浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



断腸亭落語案内 その6 三遊亭円生 ちきり伊勢屋~松葉屋瀬川

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引き続き「ちきり伊勢屋」。

伝次郎の馴染みの幇間(たいこもち)一八(いっぱち)から、着物と羽織を
巻き上げたので、さっそく、表の[富士屋]という質屋に、伝次郎が
持っていく。

すると、番頭はちょっと目が届かぬ(引き取れない)ものという。
こんな形(なり)をしているから、怪しんでいるのか?、え?
これでも、麹町五丁目で、、と言いかけたが、やめて、じゃぁ
しょうがねえ、と、店を出る。
少し歩くと[富士屋]の者が追いかけてくる。ちょっと手前どもの
主人がお話をいたしたいことがあるという。
付いて行ってみると、きちんとした座敷に通されて、出てきた
女主人とその娘。これが、なんと以前に喰い違いで首をくくろう
としていたところを伝次郎が百両をやって助けた母娘であった。

母は、お陰様で二人の命が助かり、この店も持ちこたえることが
できました。本当に、なんとお礼をいってよいかわかりません。
つきましては、この娘を嫁にしていただき、婿になっていいただく、
婿がおいやでしたら、嫁に差し上げ“ちきり”の暖簾を掛けて
いただいても結構でございます、という。

娘は十七。二人は夫婦になり、後に「ちきり伊勢屋」を再興し、
伝次郎は八十いくつまで生きたという。積善(せきぜん)の家に
余慶(よけい)あり、ちきり伊勢屋でございます。

円生師(6代目)は、下げは特になく、こんな終わり方である。

トータルで2時間15分。
怪談でもなく、いわゆる人情噺でもなく、ここまで長く、
かつ現代まで、残っているのは珍しいかもしれぬ。

本文にも書いたが、禽語楼小さん(二代目小さん)の1893年
明治26年)の速記があるのが最も古いものと思われる。

「(ちきり伊勢屋は)御維新(ごいっしん)には潰れましたが、
 ご年配のお方様はご存知でいらっしゃいます」

と禽語楼小さん師は噺の末尾に[ちきり伊勢屋]を実在の店で
あることを匂わす言い方をしている。

明治に入り、落語や芝居は真実、史実を語らねばならないという、
明治新政府の指導もあったのは、前に書いている。こうした
背景があって、このような言葉が出てきた可能性もあり、すぐに
実在とはいえないとは思われる。だが、もしかしたら、という
可能性も否定はできない。

速記は「口演速記明治大正落語集成」(以下「集成」)だがその
解説によれば、三代目、四代目の小さん、また、初代三遊亭
円右も手掛けたとのこと。初代円右は円朝の孫弟子で前に
「品川心中」などがよかったとして出てきた、円生師(6代目)の
師匠である橘家円蔵(4代目)とほぼ同世代。つまり円朝を第一世代
とすると第3世代というような言い方ができるかもしれぬ。それで
円生師(6代目)はこのあたりの噺は直に聞いているはずである。

禽語楼小さん師の速記が最初ということから、やはり柳派の噺で
あったのであろう。

死相を占い師にみられるが、その後の善行によって、長生きを
する、というお話しは、それ以前にも存在するよう。
だが、やはりこの噺そのものの成立時期ははっきりしない、
というのが本当のところであろう。

明治26年の禽語楼小さんの速記は、もう少し長いのだが、大筋は
円生師(6代目)のものと変わっていない。
同じく「集成」の解説によれば、初代円右から習ったのではなく
円生師はこの速記から覚えたといっている、とのこと。

「御神酒徳利」もそうだが、長いが殺伐としたところもなく、
怪談でもなくハッピーエンドで終わるのは珍しい、よい噺である。

積善の家に余慶あり、情けは人の為ならず。持てる者は持たざる者に
分けることは必要なことであると、説教くさくなく、伝えているという
理解はできよう。ただ、その後思いっ切り遊んでもよい、というのも
落語らしい。まったく健全である。

前にも書いたが、馬鹿騒ぎをしている風景や、棺に納めて、出棺、
葬列という風景が私は好きである。
円生師(6代目)版と明治の「集成」版とくらべるとこの部分は細かい
ところもあまり変わりがない。なるほど速記から円生師(6代目)は
覚えたというのがうなづかされ、この部分は明治中期以前の風景である
と思ってよさそうである。
ただ、既に書いたように、おでんやの件は「集成」の速記にもなく、
明治20年以降、大正、あるいは昭和初期と考えられ、禽語楼小さん師
以降、ひょっとすると円生師(6代目)自身の演出であるかもしれない。
舞台が江戸であるからすぐに江戸期のことと考えるのは早計で、
風景描写などは江戸期でもなく、さらにその後明治以降、大正、昭和で
ある可能性も大いにあることには注意しなければいけない。

「御神酒徳利」「ちきり伊勢屋」とどちらも占いがテーマ。
これは偶然ではなかろう。この二つの噺、現代でいえば、SF
サイエンス・フィクションといってよいのではなかろうか。
怪談でもなく、暴力、バイオレンスでもなくエンターテインメント性を
高める手法ということになろう。現代のSFは近未来にある程度予想
できそうなだが、今は現実には起きないことをフィクションとして
物語にし、読者の想像の翼を伸ばさせるというのであろうか。

占いであれば、当時ではありそうでない、なさそうであるかも
しれないことを創作しやすい。そして、そこから生まれる悲喜劇、
笑い、人生のようなものを描いていく。

「ちきり伊勢屋」でもっとも好きなのは、金が少なくなって、
借金をしまくる。その期限が自分の死後になっている、という件。
夢のようではないか。

だがさて「ちきり伊勢屋」、伝次郎が実際に自分だったら、と
考えてみようか。どう思い、なにをするであろうか。噺の中で
白井左近に「やけになって首をくくれば枝が折れる、身を投げれば
助けられる、自ら死のうとしないこと」といわせているのは
おもしろい。
自殺をふさがれると、うつ病になってしまうか?、だがやはり
伝次郎のような行動をするような気もしてくる。
死ねずに無一文になった後、50両はもらったのであれば、それで
裏長屋でもいい、それこそ日傭取りでもして、つつましく
暮らさないのか、という気もしてくるが、いきなりそういう風には
人間切り替えができないものか。考えるとおもしろい。

さて。
そんなことで円生師の「ちきり伊勢屋」はお仕舞。

もう一つ。円生師の長編で好きな噺。あまり他の人は今も演っていない
「松葉屋瀬川」別名「傾城(けいせい)瀬川」を書いてみたい。

時代設定は江戸。
主人公は下総古河の穀や[下総屋]の若旦那、善次郎。

「穀や」というのは米の問屋というようなことか。
古河※は今は茨城県であるが、以前は下総。

善次郎は、本ばかり読んでちっとも若者らしくない。
親が心配をし、少しは外へ出てはどうかと、古河から江戸の店に
出てくる。だが、江戸へ出てきても同じようなことで、江戸見物
などもまったくしないで閉じこもっている。
ただ、引きこもりというのではなく、知識は豊富、口は立つ。
番頭などは簡単に言いくるめられてしまう。

まあまあ、ともかく、というので、番頭は善次郎を連れて浅草へ
見物に出る。店は日本橋横山町二丁目。

 

 

つづく

 

 


※古河藩、領主は幕末で土井家、譜代、八万石。この土井家は
家康の腹心土井利勝が江戸期の初代当主。

 

 

断腸亭落語案内 その5 三遊亭円生 ちきり伊勢屋

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引き続き円生師匠の「ちきり伊勢屋」。

伝次郎は白井左近に言い渡された二月十五日に死ねずに、
半年以上経ち、乞食のような姿になり高輪の通りで幼馴染の
伊之助という者に会う。

その少し前に、高輪の大木戸んとこで、伝次郎は白井左近に
会ったという。

白井左近は編み笠をかぶり、大道占いをしている。
気が付いた伝次郎は笠の上からポカポカとなぐる。
「なにをするんだ」という白井左近。「お前、私の顔を見忘れたか
ちきり伊勢屋伝次郎だ。」

白井左近も驚いたが、ここでは人だかりがするから、とそばにある
白井左近の裏長屋へ連れていく。もう一度伝次郎の人相を見せてくれ
という。

見ると「人相が変わっている。長生きをする。八十以上は生きる
だろう」と。
「なにか人助けをしなかったか?」「なん人だかわからなが、
たくさんの人を助けた」と伝次郎。「いや、そうではなく、死んで
しまうという人を助けなかったか?」と。
「そういえば、身投げをしようという爺さんを一人と、首を
くくろうとしていた女を二人、金をやって助けた」、「じゃぁ、
それだ」と白井左近。

だが「なん万両もあるけっこうな身分の時には死ぬといわれ、
こんな乞食同然になって、長生きするといわれても」と伝次郎が
いうと「いや、そんなことはない。これから江戸へ行かず、品川の
方へ行くと、必ず運が開ける」と。

それでぶらぶらこっちへ歩いてくると、幼馴染の伊之助に出会った
というわけである。

しかし、あんなに平河町で繁盛していた白井左近がなんだって
大道占いをしているのか。

それも、もとはといえば、伝次郎のせいらしい。
白井左近は奉行所から死相をみてはならんと固くとめられていた。
それを伝次郎のはあんまりはっきり出ていたので、親切ずくで
教えてくれたというのである。だが、伝次郎は死ななかった。
これが奉行所の耳に入り、江戸払い(ところ払い)になった。
家財を売って、引っ越そうとすると、運悪くそれが泥棒に入られ
取られてしまった。その上左近は患う。それで、一足出れば
江戸府外となる高輪大木戸の貧乏長屋に住んで、大道占いをする
ことになってしまったという。

気の毒だったと、白井左近はなけなしの蓄え、二分(にぶ)の
うち、半分の一分を当座の小遣いに持って行ってくれというので、
一文無しの伝次郎は受け取ってきた。

伊之助というのは、伝次郎の幼馴染であるが、麹町で福井屋と
いう大きな紙問屋の倅。道楽者で勘当をされて品川新宿の裏長屋に
住んで日傭取り(ひようとり=日雇い)をしているという。

伝次郎に、お前さん、これからどこいくの、と。
ただ、白井左近に品川の方へ行けっていうからきただけである。
じゃあ、あたしんとこにおいでよ。汚いとこだけど。
伝次郎には行くとこもないので、願ったり叶ったり。
今、白井左近にもらった一分の内、半分の二朱だけ米を買って
伊之助の家に転がり込む。

二人とも呑む口だから、呑んで食って、ゴロゴロ。

十日ばかり経ったころ、大家さんがくる。
店賃も溜まっているのだが、そうではなく、お前さんのところに
もう一人いるね、と。
それもお届けに行こうと思っていたんですが、この人は私の幼馴染で
元は大きな店の旦那で、決して怪しい者では、、
いや、そんなことは見ればわかるが、そうじゃないんだ。
駕籠やを二人でやってみないか。
少し前に駕籠やをしていた男が置いて行って駕籠があるから。

そうですか、じゃ、仰せに従いましょうと、二人でやってみることに
する。大木戸そば、札ノ辻あたりにバンを張っていると品川に遊びに
行こうっていうのが乗るから。

むろん、二人は駕籠なんぞ乗ったことはあるが担いだことなど
まるでない。本職が皆行ってしまってから、一杯入った幇間らしい
男に声を掛けて、品川、土蔵相模までといわれ、乗せる。

最初っから肩は痛い、もう半町でだめ。(一町は六十間、109m)
それより、腹が減ったと、そこにあった、夜明かしのおでんやに
入ろうということになる。客は酔って寝てしまっている。
二人とも金がない。
客に出してもらおう。駕籠賃から先に立て替えてもらう。

酒を一本ずつつけてもらって、がんも、と、しのだ。
茶飯を食って、勘定、百十二文。

これ、今のいわゆる煮込みのおでん。ちょっと久しぶりに“料理日記
っぽいことも書かねば。以前、これを以て、江戸終わり頃には今の
煮込んだおでんというのができている、と考えていたのだが、
それは間違い。焼いた豆腐などに味噌をつけて食べる田楽から
煮込みのおでんができたのは、明治に入って大分たった明治20年頃
というのが正しいよう。

この場面、江戸時代に登場するとして正しいのは振り売りの
「上燗おでん」という商売。これは串に刺した豆腐に味噌を塗ったもの
を売る。ただ名前の通り酒もあり、また茶飯もあった。
ちなみにこの噺の最初の速記、禽語楼小さん版(1893年
明治26年))ではこのおでんやの件(くだり)は一切ない。

ともあれ。

食い終わって、客を起こし、出してもらえないか頼む。
冗談じゃねえ、客を乗っけて、茶飯を食ってるべら棒も
ねえもんじゃねえか。

その上、まだ一町もきていない。もういい、降ろしてくれ、
というのに、履物は乗せたところに忘れてきたという。
これじゃあ怒るのももっとも。

だが、伝次郎が
伝「おい、一八(いっぱち)。」
一「なるほど、確かに俺は幇間だが、駕籠屋から一八なんていわれる
  因縁はねえんだ。」
伝「おい。テメエ、俺の顔を忘れたか。ちきり伊勢屋だ。」

そうなのである。遊んでいた頃の取り巻きの幇間にこの男がいた
のであった。

今の一八の着ている着物も羽織もみんな、伝次郎がやったもの。
と、いうことで、かわいそうだが、着物と羽織、さらにあり金
二両の内、半分の一両を巻き上げる。

もうやーめた。
駕籠なんか、この二人にはできるわけがない。
あきらめて、帰る。

翌朝。

さっそく、質屋に、伝次郎が持っていく。
質屋は、伝次郎の商売である。
このくらいのものであれば、どのくらいになる、というのは
だいたい見当がつく。

表にある[富士屋]という質屋へ持っていく。

 

つづく

 

 

断腸亭落語案内 その4 三遊亭円生 ちきり伊勢屋

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引き続き、円生師匠の「ちきり伊勢屋」。

伝次郎が、白井左近に死を宣告されたのが7月。そこから慈善
を始めて3か月、10月になった。もう金も半ば使ってしまっている。

そこから“心を入れ替えて”遊び始める。
柳橋で芸者買い、吉原へもいく。

遊んでみれば、むろん愉しい。

だが、十二月になってくるとそろそろ、懐も怪しくなる。
田舎にある田地田畑などもみんな売ってしまう。
そして、店の土地、家などを抵当に、目一杯、金を借りる。
貸す方も、長者番付に載っている伝次郎なので、喜んで貸す。
その期限が二月晦日みそか)とか、三月十日になっている。
これだけ使い心地のいい金はない。

一月一杯は吉原で夢のようにすごし、二月に入って、店の者には
十分に手当て(退職金)をして暇を出す。

二月十三日、家に帰ってくる。
芸者、幇間(たいこもち)大量に引き連れて、で、ある。
十三、十四はお通夜というので、やっぱりどんちゃん騒ぎ。
生きてお通夜をしたのは伊勢屋ばかり。

そして、十五日の朝になった。いよいよ臨終の日。
簾(すだれ)を出し、忌中の札を下げる。

伊勢屋の前には加賀屋という煙草問屋があった。
主は年配で、朝早く起き、食事も済ませ、店に座っている。
と、この忌中の札に気が付いた。
不審に思って、店の若い者に誰が死んだのか聞きにやらせる。

伊勢屋にくると、3~4人の芸者が白粉(おしろい)が
はげっちょろけになっている、羽織をひっくり返して着た幇間
こんなのがまごまごしていようという有様。
加賀屋の若い者は、店の知った顔を探すが、皆、もういない。
それでも、お店の方は、と出てきた幇間にいうと、伝次郎が
出てくる。
今日の、正九つ(正午)に私は死にます。これは私の親父の非道が
報ったもの。もうずっと前からわかっていたことですが、お宅の
ご主人にも二度ほど、遊びすぎるなとご意見をいただいて、とても
ありがたかったが、こんな有様で、お礼も申し上げられない。
よろしくお伝えくださいと、仏も申しておりました、とお伝え
ください、と。

善吉が店に戻り主人に報告する。なんだかヘンでございますね。
親戚でもない、関わり合いになるのも面倒だ、うっちゃっときな。
と近所でも相手にしない。

いよいよ時刻も迫ってくる。
湯灌(ゆかん)といって、一っ風呂、飛び込む。
経帷子(きょうかたびら)に着替え、額に三角の紙を貼る。
この経帷子も白縮緬(ちりめん)。いろいろな書体で当時名代の
書家に、南無阿弥陀仏と書いてもらったもの。一字いくらという、
たいへんなもの。有名な袋物やに誂えさせた頭陀袋(ずたぶくろ)。
早桶、お棺が用意される。このお棺がすごい。
座って入る座棺だが、黒檀(こくたん)製で銀の箍(たが)が
はまっている。黒檀は黒く、堅いことで有名。ハンコなどにもする。
ここに吉原の花魁と伝次郎の比翼紋など彫ってあり、中に布団が
敷いてある。

伝次郎が入り、幇間連中とも別れの挨拶をする。
50人ばかりの芸者が、一斉にワーッと泣く。

棺のふたを打つ。

枕団子に樒(しきみ)の花。
さすがに、陰気になってくる。

と、棺の中から、オイ、オイと声が聞こえる。
まだ、死んでいない。
伝次郎は、煙草が吸いたくなった、という。
酒屋から三つ目錐(きり)を借りてきて、穴を開ける。
が、むろん黒檀なので、そう簡単に開かない。
なんとか開けて、一服。

このお通夜というのか、家で馬鹿騒ぎをし、出棺まではもっと
ただたわいのない内容だが、長く細かく、描かれている。
なんということはないのだが、この部分、好きである。

時刻になり、出棺。

幇間50人、芸者も50人。
全員揃いの衣裳。まるでお祭りのよう。

道筋は両側黒山のような人だかり。
列の後から、汚い恰好の人々がわあわあ言いながらついてくる。
伝次郎が施しをした人々が伝え聞いてお見送りをしたいと
集まってきたのである。

明治の頃の東京の大家(たいけ)の旦那の葬列の写真というのを
見たことがあるが、それはたいへんなものである。鳶頭(かしら)などが
先導し木遣りを唄う。棺にお神輿についているような棒が付いて担ぐ。
喪服を着た近親者、親戚、店の者、取引先、近隣の者などなどで
あろう、むろん歩いて付き従うのである。長い長い列になる。

お寺は深川、ジョウコウ寺。
ジョウコウ寺は常光寺でよいのか。
常光寺は亀戸に今もある古刹といってよい。場所も江戸から変わら
ないところ。阿弥陀像が名代の曹洞宗のお寺。おそらくここであろう。

坊さんが30人、指導金の500両も納めてある。
盛大に式を挙げる。
大和尚が引導を渡す。

土葬という設定。
幇間が担いて、墓場まで、まるで神輿を担ぐように、ワッショイ、
ワッショイと揉む。
酔っているから、誰かが足を滑らせ、そこへ棺を放りだした。

「イテッ。おーいてぇ」

伝次郎どうしても死ねない。
とっくに刻限はすぎているが。


ここでまた、切れる。中休み。(中休みから30分)


仕方がないから指導金の内から五十両を借りて寺は出たが
自分の家は人手に渡っている。帰るわけにはいかない。
転々として、二月から、三、四、五、六、七、八、九。
九月も末になる頃には伝次郎、金は使い果たし、ひどい有様。
乞食同然。

ぼんやり、腕組みをして高輪の通りを品川の方へぼそぼそと
歩いている。

この“ぼそぼそ”歩くという表現が好きである。
円生師独特な使い方であろう。

と、呼び止める人がある。これが麹町で幼馴染であった福井屋
という紙問屋の倅(せがれ)の伊之助という者で、たいへんな道楽者。
伊之助は、深川のお弔いにも行ったという。
「そりゃ、ご遠方ありがとう存じまして」
「ふ、ふ。いやだね、仏さまから直に礼を言われたのは初めてだよ。」

伝次郎、今、大木戸んとこで、白井左近に会ったよ、と。

大木戸というのは高輪大木戸。大木戸は江戸の内外を分ける木戸。
高輪大木戸は東海道。四谷にも甲州街道の四谷大木戸があった。
高輪は今も跡の石垣が残っている。

 

つづく

 

 

断腸亭落語案内 その3 三遊亭円生 御神酒徳利~ちきり伊勢屋

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引き続き、円生師(6代目)の「御神酒徳利」。

夢枕に神奈川宿[新羽屋]のお稲荷様が立った。

善「ぅへぇ~。ありがとうございます。ありがとうございます。
  ご遠方わざわざおいでいただきまして。
  お帰りは新幹線で。」
  (笑)

これから。急いで、鴻池善右衛門を呼び
善「よっく、承れ・・・・」

と夢のお告げを完コピしたものをやる。
調べて、戌亥(いぬい)隅、四十二本目の柱を足場を組んで掘ってみると
お告げ通りに、観音様が出た。

これは娘全快の奇瑞であると、米蔵を開いて、貧民に施した。

この慈善の徳か娘の病気が全快をいたしましたので、鴻池では、
一方ならん喜びで、

鴻「ありがとう存じます。これも先生のお蔭でございます。なんなりと望み
  のことがございましたら。」
善「あたしも一軒宿屋の主になりたいんだけど、どうだろう。」
鴻「お安いことで」

これから。馬喰町に宿屋を建ててもらいまして。
今までは一介の使用人であったのに、一軒立派な宿屋の主になった、という。
それまでとは、桁違いの生活になりました。もっとも、桁違いのわけで、
そろばん占いでございます。

と、円生師は下げている。

この円生バージョンは、志の輔師も演っているよう。
大阪から移されたのはさほど古くなく、昭和の戦前のよう。
成立などはよくわからない。噺の雰囲気からしても江戸期と思って
よいのではなかろうか。ただ、かなり細かいところまで丹念に作り込まれて
いる。円生師(6代目)自身が練り上げたものかもしれぬ。

46分。長いが円生師は休みなしで演っている。

この噺、ハッピーエンドで好きなのである。
なかなかよくできている噺ではないか。
筋に特段の破綻もないと思われる。

円生師はこれを昭和天皇の前で口演している。
もちろん、戦後、昭和48年(1973年)。
それでか、かなりこなれた口調の録音が残っている。

さて。
円生師の長編、次。

「ちきり伊勢屋」。
円生師以外でも、志ん朝師、金馬師(4代目・当代)の音があり、
さん喬師もCDを出している。
「御神酒徳利」よりも長いものだがまあ、今もポツポツと演る人もある噺か。

これもよくできた噺である。

時代設定はやはり江戸時代。
平河町に白井左近というその頃名人といわれた占い者がいた。
列をなしてお客がくる。(やはり占いがテーマである。)
前段、メインのお話と関係がない白井左近の逸話のようなものがあるが
今回ここはカット。

一方、麹町五丁目に[ちきり伊勢屋]という質屋があった。
(ちきりというのは、以前の地図記号の銀行のマーク。元々はお金の
重さを量る分銅のことと聞いたことがある。)
[ちきり伊勢屋]といえば江戸でも指折りの物持ち。
長者番付に名前が載るほど。
主人の名前は伝次郎。この男は二代目。
父親は伝次郎が小さい頃に死んで、番頭に育てられ、まだ若く22歳。

番頭は内儀さんを持たせたいと縁談を進めようとしている。
伝次郎はまだ、よいのでは、と思うが、一度、みてもらうように言われ
白井左近を訪れる。

すると。
「あなたは、運がわるい方だ。」と白井左近。
縁談は、もちろんやめた方がよい。

「驚いてはいけないよ。お前さん、死ぬよ。

 来年、二月の十五日、正九つ、必ず死ぬ。」

死相がありありと出ている、と。
年は若いが大きな質屋の主。田舎に田畑も持ち、不自由がない
どころではない。商売もしっかりした番頭が全部やってくれる。
それで不幸というのは、どういうことか。
あなたは親を若くして亡くしている。それはまず不幸というもの。
年がお若いからあなたはご存知ではないかもしれぬが、あなたの
お父さんは伊勢の国から出てこられて、湯屋の三助までしながら
一代で今のご身代を作られた。その間、人がのめろうがなにを
しようがかまわず、身代を増やすことにだけ心を込めた。慈悲
善根というものが毛ほどもなかった。ありようなことをいうが、
あなたの家を[ちきり伊勢屋]という人はいない。麹町名代の
「乞食伊勢屋」と。
その恨みが自然とあなたに報った。俗にいう、親の因果が子に
報うという。あなたは短命に生まれついた。
私は、親切心でいうのだが、あなたはこれから人に親切に、慈善
をしてあげなさい。そうすればあの世にいるお父っつあんも
仏果を得、あなたも今度の世には長生きができるようになる。

伝次郎、大ショックである。

家に帰り、番頭に話しをすると、やはり、という。あなたの
お父っつあんは、ご主人ながら、これが人のすることかと思った
こともありました。名代の占いの名人白井左近のこと、きっと
間違いはないのでしょう。

伝次郎は翌日から慈善を始める。
方々の困っている人をまわって、お金を配る。
ここで当時の貧民街の名前が出てくる。
四谷鮫河(さめが)橋、「黄金餅」で出てきた下谷山崎町。

今日も駕籠に乗って方々まわって、赤坂の田町まできた。
一日駕籠に乗っていると腰が痛くてたまらないので、降りて
麹町までは歩いてもいくらもないので、駕籠は帰す。
喰い違いまでやってくる。

喰い違いというのは、外濠の弁慶橋と四谷見附の間の
喰い違い見附。ちょうど赤坂見附から四谷方向に外濠通りは
坂になっているがその中間。今は赤坂側は弁慶濠で水があるが、
四谷側の濠は水はなく上智大学のグラウンドになっている、あそこ。

今、迎賓館、上智、ニューオータニで人家も店もなく、人通りも
多くはない。夜は寂しい。江戸の頃は迎賓館は紀州家、ニュー
オータニは井伊家、上智大学尾張家。大きな大名屋敷ばかりで
もっと寂しかったであろう。「のっぺらぼう」という短い噺が
あるが、あれも舞台はこのあたり。

寂しいところなので、首くくりの名所といわれていたという。
実話かどうかはわからないが。

伝次郎がここまでくると、二人の女が今まさに木の枝に腰紐を
掛けて首をくくろうとしている。二人を一度に助けるのだから
忙しい。
母と娘のよう。わけを聞くと、百両の金がないと生きていられない、
と。あー、そんなことなら、と伝次郎は持っていたので百両の金を
渡す。お所、お名前を、というが、教えてしまうと陰徳になら
ないから、教えられないというが、どうしてもというので、
名前だけ伊勢屋伝次郎と名乗る。来年二月十五日に子細あって私は
死ぬことなっているので、命日だと思ってお線香を手向けてください、
と別れる。

一応ここで、切れる。ここまで1時間10分。中休み。

 

つづく

 

 

断腸亭落語案内 その2 三遊亭円生 御神酒徳利

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引き続き円生(6代目)師の「御神酒徳利」。

馬喰町の老舗の宿や[刈豆屋]の通い番頭の善六という人が主人公。

商家の番頭というのは小僧、手代から多くはなるが、奉公が終わり
奉公人ではなく、給金で雇われるようになっている。
住み込みのままの場合もあるが、その場合は内儀(かみ)さんを
もらって、所帯を持つことはできない。内儀さんをもらう場合は
近くに住んで、通う。これを通い番頭というのである。

善六さんも煤取りの大掃除をしていた。
水でも飲もうと、台所にきてみると、かの家宝の御神酒徳利が
出しっ放し。不用心である。どこかに仕舞いたいが箱も見当たらない。
とりあえず、そこにあった水瓶の中に入れて、また掃除に戻った。

掃除が終わり、御神酒徳利を出して、お祝いをしようとすると、
見当たらない。誰も知らないという。善六さんも自分で水瓶に
入れておきながら、それを忘れてしまい、存じませんと言ってしまう。

[刈豆屋]の旦那は青くなり、お祝いにもならないというので、
皆、三々五々、帰っていく。
善六さんも橘町の家に帰る。
帰って、一杯やろうと燗をつけようとすると、鉄瓶に湯がない。
水瓶から水をくもうとすると、、、ここで思い出す。
御神酒徳利は、水瓶に入れたのであった。

困った。今更忘れていましたとはいいずらい。
内儀さんにいうと。内儀さんの父親は、占い者(師)。
占いで見つけたことにすればいいじゃない、ということになる。
今日、内儀さんが家の煤取りをしていたら、古い巻物が出てきて
そこには、善六の生涯に、一回というのもなんだから、三回
くらいがいいっじゃない、なんでも占うことができると書かれていた、
ってことにして、お前さんは、そろばんが得意なんだから、
そろばん占いとかいって、テキトウにパチパチやって、
当てればいい、と。自分で水瓶に入れたのだから、もちろん、
当たる。

急いで店に戻り、旦那にいって、パチパチとそろばん占いをして、
御神酒徳利を、出す。円生師匠の口でパチパチといいながら
そろばんをはじく仕草をするのだが(わかるのは音だけであるが)
これがかなりリアルに聞こえる。
旦那は大喜び。お祝いのし直し。柳橋から芸者を呼んで大騒ぎ。

すると。この日上客なので特別に泊まっていた、大坂の鴻池の
支配人(番頭)。
鴻池というのは、江戸期大坂を地盤とする両替商で豪商。
大坂は各藩の蔵屋敷が立ち並び、全国の米の集散地であった。
その米を換金する掛屋(江戸でいう札差)という役割など、鴻池は
幕府を始め、加賀、尾張紀州などの有力藩の公金を扱い、大名家への
金融、大名貸しを行っていた。

その鴻池の支配人、江戸には商用できていたが、十七になる鴻池の
お嬢さんが三年このかたぶらぶら病、この表現、落語ではある種
決まり文句である。「今でいう、気鬱症、神経衰弱のようなもの
でしょう」と円生師はなどと説明する(これは別の噺で、だが)。

このお嬢さんのために、江戸でよい占い者があったら呼んでほしい
といわれてきた。善六の今回の御神酒徳利を占いで探し当てたことを
聞いて、是非、大坂まで連れていきたいという。
もちろん、鴻池なのでお礼は望みのまま、当座の費用、一か月分と
して、三十両先に置いていく、と。

善六さんは、もちろん、御神酒徳利の件は芝居なわけで、お嬢様の
病など占うことはできない。困った。内儀さんとも相談したいといって、
一度家に帰る。

内儀さんにいうと「いいじゃない。向こう入費(負担)で大坂まで
行けるんだから。それに当座の費用ももらえるんなら、是非」行けと。
「お嬢様は水瓶の中に寝てねえ」と善六さん。「いいんだよ。私が
おとっつぁんに占いの本を借りてあげるから、それで、死相の見方を
覚えて、死相が出ていたら、祟(たた)りものがしているから助かり
ませんといえばいいんだよ」と。

内儀さんに言いくるめられて、善六さんは鴻池の支配人と
一緒に江戸を立つ。

江戸から七里、東海道神奈川宿
今の横浜である。
滝の橋の[新羽屋(にっぱや)源兵衛]というこれも鴻池の定宿に
泊まろうとする。(神奈川宿・滝の橋の[新羽屋]というのは実在して
いた宿屋のよう。)
するとまだ明るいのに、戸は閉ざされている。
新羽屋源兵衛の女房に聞くと、十三日に薩摩藩の家来がここに泊まった
のだが、その時に、巾着がなくなった。中にはお金が七十五両、加えて
将軍様への密書が入っていたという。これで主人源兵衛は役所に引かれて
しまった。(薩摩藩からの密書というのは、幕末であれば篤姫の輿入れの
ことでもあろうか。)

それで、これは、善六さん、大先生に占ってもらおう、ということになる。
善六さんは三回は占える。江戸で一回、大坂で一回、もう一回残っている。
善六さん、ピンチである。
占いのお盛物(おもりもの、お供え物のこと)に、大きなおむすびを三つ、
新しい草鞋を二足、提灯にろうそく、、、の用意を頼み、
既に善六さん、逃げ出す算段である。

そのうちに三ツ沢壇林(だんりん)で打ち出す八(や)つの鐘。
すると、この家の若い女中がそっとやってくる。
巾着を取ったのは自分だという。
その女中は近くの百姓の娘で、父親が病、薬を買う金欲しさに取って
しまった、と。その後、主人は逮捕され、家には封印がされ、怖くなって
巾着は隠した。隠した場所は、去年の夏の嵐で裏のお稲荷さんのお宮が
壊れた材木の下。
これを聞いた、善六さん、〆たと。
女中に「よし、わかった。お前は助けてやる。知らん顔をしておけ」
と下がらせ、占いの結果が出たとここの女将を呼ぶ。

また、パチパチと占う。「嵐でお稲荷さんのお宮が壊れたのを放って
おいたので、お稲荷さんが(狐だけに)コンコンと怒って巾着を
お隠しになり、その材木の下に巾着は確かにある」と。
むろん巾着は出てくる。流石大先生!。
また、善六さん三十両の礼をもらう。女中に薬代として五両を渡し、
鴻池の支配人と大坂への道を急ぐ。

大坂の鴻池に着くと、下へも置かないもてなしぶり。
善六さんは、三七、二十一日、水をかぶって断食。
満願の二十一日目、善六さんの夢枕に、百歳を越えているであろう
白髪の翁が立つ。
この台詞が聞き所。
 「ワレは東海道神奈川宿、新羽屋源兵衛方が地守(じもり)、正一位
  稲荷である。」
善「ぅへぇ~。お稲荷様でございましたか。」
稲「その方、さいつ日、孝心なる娘を助け、盗賊の罪を稲荷に塗り付けし
  頓才、驚きいったるぞ。」
善「ぅへぇ~。誠に面目ないことで、なんとも持ってきようがなかった
  もので、お稲荷様のお祟りなどといい加減なことを申しまして、
  どうぞご勘弁を」
稲「いや、さにあらず。新羽屋の稲荷なるものは家に祟りをなし、霊験
  あらたかなりと、その方(ほう)出立の後、参詣人群集をなし、
  宮造営にあいならん。その上、正一位の贈り号を賜り、官位昇進なし、
  文化勲章を賜った」
  (笑)
善「ぅへぇ~。」
稲「よって、その方に、なにかな礼と存ずるが、当家の娘、病気全快を
  祈るが、そちがいかほど苦慮なすとも人間にはあいわからん。よって、
  稲荷、通力を以てその病気根源を知らしめんによって、よっく承(うけ
  たまわ)れ。

  その昔、聖徳太子、守屋の大臣(おとど)と仏法を争いし時、当地は
  難波堀江と申す一面の入江である湖である。そが中に守屋の大臣あまたの
  仏体を打ち込んだのが埋まり埋まって大坂という大都会にあいなった。
  大坂の土中には諸所に仏像、金像が埋もれおる。まった信濃国善光寺
  如来が、阿弥陀池より出現なしという、放光閣(ほうこうかく)の古跡も
  残りおる。
  当家は大家である。戌亥(いぬい)隅の四十二本目の柱を三尺五寸ほど
  掘り下げみよ、一尺二寸の観世音の仏体現れん、それを崇めよ。娘の
  病気たちどころに全快なし、まった当家は万代不易(ばんだいふえき)に
  これあるぞ。夢だに疑ごうことなかれ」
善「ぅへぇ~。ありがとうございます」

 

つづく

 

 

断腸亭落語案内 その1 三遊亭円生 御神酒徳利

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昨日からのつづき、ではあるが、
いい加減、タイトルを変えた方がよいか。

断腸亭落語案内?、、前にも書いたような気もするが。
まあ、よいか。「その1」として再スタートにしよう。

須田先生からも離れ、現代の東京の落語家から音の残っている、
過去の落語家について書き始めた。

三遊亭円生(6代目)、古今亭志ん生(5代目)、桂文楽(8代目)
昭和の三名人から。

私のNo.1は円生師。一般に評価の高い「包丁」。私自身「包丁」
という噺は特に好きでも嫌いでもない。
円生師の一席のものの噺では「寝床」が好きである。

「寝床」は、時代設定は明治あたりであろうか。
大店の旦那が義太夫(三味線と義太夫節という唄。唄の方を
稽古する。)に凝り、店子や店の者に料理など出して聞かせる
という、ドラえもんジャイアンリサイタルの元ネタと
いってよい噺。

前に書いたように、この三人の世代までは、誰かの看板になった噺は
他の人はしない、という不文律があったが、「寝床」は珍しく三人とも
演って、音が残っているレアな噺かもしれない。三人ともよい。

そもそも私はこの噺自体が好きである。
旦那が誰がくるんだ、と聞くのに、店子のそれぞれの事情を聞きに行った
店の者が一人一人の事情を説明する件(くだり)、ここは文楽師。
豆腐やのところでは、がんもどきの作り方を細かく説明を始め「誰が
がんもどきの“製造法”を聞いてるんだ」は肝。

志ん生師は、番頭にサシで聞かせたことがあり、この時、逃げる
番頭を追いかけて、蔵に追い込み、旦那は梯子をかけて蔵の窓から
中に義太夫を語り込み、蔵の中で義太夫が渦を巻いて、番頭は
七転八倒、、。その場でお暇をいただきたいと、いなくなって
しまった。
まさにドタバタのデフォルメ・イリュージョンである。
談志師は三人を混ぜて、ここから文楽師匠、ここから志ん生師匠、
円生師匠と入れながら演っていたのを思い出す。

円生師は子供の頃義太夫で舞台に上がっている経験もあってか、
枕で義太夫の物真似をおもしろく聞かせるのだが、これが秀逸。
一しきり、大袈裟に(?)義太夫の笑い方を演って、最後に義太夫
のことを「馬鹿ですよ。あんまり利口な仕事じゃない」とやっている。
私は、本編よりもここの方が好きかもしれない。

噺は店子は誰もこない。店の者も仮病を使って誰も聞かない。
旦那は怒って、店立て(皆、即刻家をあけてくれ)、奉公人には
暇を出すと言い始める。それはいけないというので、皆、集まる。
旦那はへそを曲げてごねるが、結局始める。
だが、皆、出されたものを食うだけ食って、呑むだけ呑んで
聞きながら寝てしまう。旦那は途中で気が付き「家は宿屋じゃないぞ。
帰っとくれ。」すると、小僧の定吉が泣いている。「番頭、見ろ。こんな
年端もいかぬ子供だが、ちゃんと義太夫の人情がわかるんだ。
え、どこが悲しかったんだ」「あそこでございます」「あそこだ?」
「あそこは私が義太夫を語っていた、床(ゆか)じゃないか。」
「あそこは私の寝床なんでございます」。下がっているような、
いないような。よく考えると不思議な下げである。
以前は、この旦那のようなことをすることを慣用句として「寝床」と
いったものである。

さて。もう一席、円生師で挙げると「盃(さかづき)の殿様」。
あまりメジャーな噺ではないが、これは確か志らく師も円生師と
いえばコレ、といっていた記憶がある。

吉原の花魁と馴染みになった殿様が、国表にいるときに、大きな
盃を足の速い家来に担がせて運ばせ、江戸吉原の花魁と盃のやり取り
をする、という馬鹿馬鹿しいもの。
こんな筋なのでもっと短くできる噺であると思うが、40分もかけて
演っている。このクライマックスが滅法おかしい。抱腹絶倒。
この盃を担いだ家来は走り始める前に「エッサッサー」というのだが
なんとも円生師のこれがおかしい。
頭のいい人なので、もっともらしい顔をして、ともすると上から
目線的な聞かれ方もできるのだが、その人のこのとぼけた味わいが
おかしいものである。このあたり、円生師の真骨頂なのでは
なかろうか。

もう一つ。これ、噺ではない。円生師のお茶の飲み方。
やはり志らく師も好きだといっていたし、奇しくも小谷野先生も
「21世紀の落語入門」

で円生師のお茶の飲み方は書かれていた。志ん生師も文楽師もお茶を
飲んでいる音が入っている録音は聞いたことがないと思うのだが、
円生師は実によく飲んでいる音が入っている。

噺の中の登場人物が飲んでいるようにも聞こえるような、絶妙の
タイミングで噺の中で飲んでいるのである。これが味がある。

志らく師は、談志家元にこれをいったら、そうかい?!俺はそんなこと
思ったことはないけど、といっていたという。
(談志師自身はお茶は飲むが、台詞の途中ではなく切れ目で飲んでいたが。)

もしかすると、我々世代はリアルの円生師ではなく、音だけで聞いて
いるのでこんなことに反応してしまうのかもしれぬが。
ともかく、気にして聞いてみていただきたい、よいお茶の飲み方
である。

さて、円生師といえば、私はなんといっても長編である。
寄席や落語会で長編を聞く機会はかなり少ない。
そういう意味で、CDの威力発揮である。
もっと皆さん聞くべきである。
長いので、なかなか寝付けなくて困っている時には是非。

文楽師は長編も演ったことは演ったが少ない。志ん生師も長編は
あるが、出来不出来が激しい。
やはり、三遊のトップ、ほぼスキなく1時間の噺でも演る。
忙しい現代人は聞きずらいかもしれぬが聞いてほしい。

私は、やはり円朝もの、怪談、因果もの、悪党ものといってよいか、は
暗いので聞かない。だが、長編にも意外に明るいハッピーエンドもある
のである。

まず定番だと思うが「御神酒徳利(おみきどっくり)」。
時代設定は江戸時代。上方種というが舞台は江戸がスタート。
小さん(5代目)師の形も音があり、柳派のものは多少系譜が違う
ようである。
そちらではなく円生師のもの。

日本橋馬喰町の老舗の宿や[刈豆屋(かりまめや)]。
「暮れの十三日。仙洞御所(せんとうごしょ)をはじめとして煤取
(すすと)りというものをいたします」と円生師は説明をする。
セントウゴショという音だけなのでもしやすると別のことかもしれぬが
まあ、仙洞御所で合っていよう。(まさか「銭湯、御所」?。)

“仙洞御所”というのは長いこと上皇がいないので、日本史用語で
あった。今回天皇の代替わりがあってニュースにも出てきたので、
耳にされたかもしれぬ。上皇の住まいを仙洞御所というのである。
煤取り、煤払いは、いわゆる暮れの大掃除であるが、師走の十三日に
するものであった。今も歴史のあるお寺などでしているのがニュース
になる。
上から下まで、煤払い、大掃除をするので“仙洞御所”という言葉
が出てきたのか。

[刈豆屋]は江戸の町ができた頃、三河の国から家康についてきた。
願い出て、宿やを始め、代々江戸の旅籠やの総取締を務める大家(たいけ)。
将軍家から拝領をした銀の一対の御神酒徳利が家宝であった。
この煤取りの日、毎年その御神酒徳利を出し、神棚に供え祝う。

 

 

 

つづく

 

 

 

 

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」~断腸亭考察 その37

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引き続き、今の東京の落語界について。

元来私は談志信者である。小谷野先生

は「立川流真理教徒」と書かれている。自分ではそこまでではない、
とは思っているのだが、素人落語の師匠である志らく師はもちろん、
立川流の師匠連を一番多く聞いてきているのは事実。
亡くなった左談次師は大好きであったし、志の輔師は落語会は行かない
(行けない)がCDはよく聞く。今は行かないか、談春師もよく
聞いたし、ブラック師も贔屓であった。やはり偏っているかもしれぬ。

それで存命で立川流以外の落語家は限定した人しか聞いていないのは
事実かもしれぬ。
また、自分が多少でも落語をするせいであろうか、自分より年下の
落語家の噺を聞くというのは、やはり多少ハードルがあるのである。
よっぽど認めないとだめ。

小三治師を書いておかねばならないだろう。なにしろ人間国宝
落語協会会長。独特のとぼけた雰囲気はおもしろいし、上手い、
とも思うのだが、どうしてもこの人は好きになれないのである。
やはり談志家元と比べてしまっているのかもしれぬ。兄妹弟子であり、
対照的。陰と陽というのかご本人も談志師との違いを意識していた
はずである。(談志家元の方はわからぬが。)談志信者であった私は
今更、小三治師を聞きに行けない、そんな屈折したところもあるかも
しれぬ。公平ではないのは承知しているが、どうしても、批判的な
頭でみてしまう。

それ以外というと、やはり少ないが五街道雲助師、柳家喬太郎師は
時折は生の高座も聞くし、CDも聞く。

雲助師は談志師亡き後、数年前に友人に誘われて知らずに個人の会に
行ってみて、驚いた。
派手ではないが、実に丹念に、そしてきれいに、長い、重い古典も
演じられている。この世代ではピカイチであろう。ただ、地味。

喬太郎師も談志師後、聞き始めたが、ファンといってよい。
志らく師もそうだが喬太郎師は1963年生まれで、私と同い年である。
同じ時期に東京で育ったからか、感覚、センスがかなり近い。
細かいことをいうと若干口跡がよくないところがあるが、落語の
基本的な技術は高い。新作も演る。喬太郎師は「名人長二」なども
演っているが、新作のできる人は、このような円朝ものの長い噺も
比較的簡単にできるのではないかと思っている。(もちろん志らく師も
演っていないと思うができるだろう。)また、なにより喬太郎師は
華がある。落語家、華がなければ、しょうがない。
枕ばかりおもしろいともいえるのだが、それでもよいではないか。
「ちゃんとした古典が聞きたければ他のCD買え!」と喬太郎師も
叫んでいた。それでよい。過去の名人のものも含めて落語ファンは
聞けばよい。なんら問題ない。「現場主義」から頭を切り替えても
よいのではなかろうか。

この人も書いておかなければいけないか。
責任ある立場なので。
柳亭市馬師。現、落語協会会長である。1961年生まれ。私の二つ上。

会長になるまで、不勉強ながらこの人自身を知らなかった。
もちろん聞いたこともなかった。TVにも出演るようになったので、
聞いてみてもいる。確かに、上手い。特に、いわれているように
歌がうまい。そんなに以前から有名であったのか。
まあ、小さん師以後、円歌師、馬風師、小三治師ときてその後である。
小三治師の考えであったのであろう。
上手けりゃいいのか、であろう。まあ、そういうことか。

その他では春風亭小朝師、林家たい平師、芸術協会では三遊亭
小遊三師、春風亭昇太師、といったあたり。上手くて、おもしろく、
メディア露出も比較的多い(人気もまあ、あって)のだが、足を
運びたいという人はいない。

結局、談志家元亡き後、行くところがない、落語難民?。
そういうことかもしれぬ。

既に東京落語界は変わっているし、これからも変わっていくだろう。
ただ、そこまで悲観もしていないのである。

下の世代も多くはないが、挙げてみよう。
桃月庵白酒師。1968年生まれ。

この人、かなり上手い。古典。緻密である。さすがに雲助師の弟子。
口跡がよい。声もよい。枕もおもしろい。
キャラもよい。CDだがよく聞いている。
この人は、わざわざ足を運んでもよいかと思える落語家である。

春風亭一之輔師。1978年生まれ。
メディアにもそこそこ出演る。坊主頭の噺家然とした佇まい。
上手い、という噂でCDで聞いてみた。
確かに、上手いのだが、なにか、もう一つ。
なんであろうか。小三治師ではないが、ニンなのだろうか、
ちょっと、引いたようなところ。
これが鼻につく、のかもしれない。

落語家ではないが、この人にも触れておかなくてはいけない。
神田松之丞さん。
今、知らない人は少なかろう。来年伯山を襲名し真打とのこと。
1983年生まれ、35歳。談志ファンを公言しているがあえて、
講談に入った。
TBSのラジオ寄席に出演るようになり、聞いていた。
確かに、この頃、上手かった。
今、チケットの最も取れない講談師。出演すぎか。
CDなどを聞いてみると、本(噺)によっては、だいぶアラが
目立つように感じる。若いので仕方がなかろう。これからも
変わっていくはず。勢いがあり、声、口跡がよいのはなにより
強みであろう。頭もよく、今後がたのしみ。

さて、さて、私にとっての東京落語界はこんな感じか。
なん度目かの落語ブームとかで「渋谷」など若い女性も聞きに
きているという。今回書いてきたことも含めて、江戸(東京)
落語の噺、コンテンツは時代が変わっても、世代が変わっても、
続いていくだけのクオリティー、普遍性を持っていると信じて
いる。もちろん過去、百年以上、談志師までの長い長い名人達の
積み重ねがある。若手も努力をしているのであろうし。
江戸(東京)落語は、変わりながらも続いていける。
希望的観測でもあるが。

そんなことで、現在、存命の落語家のことはここまで。

折角なので、過去の、音の残っている落語家達も書いておこう。
書いているように、過去の音も含めて、今の東京(江戸)落語と
いうべきだと思うからである。(存命の落語家は過去の師匠達と
戦わなければいけない。たいへんではあるが、意識して然るべき
であろう。)

信者なので、談志師は後に回そうか。

昭和の3名人と書いている三人から。
むろん、三遊亭円生(6代目)、古今亭志ん生(5代目)、
桂文楽(8代目)である。

今も寝る前、聞きながら寝ているのはこの3人。

三人三様、好きなのだが、私のNo.1といえば円生師である。

三人の中ではこの人が一番賢かったであろう。
三遊派トップとして、長い人情噺も抜群の聞きごたえ。
かといって、軽い噺も、不思議なおかしみがあって秀逸。

また持ちネタの数も、志ん生師も多いが、この人も多い。
須田先生なども書かれているが、世間的な評価は美人局
(つつもたせ)の噺で唄が入る「包丁」が高い。

 

 

もう少し、つづく

 

 

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より