対しての題に使われることが
多いよう。
今、柳家さん喬師が演り、CDにもなっている。
さん喬師は通しで演るが題は「雪の瀬川」で、これはクライマックスの
瀬川が廓抜けをして忠蔵の家に駕籠でくる場面、雪で、それで「雪の瀬川」
なのである。

ひょっとすると、明治の頃既に、柳橋版と文楽版があって、文楽版が
雪にするということ、なのか、、、。

さん喬師のものももちろん、聞いている。技量というのを円生師と
比べてしまうのは、さすがに勝負にならないと思うが、雪の件は
場面演出として、雪でなくともなんら問題はないようには思う。
円生師の雨では「ピシャ、ピシャ、ピシャっと」駕籠がきて、去って
いく描写が実に効果的である。雨と夜の闇、そして、その後の瀬川の
真っ赤な長襦袢の鮮やかさ。

もしかすると、雪というのは、前記のように芝居になっており、
ビジュアル的な演出とすればでは、雪の方が断然ドラマチックで
あるのは、いうまでもない。その影響かもしれぬ。

さて。
この作品、いかがであろうか。
やっぱり、ハッピーエンド。
人情噺であるが、女郎の真。同じ吉原舞台の人情噺「紺屋高尾」よりも
私は好きである。

[紺屋高尾]は、紺屋の職人が3年必死に働いて貯めた金で会いたかった
高尾に会って、その真に高尾が心を動かされ、年が明けたら、嫁に
きた、というもの。

どちらも、そんなはずはないだろう、というストーリーではあるが、
なぜか私は[瀬川]の方がスッと入ってくるのである。
あまりに噺が長く、ここまできたら、ハッピーエンドで、と、願って
しまうのか、、、。

作品論のようなものをすれば[高尾]の方が、高尾の心を動かすのが
紺屋の職人、久蔵の真と因果関係がはっきりしている。
[瀬川]の方は、身の危険を冒してでも廓抜けをする瀬川の真は
わかるのだが、なぜそこまで善次郎に惚れこむまでになったのかは
まったく触れられていない。
構造をロジカルに考えると、[高尾]の方に軍配が上がるのか。

ただ[瀬川]の方は、そんなことはどちらでもよい、という作りとも
いえるのかもしれない。
私も男だし、落語の主な客は男で、男からすれば、ということなの
かもしれぬ。

さてさて、円生師の私の好きな、一席ものではなく長編三席
「御神酒徳利」「ちきり伊勢屋」「松葉屋瀬川」をあらすじ含めて
書いてきた。円朝作品でないのも共通点である。だが、どれも名作、
佳作で聞き応えがあると思う。
音があるので、是非皆さまには聞いていただきたい。
円生師の人物描写、会話芸としての技量は長くともピカイチ。
また、人(にん)であろう、理屈っぽい語り口が、私は好きである。

長いものは今あまり、演者もおらず、おそらくCDなどでも聞く人は
少ないのは確かであろう。

普通TVなどでは10分でも一席落語を演るとすれば長いかもしれぬ。
寄席も然り。個人の独演会などでは20分、30分はあるかもしれぬ。
だがまあ、それも枕込み、かもしれぬ。
ライブで聞くには、休みが入るとしても、現代人には集中力が
続かない、といえるのかもしれぬ。

まして、落語初心者の方に、例えばいきなり[瀬川]の前半、
どうでもいい若旦那のウンチクを延々と喋られたら、とても
聞いていられない、というようなことにもなるかもしれぬ。
聞き慣れたら、ということにもなろうか。

CD向きかもしれぬ。だが、やはり、この長編の伝統は落語の中に
残ってほしい。演者の皆さま、志らく師も、喬太郎師も、
もちろんできる方はなん人もあろう、是非演って後世に音を残して
いただけないだろうか。

 

つづく

 

 

 

断腸亭落語案内 その10 三遊亭円生 松葉屋瀬川

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引き続き「松葉屋瀬川」。

人が変わったように、松葉屋の瀬川に入れ込んで八百両使い
勘当をされた善次郎。勘当をされ、以前店に使っていた
忠蔵の家の二階に居候。
忠蔵夫婦は麻布谷町に住み、屑やをしている。

善次郎の布団などないので、夫婦二人の布団を善次郎に使わせ、
自分たちは、風呂敷を敷いて着ているものを掛けて寝る。

忠蔵は大家さんに届け出る。
「ちきり伊勢屋」にも出てきたが、誰が住んでいるのかは
そこを差配する大家さんに届けるのが決まりであった。

大家さんは「お堅いことでけっこう、けっこう。忠さんね、
できることはしておあげよ。それがまた自分に報ってくるというもの。
ご主人であればなおさらのこと、大事にしておやりよ」と、お膳やら、
茶碗もないので貸し、その他なにくれとなく援助をしてあげる。

忠蔵の家にやっかいになり、一か月がたった。
善次郎も、忠蔵夫婦に「なにかと物入りで申し訳ない、
手紙を書くから持って行ってもらいたい」と、忠蔵にいう。

持っていく先は、吉原[松葉屋]の瀬川。

忠蔵はとめる。
「あなたはまだ、狐が落ちませんね。」

「女郎の誠と、雪駄の裏は、金のあるうち、チャラチャラと」。
金の切れ目が縁の切れ目、ですよ、と。

いや、そんなことはない、騙されたと思って行ってみてくれ、
と善次郎。

じゃ、まあ、駄目だと思って行ってみましょう。
大家さんに羽織を借りて、吉原へ行く。

幇間の吾朝の家。
きてみると、吾朝夫婦も善次郎のことを大いに心配をしていた。
世間では勘当になって、おもらいをしているとか、身を投げた
とか。
善次郎は、忠蔵の家で元気にしていることを話し、瀬川宛の
手紙を託す。

吾朝は使いやに手紙を頼む。

瀬川は若旦那が、身を投げたという話しを聞いて、手は降ろ
さなくとも私が殺したようなもの、今は勤めの身で馬鹿なことは
できないが、年が明けたら、お墓の前で自害をするといって、
寝込んでしまった、と。

使いやが手紙を持ってくると、瀬川は寝ている。
そんなものは見たくない、あの世の夫に叱られます、と瀬川。
いや、その、あの世の夫からの手紙でございます、と。

驚き、読むと、瀬川花魁は
「あれ、若旦那は生きていなます。うれしいよ。」
といって、泣き崩れる。

返事を書こうとするが、寝込んでいたので、手が震えて書けない。
とりあえず、急なことで用意がないので、お使いにきた方へ、帰りに
お蕎麦でも食べてくださいと、五両を言付かってくる。

中一日置いて、吾朝が麻布の忠蔵の家にきて、手紙と金を二包みを
置いていく。二十両を若旦那にお小遣い、別に五両を、そこの家の
お内儀(かみ)さんにと、行き届いたもの。

忠蔵は若旦那に、
忠「実にどうも情のある花魁ですねぇ。勤めの中であなたにこれだけの
  ことをしてくれる。あなたは勘当されても悔しくありませんね、
  これなら。

  手紙を見て、なにかにこにこされていましたが、なんかいいことが
  書いてあったんですか?。」

善「是非、会いたいって。今度雨が降ったら出ていく、と書いてある。」
 「それは、、、もしかすると、廓抜けをするっていうんじゃないですか。
  それはね、とめておやんなさい。」

昔から、そんなことをいうけれど、たいていは、実際にやる前に
気づかれてしまう。仮に、出られたとしても、女の足で、歩けない。
駕籠に乗ることになる。駕籠屋というのはどこそこへこういう者を
乗せたとちゃんと付けて、会所(かいしょ)に届けてある。翌朝、
花魁がいないのに気が付いて、会所に問い合わせる。するとすぐに
わかって、花魁を取り返しにくる。花魁を返せばこっちはなんでも
ないが、花魁は、年季を伸ばされてしまう。
やめるようにいっておやんなさい。

善「大丈夫だよ、あの花魁は迎えにきたって帰りゃあしないよ。
  死んでも帰らないよ」
忠「死んじまったらしょうがないでしょ」
善「なにも花魁一人は死なせやしないよ
  これでも、一度永代で亡くしかけた命。だけど、お前のお蔭で瀬川
  にも会えるし寿命も延びた。
  心中をするから、ちょいと二階を借りるよ」
忠「冗談いっちゃあいけない、心中するのに、ちょいと二階を貸せますか。」

若い者だからあんまりやかましくいっても、いけない。廓を抜けるなんて
そうそうやらないだろうと、たかをくくっていたが、さあ、それからは
善次郎、お天気のことばかり気にしている。

善「どうだろう、雨が降らないかね。」
忠「さあ、とうぶん降りそうにありませんな。」
善「降ってくれないと困るんだがな。」
忠「冗談いっちゃいけない、屑やに雨は禁物でございますよ。」

十二、三日、晴れの日が続いたが、今日はシトシトと朝から雨。

善次郎「今日は、花魁がくるよ。」とウキウキ。「いつ頃くるだろう」
「いつ頃ったって、昼間はこないでしょう。夜でしょう。」「まだ夜に
ならないかな」「なりませんよ」。
今日は忠蔵の内儀さんのおかつさんは、地主のお内儀さんが産気付いて
手伝いに行っているという。

やっと夜になるが、吉原の引け(消灯)は九つ(12時)、すぐきても八つ
(午前2時)にはなるでしょうと、忠蔵。遅くなりますから、一度
寝ていたらいかがでしょう、と。
忠蔵は灯りを付けて「赤穂義士銘々伝」を書き写す内職を始めたのだが
善次郎はちっとも寝やしない。これはだめだと、燈心を少なくして自分も
横になる。善次郎が寝たらまた、起きて内職をしようと、考えていたが、
いつか二人とも寝入ってしまった。

もうなん時(どき)時分(じぶん)かわかりませんが、表にピシャ、
ピシャと音が聞こえる。ピタッと駕籠が降りた様子で。

駕籠屋が「こんばんは、こんばんは。紙屑やの忠蔵さんはこちらで
ございますか?」

忠蔵が起きて戸を開けるともう駕籠はもう向こうへピシャ、ピシャ、
ピシャと、、、

縮緬(くろちりめん)の頭巾を目深にかぶりまして、紺桔梗の雨合羽、
大小を差して爪皮(つまかわ)の掛かった足駄を履き、渋蛇の目の傘を
差してぬっと立っている。

忠「わ、わ、わたくしどもは、屑やでございますので、金っ気なんかは
まるっきりございませんので、、、、」

なんにも言わずにスーッと中へ入って、、、

 

つづく

 

 

 

断腸亭落語案内 その9 三遊亭円生 松葉屋瀬川

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引き続き円生師の「松葉屋瀬川」。

古河の穀や[下総屋]の若旦那、善次郎。あまりにも硬く本ばかり
読んで、大旦那は商売上もよろしくないと、江戸の店に出す。
番頭に五十両や百両の金は送るから、吉原にでも連れて行ってくれ、
という指令を出すが、番頭ではやりこめられてしまいとてもだめ。
幇間の崋山が番頭から頼まれ、儒者という触れ込みで若旦那に会いに
くるようになる。花の会と称して、吉原の同じく幇間の吾朝の家に
連れてくる。花魁が現れ、見事に花を生け、若旦那にニコッと笑いかけ、
出ていく。

若旦那はさながら、ものに憑かれたように、ジーっと視ていましたが、
「実にどうも、美しい方ですねぇ~」
「あれは、松葉屋の瀬川という一両一分の花魁でげす」と崋山は話す。

当年とって十八歳、[松葉屋]では代々瀬川という花魁はできるが、
当代はまた、たち優っている、と。

そこへ、使いのものがきて、若旦那へといって、なにかお使い物
を置いていく。
[たけむら]の三重の折。

崋山は「使いの者に、祝儀を渡しましょう、一分もやればよいでしょう。」

「貰いっぱなし、というわけにもいきません」と崋山。
「いかがいたしましょう。なにか、返しをいたさねば。」
若旦那が、「なにをすれば」と聞くと。
「左様、これは五両はおつかわしにならねば、ならんな。」

若旦那は高額に驚く。
「それは、あなたは[下総屋]の若旦那、相手は売り物買い物の花魁、
そのくらいはいる」と。

若旦那は思案し「先生、ああいう花魁は一晩買うとなると
どのくらい?」と聞くと「初回、馴染みをつけて六両あればよろしい
でげしょう」と。

であれば「ただ五両やるよりも、一両足して遊んだ方がそろばんに
合いますな」と若旦那。
「左様、つまらぬものを買うよりは、ああいう花魁を一度でも買えば
後世に話しの種になるというもの。いや、決して手前はお勧めはしな
いが、、。」

「実は先生、親父の方から、五十両や百両の金は送ってやる、といって
おりまして、先生、お取り計らいをお願いできませんでしょうか」と
若旦那。

と、いうことで、思う壺。
もちろん、前々からの筋書き通り。

幇間の家から、まさか送り込むというわけにもいかないので[ますみなと]
という茶屋へあがり、幇間は吾朝(ごちょう)、芸者を二組ほど揚げて、
あっさり騒いで[松葉屋]に送り込む。

[松葉屋]のような大見世では直接見世にいけない。吉原の真ん中の
仲之町の通りの両側に多くあった、引手茶屋というところを通す
のである。歌舞伎でよく吉原の風景が出てくるのは、この仲之町の
引手茶屋が並んでいるところである。

芝居や映画に出てくる花魁道中というのは、この引手茶屋に花魁が
客を迎えにくるというのを、セレモニー化したものである。
ともあれ、引手茶屋を通すというのも客に金を使わせる仕組みと
いえよう。

「本当はこういういい花魁というのは初回のお床入りというのは、
なかったんだそうで」と円生師は説明をする。むろん、吾朝から
手をまわしてあったので、目出度くお床入り。
「崋山は、まさか大籬(おおまがき)の二階に寝るわけにいか
ないので吾朝の家に引き上げてくる」。

大籬というのは、大見世、高級店のことだが、その古い言い方。
ちょっと格式ばった使い方である。
崋山は幇間なので、大籬の客にはなれないという意味である。
これも約束事といってよいのであろう。大籬の格として芸人に加え
職人なども客にはしない、という建前であったというのも、別の噺に
出てくる。(これは「お若伊之助」円生師)

朝になり、崋山は[松葉屋]に迎えに行く。

部屋へ行くと「子供などはもう起きていまして」と禿(かむろ)が
出てくる。

禿というのは、十歳程度、店にきたての女の子。花魁の部屋付き
になり、行儀作法その他を花魁から学びながら成長する。

呼んでもらうと、瀬川花魁が出てくる。

「鬢(びん)のおくれは枕の咎(とが)よ、という風情」と
円生師は描写する。

鬢は耳際。耳際に残って垂れた短い毛が、鬢のおくれ毛。
ある種、定型化された描写であろう。

鬢のおくれ毛というのは、むろん和装の髪での表現だが、
今も女性の纏め髪の場合、色っぽいものである。
しかし、こういう女性の髪の有様を描写する、ということは以前は
あたり前であったが、なくなってしまった。

この寝起きの瀬川のまた美しいこと。
それにその品格のあること。

「若旦那は、まだ眠いといってようやすんでいなます」、と。

それでも起こして、

「私も引け(12時)すぎには休みましたが、そうたいして、眠いことも
ありませんが」「でも、花魁がもう少し起きて、話しをしてくれろ
と、無暗に苦いお茶を飲ませまして、今朝方になってやっと寝ました」

これは、おそれいりました。

若旦那は花魁から、既に崋山が儒者などではなく、幇間であることも
聞いており、今日はもう帰らない、と言い出す。

まさか、それはそれで崋山も困る。ま、ま、とにかく今日だけは、と
無理やり引っ張って帰る。

これから善次郎は夢中になって通い始める。
半年経たないうちに、なんと八百両という金をつかった。
ざっくり一両、十万円として、八千万円になるか。

少し、薬が効きすぎた。
今度は、意見をするがどうしても聞かない。
勘当。
親類縁者も寄せ付けない。

もう身でも投げようかと、永代橋でぼんやり腕組みをしている。

と、ここに、いい塩梅に昔、店で使っていた忠蔵という男が
通りかかる。

忠蔵は人物はよいのだが、若い時というのは、しくじりのあるもの。
店の中働きのおかつという女といい仲になり、手に手を取って逃げた。
昔は、奉公人同士の関係というのは、たいへんやかましかった、
んだそうで。
お店(たな)もので、手に職があるわけでもない。麻布谷町に住んで、
紙屑買い(屑や)をしている。

麻布谷町というのは、前に出てきた下谷山崎町、四谷鮫河(さめが)橋
などと並んで、落語によく登場する貧民街といわれていたところ。
麻布谷町は今は六本木一丁目、二丁目の谷筋。一丁目側にアーク
ヒルズがある、かなり狭い範囲だが、あのあたり。

 

つづく

 

 

断腸亭落語案内 その8 三遊亭円生 松葉屋瀬川

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引き続き円生師の「松葉屋瀬川」なのだが、ちょっと
横道にそれて、吉原など昔の遊郭での専門用語、台(だい)、
台屋、台のもの、について、ちょっとマニアックな話し。

私は誤解をしていたようなのである。

妓楼、女郎屋でお客が食べるものを誂えるのが“台屋”であると
この「松葉屋瀬川」で円生師は説明をする。
そして食べるものそのものを“台のもの”という。
これは飯台に入れて持ってくるのが由来、と。

この「松葉屋瀬川」を聞く前“台のもの”の台の由来を
誤解していたのである。

違う噺なのだが私の好きな「居残り佐平治」というやはり
廓の噺がある。

この噺は有名で談志家元もするので、かなり以前から知っていた。
ここに“台のもの”さらに“そばの台”さらにその“そばの台が”
空いた“台ガラ”という言葉が出てくるのである。
それもストーリーに関わる比較的重要なアイテムとしてである。

「居残り佐平治」が映画化された「幕末太陽傳」でこの場面が
映像化されており、この“台のもの”は黒塗りの細長いお膳の
ようなものに載せられて運ばれていた。

これが、いかにも私には“台”に見えたのである。それで“台”に
載っているから“台のもの”かと思っていた。

今回「居残り」の昔の速記を調べてみた。1919年(大正8年
初代柳家小せん(「集成」(めくらの小せんなどといわれ
「居残り」といえばこの人であったよう))によれば“台ガラ”の
ことを“台場”といっていたのである。おそらくこれが正しい、
というのか、古い使い方であったのであろう。

飯台に載せるから“台のもの”で、そこからさらに妓楼で食べる
料理のことを「のもの」を略し“(そばの)台”、載せて客へ運ぶ
ものなので“台場”、台のものを作るので“台屋”なのであろう。

台、台のもの、台屋、台場という言葉、他ではまず聞いたことがない。

ご退屈様、閑話休題

吉原揚屋町[たけむら]という台屋のこと。

円生師、さらに台のもの、吉原の料理の値段の話をする。
「品川心中」でも書いたが、遊郭というところは衣替えに
衣装代を馴染み客が出すとか、まあ、とにかくお金を取る仕組みが
出来上がっていたのである。

見得の場所などといい、十八大通なとという、通人、主として蔵前の
札差であるが、超富裕商人、まあとにかく金に糸目をつけずに大盤
振る舞いをするのが、あたり前の話しだが、喜ばれる。そういうもの
であった。

だが、吉原は江戸後期になると、お客はどんどん減っていった
のである。歌舞伎も同様である。(ここは噺には出てこない。)
吉原、四宿が公に、まあ、許されたところだが、その代わり、
いわゆるもぐりの、岡場所というところが安く、こちらへどんどん
客は奪われていったのである。1/10くらいであろうか。格安。

この台屋というのは、料理自体は、外のそばやだったり、鮨や、
料理屋から取り、それを皿を代えて、妓楼に入れる。これで
3割、4割乗っけて、出していたという。(ここは円生師の説明。)
まあ、ひどいもんである。

今も、例えば、古い有名な温泉地に行くと旅館など妙に相場が高い
という経験をされた方はあるかもしれぬ。一度上がってしまった
格というのか、相場は簡単には下がらない。ある種産業のようなもので
旅館の周辺に様々な仕事があって、上から下までその値段で出来
上がっておりそうそう簡単には変わらないと思われる。

吉原もそうだった。
明暦に新吉原として日本橋から移転してきて百五十年、二百年、
の間に、関連する人々、商売がたくさんできていたわけである。
こういう食い物、台屋もそうであろうし、また女性も然り。

当時であるから、借金によって子供の頃に売られてくる。これに
関わる、女衒(ぜげん)もそうであろうし、費用は最終的には、
妓楼が出すわけである。研究があり読んだことがあるが、例えば
一人、十歳の下野〇〇村のお花さん、百両、相場このくらいだった
ようである、妓楼もこれ、借金をして出すのである。
妓楼用の金融業というのも吉原周辺にできており、これはある寺を
名目にしてシンジケートのように組織され、田舎の豪農らが出資し、
金をまわしていた、そんな記録が残っているようである。まさに
産業である。花魁道中など華やかではあるが、これが本当の姿で
あることも頭に置かねばならない。

ともあれ。
崋山は若旦那を、花の会と称して台屋の[たけむら]のそばの吾朝
(ごちょう)という幇間の家に連れてくる。

座敷には緋毛氈が敷かれ、上品な設(しつら)え。
そこへ、これ以上なかろうという、美しい花魁が現れる。
もちろん、前々から崋山が手をまわしていたこと。

この花魁が[松葉屋]の瀬川。

[三浦屋]の高尾というのが落語などにもよく出てくる名前で、代々
襲名していた花魁だが[松葉屋]の瀬川も同様、時代時代で、店の
No.1の花魁が襲名していた名前。

雛形若菜の初模様・松葉屋内瀬川
鳥居清長筆 大判 錦絵

噺にも出てくるが、一枚絵に出てくる瀬川花魁。
おそろしい、八頭身である。
鳥居清長の作品は、江戸のヴィーナスなどともいわれているようで、当時も
美人画として一世を風靡した。時代としては天明から文化までで幕末より
少し前である。

[松葉屋]は、松葉屋半蔵で、半蔵松葉などどともいわれ、大籬
(おおまがき)、大見世。いわゆる高級店である。店も格がしっかり
決まっており、大見世、中見世、小見世。吉原全体で、同じ格の花魁だと
横断的に値段も同じであった。大見世の瀬川花魁であれば、最上級、
大夫(たゆう)といったが、入り山形に一つ星、一両一分(もちろん、
これだけではすまないが)の花魁といった。入り山形に一つ星というのは
吉原細見」といって、案内が出ており、ここに花魁の名前とランクが
記号で書かれていたのだ。最上級が入り山形に一つ星、という記号という
ことである。ここまで、この噺だけではないが、落語の中での説明のされ方である。
ちなみに大夫というのはよく訂正されるが、上方、例えば京都島原
などの大夫とは違うということである。端的にいうとあちらの方は京都
の方が格が上という。詳細は不勉強でわからないが、まあ、歴史と環境、
文化が違うので、違うのはあたり前であろう。

私も物好きで、この江戸期の「細見絵図」の復刻版(ほんものは
かなり高価なので)を以前に手に入れてみたのが手元にあった。
今回改めて引っ張り出して[松葉屋]のところに瀬川という名前が
ないか探してみた。そもそも私の弱点、古文書が読めない。
また大夫というのは吉原全体でも2~3人しかいない。[松葉屋]の
場所はおそらくこれであろう、とわかったが、大夫、あるいは瀬川も
いつもいるとは限らない、ということかもしれぬが結局[松葉屋]の
大夫瀬川は確認できなかった。(「細見」の画像も載せようかと思ったが、
不正確のおそれ多分にあり、やめておく。)

松葉屋の瀬川花魁、若旦那と崋山がいる部屋へきて、花を見事に生けて
帰っていく。

帰り際、若旦那に、ニコッと笑いかけていった。

 

つづく

 

 

 

断腸亭落語案内 その7 三遊亭円生 松葉屋瀬川

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引き続き、円生師の「松葉屋瀬川」。

[下総屋]の若旦那を番頭が浅草見物に連れ出す。
今日は三月十五日。旧暦であろう。

浅草見附(浅草橋)から、浅草まで沿道の説明を番頭が始めるのだが、
善次郎の方がよっぽど詳しい。
関東大震災で焼け杉並に移転したが、以前は浅草橋須賀神社の隣に
焔魔堂があり江戸三閻魔として有名であった。番頭もむろん知って
いるがその閻魔の像を彫ったのは仏師何某であるなど、延々と説明を
する。

雷門から浅草寺に入り仲見世
浅草寺お堂の手前左側に伝法院。その前に灯篭がある。
これは、浅野内匠頭が献上をした灯篭だという。以前は浅草寺
観音様のお堂の左の方に権現様のお宮(東照宮)があった。
これに諸大名が灯篭を寄進し、浅野様も寄進したが、その後、
お宮は紅葉山(江戸城内)に移転。灯篭も一緒に移転したのだが、
浅野様だけはお家がつぶれたのでそのままここにある、と。

私が聞いても、へ~~、というような内容である。

東照宮が江戸初期、浅草寺境内にあったのは史実のよう。
今、重文に指定されている二天門は明治の神仏分離以前は随神門と
呼ばれていた。これは浅草寺東照宮があった頃の門として作られた
ためという。(「浅草寺HP」)
ただ、播州赤穂浅野家の灯篭が今も浅草寺あるのか、いつまで
あったのか、その後どうなったのか、などなど、は不詳であるが。

まあ、とにかく、この前半部分、様々なウンチクがこれでもかと、
出てくる。円生師の録音でもところどころ言いよどみがあったりする
ほどで、覚えることだけでもたいへんそうである。
だが、まあ、このあたり円生師の面目躍如である。
ただ、興味のない人は、飽きてしまうかもしれぬ。

観音様に善次郎と番頭はお参りをする。

ここから、吉原も近いから行ってみませんか、と番頭は誘う。
今は、桜の盛りで見事ですよ、と。

吉原は桜の名所としても有名であった。だが、これは客寄せのために
わざわざ咲いている時期に植えていたのものであるが。

番頭が吉原見物へ誘うと、善次郎は、烈火のごとく怒り出す。
私を道楽者にしてしまおうということか。父親に代わって、暇を
出す。店へ帰るには及ばない、と。
番頭は慌てて、それでは有様(ありよう)なことを申し上げますが、
お国の大旦那が、あまりに善次郎は固いので、このままでは世間を
知らず商売上もよろしくない、吉原へでも連れて行って少し柔らかく
してくれ、そのための五十両や百両は送ってやる、と仰って
いる、と。

仲見世で、善次郎が、憚り(便所)に行っている間に番頭馴染みの
崋山という幇間(たいこもち)に出会う。

どうしたんです?、是非お供を、と幇間らしく話しかけると、
いや、今日は若旦那のお供で、と。
そして、堅物の若旦那を少し柔らかくしてくれろと、古河の主人から
いわれているのだが、とても手に負えなくて困っていることを話す。

崋山は、それならば、私にお任せを、半年経つうちに家をぶっ潰す
くらいの道楽者にしてみせましょう、という。
番頭は、それはありがたいと、頼む。
世の中には、頼もしい番頭もいたものである、と。

翌日、崋山は品のいいこしらえで店にくる。
若旦那には儒者(じゅしゃ)という触れ込み。

ここで、円生師、幇間の説明を行う。

幇間と一口にいっても、落語に出てくる、幇間というのは、
ある種の、ステレオタイプ、落語特有のキャラクターに既に
なっている。
落語の中だと、名前は必ず一八。いつもパアパアしていて、
軽薄な男。

だが実際には、もちろんいろんな幇間がいたわけである。
落語の中でも、よくいわれるが「幇間あげての末の幇間」道楽の
挙句に幇間になるというが例えば、それなりに大店の旦那で
知識も経験もあって、幇間になるというような人もいた。
和歌、俳諧、生け花、お茶は一通り。
料理は玄人はだしなんという。
ここに出てくる、崋山という幇間はそんな人間。
それで、儒者という触れ込みができるのである。

崋山は、若旦那と話しをし、知識豊富。なんでも答えてしまう。
若旦那も先生、先生と呼んで、慕う。

ここでも、うんちく話がどんどんと出てくる。

本を読むのもよいが、あまり根を詰めると目もわるくするし、
よろしくない。花(生け花)をおやりになったらいかがか、と
勧める。

花を買いにやらせ、崋山自ら生けて見せたりもする。

崋山は、花の会といって、連れ出す。
ただ、まだまだ、吉原に連れていくというのは先。
本当に、花の会。

なん回か、こんなことがあり、数日崋山がこないことがある。

そして、現れ、ちと身内に取り込みがあってと説明し、
今日は、花の会があるのだけれど、場所柄がよろしければご同道
を願いたいのでげすが、今日はそういうわけにまいらぬ。
どこかと聞くと、北廓、吉原、とのこと。

人間おもしろいもので、行け行けというと嫌がる。
行くな行くな、というと行きたくなる。
浮気料簡は起こさぬから、連れてってくれ、と、若旦那。
思う壺。

崋山は番頭から内々で軍用金二十両を預かり、若旦那を連れて吉原へ。

柳橋から舟に乗って、堀から土手へ上がり揚屋町へくる。

吉原というのは、碁盤の目の中に江戸町一丁目、二丁目、揚屋町、
角町、京町一丁目、二丁目と六町でできていた。大門から入ると
真ん中が仲之町の通り。手前から江戸町が左右にあり次が右が
揚屋町、左が角町、さらに奥の仲之町の左右が京町になっていた。

噺の中の説明では「昔は、揚屋町というのは台屋とか、芸者、幇間
遊芸の師匠というのが住んでいたんだそうで」と説明する。
「[たけむら]という台屋(だいや)がありまして、この横を入る。」

そして、円生師は台屋の説明をする。
まあ、仕出し屋のこと。お客が妓楼で食べるものを持ってくる店。
飯台に入れて持ってきたので、台屋、という説明をしている。

ちょっと余談だが、「台」のこと、で、ある。
これ、以前から気になっていたのである。
ちょっとマニアックな話しで恐縮である。

別の噺であるが「居残り佐平治」という噺がある。
これは吉原ではなく、品川であるが、やはり廓の噺である。
その「居残り」で“そばの台”というものが登場する。

妓楼で食べるものを“台のもの”、あるいは、料理の名前を前に
つけて“そばの台”という使い方になる。(ここまではよい
はずである。)

しかしこの「居残り」では食べ終わった“そばの台”というのが
出てくる。円生師はこれを“台ガラ”といっていた。
これが原因で私は大きな誤解をしていたようなのである。

 

つづく