浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その10

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円朝師。

明治新政府の意向、寄席管理、民衆啓蒙、に沿って、教導職になり、
出世美談「塩原多助一代記」を作り、歌舞伎にもなり、明治天皇の前で
口演、修身の教科書にも載る。

自ら落語家は“賤業”などともいい、明治初年には“猥褻”などとも
いわれていた落語、落語家の地位向上を果たす。

40代の中頃には「落語家中の親玉」といわれるようになる。
当時、独特の言い方であると思うが、まあ、押しも押されぬ
落語界のドンといったところか。

比較的知られていることと思うが、円朝は時の元勲との親交があった。
それもそこそこ密接なものであったようである。
視察旅行に同行していたり。

明治天皇の前での口演も井上馨邸でのこと。
山縣有朋との交流も確認されている。

著名人、名士、お大尽が芸人を宴席に呼ぶことの延長と考えられなくも
ない。だがそれはそれとしても噺家の地位向上を表したものであることは
間違いなかろう。

しかし、で、ある!。

こうした円朝池田弥三郎など国文学系の研究者から『「文明開化に妥協
した」として切り捨てられ』た評価がされてきた。

正直いうと、私などもこういう印象を持ってきたのは事実である。
どちらかといえばこれは後世の評価が厳しいということか。

落語というのは、庶民のもの。
そんな俺たちを裏切って、明治新政府薩長の田舎っぺい達に
尻尾を振って、ってなもんである。

しかし、須田先生は「私はそのような立場はとらない」という。

円朝は政府の“呼びかけ”に“振り向き”覚醒した時点で留まって
いたわけではなく、文明開化という状況(構造)にあわせ自己の芸を
変容させ、さらには噺家・芸人の「悪弊」までも「一洗」し、
自己実現を図っていったのである。円朝という主体の転変である。」と。

これだけでは、なにをいわんとしているのか今一つわからないと思うが
ともかくも、須田先生の研究は円朝の新評価、新解釈ということになろう。

円朝自体は今も国文学研究ではなく落語界では大円朝と呼び、わるく
言うことはまずないと思われる。あるいは噺家に近い演芸評論家の
ような者からも同様であったのではなかろうか。
落語家にとっては円朝は、ある種、不可侵の神ではある。

元勲との付き合い、文明開化に魂を売ったということは
皆、意識し苦々しく思っているが、あえてそこには触れない、
というようなところもあったのではなかろうか。

例えば「文七元結」という円朝作品がある。

「芝浜」とは違い、円朝の後年の作品であることは
はっきりしている。明治22年(1889年)円朝51歳。
円朝は62歳で亡くなっている。)新聞連載が残っている。
最初に高座に掛けられた年月日は不明のよう。

文七元結」は歌舞伎にもなっているし、今でも多くの
落語家によって演じられるし、人気もある。
私も好きな噺である。

談志家元もよく演っていた。
だが。
家元はこの噺はどうしてもわからない、と
演じるたびに、高座でいっていたのを私も聞いている。

家元のいう落語の料簡「落語とは人間の業の肯定である」との考え
からすると娘が自ら吉原に身を沈めて作った金で博打の借金を
返し、生活を取り戻してくれ、という金を、身投げをしようとしている
見ず知らずの若者にくれてやる、というのは、あり得ないと。

志ん生は「俺の娘は、吉原にいてもおそらく死んだりはしない。
だけど、オメエは、死んじゃうっていうから、くれてやるんだよ」
という。

確かに、一応はわかるが、これは落語の料簡(りょうけん)
ではない。そんな奴はいない。
こいつは、昨日まで博打に狂っていたはずではないか。

教導職の使命からであろうか。

「塩原多助」は円朝ライフヒストリー的にもいかにもそういう
文脈で作られたと考えやすい。
文七元結」は「塩原太助」から11年も経っている。

さて、どういうことなのか。
これを解き明かすことが、円朝の理解につながるかもしれぬ。

さて、さて。
そんなことなのだが、もう少し丁寧に円朝師、円朝作品を考えて
みなければいけない。

円朝作品というのは、いったいどのくらいあるのか。

数だけではなくバリエーションも広い。
初期に売れた芝居噺、それから「真景累が淵」「怪談牡丹灯籠」
などの怪談噺、「塩原多助」のような伝記といってよいような噺。
文七元結」のようないわゆる人情噺。海外のものを噺にした
「名人長二」のような翻案もの。
その他「死神」「心眼」「鰍沢」「黄金餅」といった前記分類に
入らない噺、落語。
(この分類は永井啓夫「新版 三遊亭円朝」によるが、分類すること
自体は便宜的なもので本質的な意味はないと思う。「死神」は入れるので
あればむしろ、翻案ものに入れたいように思う。)

今回私も須田先生以外にも資料にあたって「文七元結」に「黄金餅」も円朝作品
であると確認した。数ある江戸落語の中でも不朽の名作であると私は思う。
今も多くの落語家が演っている。やはり流石といってよいだろう。
円朝神説は間違っていなかろう。

ともあれ。

「芝浜」のようにはっきりしない、怪しいものもあるため、
正確な数はよくわからないが、須田先生は「約70点」としている。

では代表作というとなんであろうか。

先に述べた「塩原多助一代記」もその一つにはなろうが、
文七元結」?。いや、そうではない。二つ。

落語ファンの方であれば、お分かりになろう。

そうである。
真景累ヶ淵」と「怪談牡丹灯籠」。

円朝といえば、この怪談長編二作品を抜きには考えならなかろう。

そして、須田先生の論もこの二作品の研究なくしては
むろん、成り立たない。

どちらも作られたのがいつなのか、というのがはっきり
わかっている。円朝作品の特徴であろう。
真景累ヶ淵」は安政6年(1859年)円朝21歳。「累ヶ淵後日の怪談」
という名前で。「牡丹灯籠」は文久元年(1861年)23歳。

どちらも江戸期で20代初期。
ちょうど、師匠二代目円生と絶縁したあとである。

 

 

 

 

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 


つづく

 

 

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その9

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ご一新になり、明治初期の新政府の寄席規制。
これに伴う、円朝師の素噺への転向などについて書いてきた。

江戸期の寄席や噺そのものが一体どんなものであったのか。
“薄暗い”、“猥褻”なんというのがキーワードとして出てくるが、
実際の史料は須田先生の研究からは出てこない。

おそらく文字に残っているのは、やはり少ないのであろう。
ほぼ、ないのか。
私自身、ここが一番知りたいところなのだが。
(明らかにする方法はないのであろうか。)

ともあれ、こういう規制が出てきているということは
少なくともそう理解し、それは国にとってよろしくないと考える人が
新政府に多くいたということであったのであろう。(ようは薩長の武士
ということなのか。)
また、須田先生の研究では範囲外であるが、歌舞伎も明治になり、
寄席同様新政府の規制、干渉の手が同様に入っている。

なにかというと「演劇改良運動」である。
新時代、文明開化にふさわしいものに変えていこう。鹿鳴館時代に
欧州にオペラがあるように社交の場にふさわしく、諸外国の公使ら
にも見せられるものにしたい。そんなこと。
それから、落語同様、忠孝など、お国のためになることを観客である
大衆に教えるコンテンツにしていこうというあたり。
「明治5年(1872年)歌舞伎関係者が東京府庁に呼ばれ、貴人や外国人が
見るにふさわしい道徳的な筋書きにすること、作り話(狂言綺語)を
やめることなどを申し渡された。」(wiki

福地桜痴なんという者がいた。
幕臣でジャーナリストから、改良委員などになり、
歌舞伎脚本なども書き始め、歌舞伎界の大立者から衆議院議員にまで
のし上がっていく。黙阿弥翁と対立というのか、黙阿弥翁をいじめた、
というのか。まあ、私の以前からの印象は、胡散臭い人物。

明治になって落語や寄席、円朝師がどうなっていたのかも
さることながら落語よりも古く、格上、江戸町人文化の粋、
歌舞伎がどうなっていったかも、合わせて考えて然るべきだが、
しばらくは、須田先生のテキストに沿って円朝と落語を追っていく。

さて。
教導職というものをご存知であろうか。
須田先生のこの研究を読むまで、不勉強ながら私は知らなかった。

テキストには以下のようにある。
「政府は明治5年(1872年)3月、教部省を設置、4月には「敬神愛国・
天理人道・皇上奉載」を旨とする「三条の教則」を出した。そして
この教訓を民衆へと伝導する役目として教導職が設置された」。

明治6年円朝はこの教導職になっている、のである。

教導職なるものはwikipediaには下記のように書かれている。

「大教宣布(神道国教化)運動のために設置された宗教官吏である。
明治5年(1872年)から明治17年1884年)まで存続した。」

わずか12年で廃止されているという制度である。
天皇を頂点とする国家神道を国民に布教する、というような意図で
あったろう。
当時の廃仏毀釈運動と同じ文脈のようにみえる。幕末の尊王攘夷運動
思想的裏付けに神道があったわけだが、そうした者が大いに運動し、
明治政府にも志士上がりの信奉者が少なからずいたのであろう。
だが、明治政府はさすがに、というべきか、政教分離の観点から
ほどなくやめたわけである。
ほとんどはやはり、神官や宗教家、僧侶などがなっているようである。

落語家の円朝がどういう経緯でこの職になったのかはよくわからない。
須田先生も書かれていないようである。おおかた明治新政府のどこか、
誰かから、勧められた、まあ、ほぼ命令であったのかもしれぬ。

明治10年(1877年)円朝桂文治(六代目)らと申し合わせ、
  
  落語家は賤業なれど教導職とも呼るゝ事なれば、是までの悪弊を
  一洗して五音の清濁や重言片言を正し(中略)、必ず一席の内に
  婦女子への教訓になる話を雑へる様にしたい。


 と語ったという。」

円朝は、むろん国家神道の伝道者ではなく、当時新政府が望んだような
正しい内容を正しく喋り、聴衆へ教訓になることを伝えるということ。
円朝の教導職とはこういう内容であった。

明治9年(1876年)から円朝38歳。上州・野州(群馬・栃木)方面に
「塩原太助の物語創作のため」現地調査として長期旅行に出る。
「塩原多助一代記」が完成したのは明治11年1878年)。大評判となる。

円朝作品で歌舞伎になっているものはいくつかあるが、これも歌舞伎に
なっており、2012年国立で観ている。

初演は明治25年(1892年)東京歌舞伎座。脚本化したのは黙阿弥翁。
歌舞伎の地位は落語よりもずっと高い。噺家よりも歌舞伎役者が上。
これは今もそうであろう。
落語から歌舞伎に移されるというのは、まさに逆転現状である。

落語では、五代目古今亭志ん生師の音がある。

余談だが、実は志ん生師は芸風からも、一般にはあまり意識されていない
と思うが、三遊派系なのである。
それでといってよいのか、こういった三遊派の長い噺も演っている。
NHK大河「いだてん」で放送されていたが、師は四代目橘家円喬ということに
なっている。この人は円朝後、明治の落語界では名人といわれた人。
円喬は円朝直弟子で志ん生自身が生涯自分の師匠であるといっていたが、
事実は同じ円朝門下だが二代目小円朝が入門当時の師匠という。もっとも、
志ん生師は師匠をなん度も変えており、講談師になったことさえある。
師匠が誰であったのかは本人にはどうでもよいことだったのかもしれぬ。
円喬は心の師匠というところか。)

塩原太助というのは江戸後期の実在の人物。
上州から江戸に出て、苦労をして一代で炭を商う大店を築いた。

「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」

などともいわれる立志伝中の人。
史実の名前は太助。落語も歌舞伎も多助を使っている。

ストーリーをざっくり書く。
継母(ままはは)のいじめに耐えかね、いつかは戻り家を
再興しようと念じ、故郷を捨て、つてもなく、無一文で江戸へ出る。
江戸へ出て、神田佐久間町の炭問屋に拾われ、奉公を始める。
炭俵を担いで陰日向なく、身を粉にして働く。その働きが主人に認められ、
暖簾分けを許され、本所相生町に同業の炭屋を開く。しかし、一家の主と
なっても自らも炭俵を担いで働く。間もなく、本所でも名の通った炭屋となる、
という、出世美談。

円朝師の噺の締めくくり部分。
「正直と勉強の二つが資本(もとで)でありますから、
皆様能(よ)く此の話を味(あじわ)って、只一通りの人情話と
お聞取りなされぬように願います。」

継母のいじめに耐え、裸一貫で財をなした。
その商いも「正直と勉強」。

教導師になり「見てきたような嘘」ではなく実際に太助の生地へ赴き、取材し、
美談噺を拵えた。

「塩原多助一代記」は歌舞伎にもなっているがこれだけではない。
明治24年(1891年)なんと円朝はこの噺を明治天皇の前で口演するまでに
なっている。そしてさらに明治33年(1900年)には修身の教科書に載る。
(修身は、戦前の道徳にあたるもの。)

まったく考えられないではないか。戦後の天皇ではない。
“薄暗い”、“猥褻”といわれた落語である。
それが修身の教科書である。
落語家と落語の地位向上を絵に描いたようなことであろう。
まさに教導職の面目躍如。

「塩原多助一代記」よい噺であるが、人情噺というにも趣が違う。
一言でいえば、もちろん、落語らしくない。

 

 

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 


つづく

 

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その8

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さて、円朝師の個人史。

明治元年(1868年)となった。
「ご一新」。
明治維新、で、ある。

ただ、そうはいっても庶民の生活は続き、寄席は毎日幕を開け、
円朝も高座に出演続けている。

また引越し。
ところは、浅草旅籠町一丁目代地。
今も代地町会があるが、柳橋一丁目、総武線の南。

ご一新を機に、それまで磨いてきた、また自らが売れた種である
芝居噺から素噺(すばなし)一本にする。
芝居噺の道具一式は、弟子の円楽に譲る。
円楽には、三代目円生を継がせる。

素噺というのは、ここでは道具などを使わないノーマルな噺
という広い意味と考えればよいか。

また、この頃、妻帯をしている。
(ただ、流石に売れっ子噺家。さらに二人の相手がおり、
そのうち一人とは、既に子供まであったようである。)
また、明治4年1871年)には父、円太郎が亡くなっている。

なんとなく、身辺が改まっていくよう。

ご一新になり、いつまでも寄席もそのまま、ということはなかった。
明治3年(1870年)東京府は一つの取締り令を出している。

 市中寄場之義、軍書・講談・昔噺等に限、浄瑠璃人形取交(とりまぜ)

 又は男女入交(いりまざ)り物真似等いたし候儀(そうろうぎ)

 不相成旨(あいならぬむね)、去巳(さるみ・昨年の巳年)十月中

 及び布告置候処(ふこくおきそうろうところ)、近来猥(みだり)に

 相成候間(あいなりそうろうあいだ)、向後堅相守候様(こうごかたくあい

 まもりそうろうよう)、年寄共厚心付可申事(としよりどもあつくこころづく

 べくもうすこと)
                         明治三年 東京府布達

寄席の演目は講談、落語などに限り、人形と浄瑠璃を取り混ぜたもの、
また、男女が入交じった物真似が禁止されている。
寄場というのは、ヨセバと読むが、江戸からの呼び名で、寄席のこと。

前年にも、史料は確認できぬようだが、同じような通達が出されており、
また、特に罰則規定もないようであり、守られていなかった可能性も
示唆される。ただ、庶民のささやかな娯楽にも新政府は幕開けすぐの段階で、
なにか物申すことを表明したことに意味があろう。

明治5年(1872年)には寄席の免許(鑑札)制と課税が決まる。
税は芝居の劇場に比べれば安かったようだが、意に反するところは免許の
取り消しもあり、管理監督するぞ、ということになる。

次に、明治6年1873年)には、東京府知事大久保一翁名で
狂言ニ紛敷(まぎらわしき)儀は、一切不相成(いっさいあいならず)」
とした取締令を出している。

狂言は芝居(歌舞伎)のこと。寄席では歌舞伎芝居のようなものを
してはいけないとのことである。

亡くなった六代目円生師などは、寄席で芝居をしてはいけなかった
ということを話しているが、このことであった。
また明治政府は『「下等社会」=民衆世界の(文明開化への)
教導に寄席を利用』することを考えた、という。

また、明治4年1871年邏卒(らそつ)という名前で
お巡りさんが生まれる。明治7年(1874年)邏卒は巡査と改名され、
寄席も巡査に監視させることになる。

また、これは明治10年になるが「猥褻(わいせつ)ノ講談」の
禁止という項目、また「灯火消シ客席ヲ暗黒ニスベカラズ」が
取締規則に加わる。

「猥褻の」というのは、エロでよいのか?、具体的にどのようなものか。
現代に残っている落語で露骨な性描写のあるものはほぼないと思われる。
吉原など遊郭が舞台のものでも性描写は演じない。
これはその影響なのか。

バレ噺、あるいは艶笑落語というようなもの。
まあ、品のないものは、いくつかある。
例えば「疝気の虫」。以前は疝気といって男の睾丸に虫がいると
いわれていた病があった。この虫は蕎麦が好きで、蕎麦の香りでおびき出し
内儀(かみ)さんに移し、“隠れるところ”がないので一網打尽にする、
という。志ん生師が演り、談志家元が好きであった。品はないが抜群に
おもしろかった。あるいは「錦の袈裟」「鈴振り」「金玉医者」
、、、「蛙茶番」あたりも入るか。

基本、寄席興行は夜の方が多くお客は男。
むろん、ろうそくのみの照明でただでさえ薄暗かった。
エロでなくとも怪談噺で、今もやるが、演出上真っ暗にすることは
通常のことであった。
真っ暗にしてはいけないという規則である。

残っていないが幕末は、エロでもっと露骨なものも演じられていた
と考えるべきであろうというのが須田先生の見解のよう。

明治16年には寄席にかけられる演目は、講談、落語、浄瑠璃
唄、音曲、手品、繰人形に限定される。

規則が出されるたびに、細かく詳細に渡っていく。

ちょっと、おもしろいのは外国人芸人の出演禁止である。
ご存知の方もあるやに思うが快楽亭ブラック師の初代(明治
10年代~20年代に活躍)に当てた規定があったようである。

ともかくも新政府は「国家に益なき遊芸」をどうでもよいもの
として放っておいたのではなく「積極的に干渉し統制し」ていった。

そして文明開化という国家目標のため「国民教導を企図する
(ために寄席を利用するという)明治政府の“呼びかけ”に
対して積極的に“振り向いた”噺家三遊亭円朝であった」
というのである。

円朝師の代表作といえる「累ヶ淵後日の怪談」(明治になり
真景累ヶ淵」と改題)」は安政6年(1859年)完成、「怪談牡丹灯篭」は、
文久元年(1861年)。どちらも幕末、円朝師20代。
また、書いているように道具や背景を使った芝居噺で売れた
ということもある。

歌舞伎芝居でも、鶴屋南北あたりからの江戸後期から幕末にかけて怪談
が流行り、あるいはケレンなどというが、早替わり、宙乗りといった
派手で観客を驚かせる演出が流行した。ドラマ「仁」にも登場していたが
幕末から明治に活躍した美形の女形三代目沢村田之助宙乗り中に落下、
それが元で脱疽になり四肢切断になっても舞台に出続けたなんという
凄まじい役者もいたほど。
お客を呼ぶためには、できることはなんでもするというのが
基本姿勢であった。
歌舞伎興行というのは、今もそうだがお客をどうやって呼ぶのかは
むろんのこと死活問題。江戸期、千両役者などというが大看板、
座頭級の役者は本当に年、千両の給金と、べら棒に高かった。入場料も
庶民ではちょくちょく行ける金額ではなかったのである。芝居が
当たらないと潰れてしまう。実際に不入りで経営が傾くことはよくあった。
皆、必死であったのである。

このあたりも一連の風潮といってよいのだろう。

先に、道具を使った噺を封印し、素噺に変えたと書いた。
円朝師のこうした動きはまず、これら明治政府の初期の
寄席統制と歩調を合わせていた。

 

 

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 


つづく

 

 

 

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その7

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円朝師の個人史を続ける。

師匠の二代目三遊亭円生との確執を越えて
芝居噺でさらに売れた。

文久元年(1861年円朝23歳。浅草の表店(おもてだな)に転居。
翌年、寝込んでいた師円生はついに他界。同年、慕っていた兄の玄正
(永泉)も亡くなる。

いよいよ、幕末も大詰めになってきた。

元治元年(1864年)、水戸浪士らによる天狗党の乱が起きている。
関東、筑波山での挙兵である。

円朝は、この天狗党の乱について明治になってからの作品、
蝦夷錦古郷の家土産』の中で多くの分量を当てている。
「これは今更申さんでも。皆さんご案内で御坐いますから」
といっており、常陸筑波山で距離はあり、直接の影響は
江戸市中ではないのだが、江戸の人々は心配をしていた。

これ以前の討幕にまつわる騒乱は京を始め、西国であり、
江戸の人間にとっては、無縁のことであったことが裏付けられる。

一方、前後するが政局の方は、井伊大老の暗殺の桜田門外の変
和宮降嫁、老中安藤信正暗殺の坂下門の変。尊王攘夷の風が吹き荒れ、
幕府の押さえが効かなくなってきたことはもはや隠しようがない。

文久2年(1862年)の薩摩藩によるイギリス人の無礼打ち、
生麦事件の発生。これにより江戸湾にイギリス軍艦が入り威圧。
列強との戦争の危機が直近のものになってくる。
幕府は賠償金を払い、この危機はなんとか収める。

安政6年(1859年)の横浜開港から始まった物価高騰がさらに
加速。「江戸市中では、不穏な空気が醸成され、多くの人びとが
困窮しているときに、異国人と交易して利を得ている商人には
天誅』を加える、という貼紙が日本橋をはじめ各地に貼りだされた。」
そして文久3年(1863年)10人もの商人が殺されたという。
江戸も騒然としてきた。

さて、円朝師。
元治元年は26歳。念願であった両国の一流の寄席「垢離場(こりば)」で
真打となる。「垢離場」は500人も入ったという。以後慶応3年(1867年)
まで3年間、昼席に出演し続け、文字通り大看板となっている。弱冠26歳で
大スターである。弟子も増える。
17歳の頃、初代円生の墓前に誓ってから、9年。
念願であった三遊派の復興が叶ったといえよう。
早い。
騒然とした江戸であるが、無関係のように円朝は順調な出世を
している。お客もちゃんときていたということであろう。

ちなみに先日の黙阿弥作「青砥稿花紅彩画(白波五人男/弁天小僧)」は
文久2年(1862年)江戸市村座の初演である。騒然とした江戸でも
やはりちゃんとお客はきていた。まだまだ、余裕があったといって
よいのかもしれぬ。

元治元年、京で長州藩により禁門の変が起き、第一次長州征討。
江戸では幕府は「江戸中の火消し7000人を集めて」長州藩
上屋敷中屋敷を破却している」という。これ、知らなかった。
やはり、この頃は上方ばかりに目がいって、江戸のことは
歴史の表には出てこない。長州征討は「物価高騰に拍車をかけ、
庶民の困窮は深ま」った。
ただ、こんなことも明治になった円朝師の記憶には強烈には
残っていないようである。

慶応2年(1866年)、あの坂本龍馬の周旋で薩長同盟が締結される。
ここから第二次長州征討。だが、ご存知のように幕軍は惨敗。
「この戦争によって江戸では再び米価高騰」。第一次もそうだが、
戦争により米が必要とされ、買い占めなどもあってのことであろう。
5月には品川から芝で、質屋、米屋、酒屋などが打ち壊しにあい、
また、9月には日本橋の豪商も打ち壊されている。
ただこれも円朝の噺には登場しないという。

慶応3年(1867年)。いよいよ討幕活動に火がついてくる。
薩摩藩による、京とは別に、関東での後方攪乱作戦である。
これもあまり知られていないか。

薩摩藩は浪士・豪農・任侠などの多様な人々を集め、関東各地に
おいて幕府を挑発した。」浪士隊は下野、出流山(栃木市)に挙兵。
ただこれは「座頭市」などにも登場する、あの八州廻り、こと、
「関東取締出役」を総大将とする幕軍に敗れて「40名余りが佐野川原で
処刑された。」
また、これと並行して薩摩藩は浪士を指揮し江戸市中での
テロ活動を開始。幕府は庄内藩などに三田の薩摩藩邸焼き討ち命じ
浪士を殺害、捕縛。
薩摩のテロ行為によって「強盗と殺人の渦中となった江戸は大混乱
に陥った。」
このあたりのことは円朝周辺の記録にも直接名指しでは出てこないが
『人心おのずから穏やかならず』という記述はあるよう。

慶応4年正月、いよいよ鳥羽伏見の戦い開始。

幕軍は敗れ慶喜は逃げ出し官軍の東征が始まる。ほどなく官軍は江戸に
到達し江戸無血開城が4月21日。「5月14日、円朝日本橋瀬戸物町の寄席
伊勢本へと向かう途中、柳橋界隈にさしかかると、『官軍』によって道は
封鎖されていた。」

いよいよ上野戦争である。
直接、円朝や弟子たち、江戸庶民に切りかかる、鉄砲を発砲すること
はなく、浅草見附(浅草橋)が封鎖されて通れないという程度であった。
実際に戦闘が始まると「浅草見附の橋詰に至ると、青竹で囲いをした中に、
幕臣の『血汐に染まりたる生首』が晒してあるのを目撃する。」
ただ、まだ多少他人事。

しかし、明治になってからの「八景隅田川」という円朝作品には
上野戦争を回想した、こんなセリフがあるよう。

「やっぱり上野の火で御徒士町辺はみんな焼けたとねえ、なるほど
 代物は皆な分捕になった、そうだろうね、あの辺は酷かったそうだね」

上野の山。寛永寺は別名瑠璃殿といって、瑠璃色でそれは見事なもの
であったという本堂である根本中堂はじめ大伽藍は皆、まる焼け。
官軍は、今の中央通りの角、京成上野駅前のヨドバシカメラあたりに
あった木造三階建ての料亭から西郷さんの銅像あたり、さらに奥の
瑠璃殿など寛永寺伽藍にアームストロング砲をガンガン打ち込んだ
なんというのを、司馬遼太郎先生の「花神」であったか、出典は忘れたが、
読んだ記憶がある。

御徒町あたりは、名前の通り“御徒士”など幕府下級役人の組屋敷が
主でこれに寺社と町家。大きな武家屋敷はそう多くはなく、どちらかと
いえば、小さな家屋が密集していたところといってよいだろう。
これら御徒町あたりもみんな焼けて、略奪も起きていたということである。

上野戦争彰義隊はあっけなく1日で敗れている。
むしろ、戦後の方が円朝ら江戸庶民にとっては、有形無形の記憶には
残っているようである。「生き残った彰義隊士(旧幕臣)は、ちりぢりに
なって江戸市中に逃走、これを『官軍』が討伐していった。」

「もしこの戦争が長引いたならば『江戸市中も修羅の街と成り、夫(それ)
こそ市民塗炭に苦しまんに』(「手前味噌」これは円朝師の関係のもの
ではなく、やはり幕末から明治に生きた歌舞伎役者三代目中村仲蔵
自叙伝。)とある。」

ちょっとわかりずらいのだが「修羅の街」というのは官軍の兵士や士官が
江戸の町々で探索活動というのか、家々を改めるような落武者狩りをし、
実際に切り合いが起きたり、していたのであろう。これで市民はそうとうに
怖い思いをしていたと考えてよいだろう。

また、一方で、天狗党の乱後、江戸の治安悪化が表面化した頃から富裕な
商家などは「別荘を(向島など郊外に)建て私財を持ち出し疎開し始める
様子」も先の「八景隅田川」には描かれている。
疎開などの余裕のない円朝などの「江戸の庶民は内戦の渦中に」残らざるを
得ず「安全地帯にいることができた裕福な人々(非当事者)の安易な同情を
処断している」という。

 

 

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 


つづく

 

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その6

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円朝師の人生を須田先生のテキストに沿って振り返っている。

おもしろいし、幕末期の江戸庶民の状況が生に近い形で
伝わると思うので、細かく書かせていただいている。

円朝師のティーンエイジ、噺家修行中。
17歳、安政2年(1855年)の頃。

円朝師の伝記類には必ず出てくるエピソードがある。
浅草の金龍寺にある初代円生の墓参りに行き、三遊派再興を
誓う、というもの。

落語界をご存知でない方のために少し説明をすると
江戸落語の落語家の系譜は大きく分けると、今も二派に分かれる。

三遊亭円生をトップとする、三遊派
もう一派は、柳家小さんをトップとする柳派(やなぎは)。

前に書いたように、江戸落語が始まったの天保期、
三笑亭可楽三遊亭円生林家正蔵(各初代)の三人が
草分け。
初代円生門下には200人以上の噺家がいた。
それが、円朝が修行当時、二代目円生には円太郎、円朝父子を入れても
3人しか弟子がいなくなっていた。
(この頃はまだ柳派には小さんという名前はなく、麗々亭(春風亭)
柳橋春風亭柳枝あたりが柳派のリーダー格であったようである。)

それで、初代の墓の前で円朝は三遊の復活を期するのである。
同時に師匠円生と兄と相談し、円朝と改名する。

須田先生も書かれているが、意図的に円生の名前を
継ぐことを避けたのではないか、といわれている。

どうも二代目円生という人は、だめ、であったのは
間違いなかったよう。
弟子の数がわずか3人ではどうしようもない。

円朝には弟子も入った。
ただ、まだまだ芸は未熟で、早稲田あたりの端席(はせき、
場末の寄席のこと)にしか出演られなかったという。

今は、東京で寄席といえば、新宿[末広亭]、上野[鈴本]、浅草
浅草演芸ホール]、池袋[池袋演芸場]に半蔵門の[国立演芸場]。
これに永谷の[お江戸日本橋亭]、[お江戸上野広小路亭]、
お江戸両国亭]あたりまでが定席(じょうせき)といって休みなく
落語家などが毎日出演る寄席。
江戸末には寄席の数は200とも300ともいわれ、数町に一つはあった
ことになる。下谷広小路、浅草、両国など盛り場にある人気者が
出演るところから、素人なども混じって出演る場末の席までそれこそ
ピンからキリまで様々であったわけである。むろん場末では
客など入らない。

そして、この安政2年10月、前記した安政地震
起きている。

幸い、円朝本人、家族には命に別条なかったが、兄玄正の長安寺も、
円朝がこの時住んでいた池之端七軒町の長屋も倒壊。
下町界隈はどこもほぼ同じようなものであったようである。
幕府は天保の飢饉の際には、いわゆるお救いは機能せず
それが、大規模な一揆、打ち壊しの頻発、治安の悪化に
つながっているが、さすがに将軍お膝元の江戸では五か所で
「お救い小屋」(東叡山日除地(下谷広小路か)、浅草広小路
(雷門通り)、深川海辺大工町、八幡神社、幸橋御門内)を
開いている。ただし、実際に実行したのは「家持層」で
あったという。大店や町役人ということか。
一方で『「悪党共抜身ニて歩行という噂」も流れていたように、
確実に治安は悪化していた』ようである。

この安政地震の記憶は江戸人にとっては大事件で文明開化期に
なったといってもよい明治19年円朝の新聞連載の噺の枕では
ほぼ安政地震について述べられているようである。

翌、安政3年、やっと円朝は中トリに出演られるようになる。

寄席は、むろん一番最後、トリが最も重要で、トリを取る噺家
本来は、真打という。トリを取ること自体を真を打つともいう。
また、今も、新宿末広亭などは使っているが、その席のトリの
噺家の名前を大きな看板に書いて、出す。これが大看板。
歌舞伎などでもいうようだが、役者、噺家の大幹部のことを
大看板という。真打になることを看板をあげるなどともいったが、
これもそういうことである。

で、中トリというのは、トリの次に重要な出番で中入り
(途中の休憩)の直前になる。ようやく、父、円太郎、母を含めて
円朝の給金で暮らせるようになった。父の放蕩もこの頃には
落ち着いてきたようである

ただまだ、一流の席には出演られない。
円朝は一計を案じる。なにかというと、芝居噺である。

高座の後ろに書き割りのような絵を描いた背景を置き、
道具なども用意し、芝居仕立ての噺。

先代正蔵師が演っていた写真を見た記憶があるが、
芝居噺は今は滅んでいるといってよいだろう。

これが当たった。
段々に円朝の高座に客が入るようになっていったのである。

そして「安政6年(1859年)、21歳になった円朝は師匠円生を『中入り前』に
頼み、「よい席」で真を打てるようなった。」のである。

だが、師匠円生というのは、どうしようもない男であった。

円朝は芝居噺で道具の用意をするので、なんの噺をするのか
まわりでは事前にわかるのである。円生はトリの円朝の前に、
円朝の演じる予定の噺を先にしてしまう、のである。

今もそうであるが、一日一つの寄席では、同じ噺はしてはいけない。
もっというと、同じ噺はもちろん、同系統の噺すら原則かけては
いけないことになっている。(落語には、同工異曲の噺が数多くある。
例えば「おうむ返し」なんというが、大家さんになにか知恵をつけられて、
同じようにやってみて失敗する。「道灌」「子ほめ」「つる」「二十四孝」
「青菜」「天災」、、前座噺が多いか。これらは噺の内容は違っており、
ちょっと厳しいようだが、基本前に上がった誰かが「おうむ返し」を
その日演っていれば、演ってはいけないのがルールである。)

師匠による弟子のいじめ。
パワハラ
伝記の類にはやはり必ず出てくるエピソードである。
これだけでなく、いじめ、いやがらせはもっといろいろあったよう
であるが、おそらく本当のことであったのであろう。私なども30年間
サラリーマンをしていたので、こんなことは日常茶飯事であることは
よくわかっている。

売れてきた弟子円朝。二代目円生自身も自らの不甲斐なさ、
この事実は自覚せざるを得なかった。それでこんないじめ、
パワハラをする器量の小ささ。一言でいえば、セコイ。
この程度の人物であるから、三遊の凋落を招いたのであろう。
だがこんな人は、会社では今も履いて捨てるほどいる。

円朝は師円生と決別をする。
縁を切っても、円朝噺家活動は、円生によって妨げられることも
なかったということであろう。そんな、円生も情けない。
この間、万延の2年ほどか。(万延元年で円生55歳、円朝22歳。)

そんなことをしているうちに、円生は病を得て、寝込んでしまう。
三人の娘のいた円生一家はたちまち食うにも困るようになる。
面倒をみる弟子は一人もいない。

円朝はさすがに放っておけず、見舞い、金銭的援助もしている。
偉い。私なら、ざま~みろ、と思い、しないかもしれぬ。
だがまあ、もはや円朝の人気はうなぎのぼりで、差は明らか。
人気商売、放っておいては、円朝自身の評判にも差し支える
ということもあったのであろう。

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 


つづく

 

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その5

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テキストからは少し離れているが、
一つの噺の完成は、いつなのかという話。

その例として「芝浜」のお仕舞の部分のこと。

以前までは小利口なしっかり者の内儀(かみ)さんとして
描くのが一般的であった。(よく言えば内助の功か。)

これは後味がわるいと、談志家元は演出を変えた。

長年連れ添った内儀さんに嘘をつかれていて悔しいでしょ。
腹が立つでしょ。殴ってもいい。でも私、お前さんのことが
好きなの。捨てないで、と、かわいい内儀さんに描く。

噺の大筋、構成は変わらないのだが、作品性は、ずっと高い。
より感動を与えるのは談志家元の演出であると考える。

落語というのは、エンターテイメント性も含めて
表現芸術であると考えるが、概略ができた段階では
作品としては出来上がっていない。つまらない噺は
消えてなくなり、おもしろい噺は、多くの噺家に伝えられ
弟子、またその弟子、に伝えられ、時々の名人によって
磨かれる。これが演出を変えていくという作業である。
これによって、作品性が高まっていくのである。
同じ噺でも時代によってあるいは人によって演じられ方、
演出は異なっているのである。

現代に残っている噺の概略ができた時期は、極論をすれば、
たいした問題ではない。今の形になったのがいつ(誰によって)
なぜ、なのか、ということがとても重要なことだと私は
考えているのである。

現代に残っている江戸落語の多くは、幕末までにその概略は
できている、ということは多く研究されている。
笑い話集のような出版されたものがあり、そこに原話がある
ことで考証している。
だが、実際には作品は完成されていない。現代に伝わっていく
どこかの段階で無駄な部分がそぎ落とされ、あるいは加えられ、
演出が変えられている。
これが本当のその噺の完成であり、私はここに焦点を当てるべきである
と考える。なぜならば、落語の噺は、それぞれの原構成ではなく、
エンターテインメント性(おもしろおかしさも含めた)、感動を生む
芸術性、作品性こそがその噺が現代に伝わっている本質に他ならないと
思うからである。(その落語の本質を談志家元は「人間の業の肯定」と
いう言葉で表現したのであるが。)

と、こんなことを踏まえたい。

さて。ここまでが円朝師が生まれるまでの落語というものの背景。
それから私が考える、落語の成立、完成についてである。
円朝師に戻ろう。

円朝師は天保10年(1839年)湯島切通町に生まれ、父も噺家
初代橘屋円太郎。父の師匠は二代目三遊亭円生

思い出していただきたい。天保10年というのは大飢饉が起きて
一揆が全国で頻発し騒乱状態が始まった天保8年の2年後である。
そしてこれが幕末に向かってエスカレートしていくことを念頭に
置いておきたい。

弘化2年(1845年)父円太郎は7歳の息子を噺家にすべく日本橋本銀町
の寄席「土手倉」に小円太という名前で初高座にあげる。

その後、父の円太郎は長期の地方巡業に出て、円朝を師匠の
二代目円生に入門させる。円朝は住み込みの内弟子となる。

そして嘉永6年(1853年)ペリー来航。円朝15歳。

須田先生はここでおもしろいことを書かれている。

ペリー来航時、江戸の人々は大騒ぎになっている。
これは日本史の教科書にも書かれていることである。

しかし、その後、明治になってこのペリー来航は
東京の人々の記憶からは、既に薄れていた、という。

江戸末には安政地震という江戸未曾有の地震が起きているが
これと、上野戦争は明治になってからの円朝師の作品の中にも
多く登場するのだがペリー来航の記憶は一切登場しないという。

「ペリー来航は政治史上の重大事件であるが、文明開化期の
東京の人々の記憶からは薄れていったのである。」

これは重要なことである。
庶民にとっては自分たちの生活に直接関係のないことは
すぐに忘れてしまうのである。

余談だが、安政江戸地震安政2年(1855年)に起きた。
震源江戸湾北部荒川河口付近。いわゆる江戸直下地震
マグニチュード7、江戸中心部での震度は6弱以上と考えられて
いるようである。今、いわれている首都直下地震というのは、
このこと。江戸・東京には繰り返し起きている直下地震
あって、既に100年以上起きていないということなのである。

安政江戸地震の被害は倒壊家屋14346戸、犠牲者は1万人程度には
のぼっていたという。また、その後の火災で、江戸の武家屋敷の
80%は焼失。(wiki)

広重の「江戸名所百景」という浮世絵のシリーズは有名であるが
この出版は翌年の安政3年。

「浅草金龍山」(wikiより)

これは「江戸百景」の内の雪の浅草寺を描いている。
右奥に五重塔が見える。

安政江戸地震で実は、浅草寺五重塔は倒壊、火災被害などは
まぬがれたが、頂上の九輪と呼ばれる、輪っかが重なったような部分が、
曲がってしまっていたことがわかっている。
だが、この絵では元のまま。

むろん浮世絵は写実ではないのだが、この大地震の翌年すぐに
出版されたこの浮世絵のシリーズにはこのように、地震で被害を受けた
場所、建物の多くが、それ以前の無傷の姿で描かれているという。
むしろ被害を受けたところを選んで描かれたともみえるという。
「謎解き 広重『江戸百』」(原信田 実)では、広重による
江戸復興へのエールではないか、という指摘もされている。

余談ではあるが、安政江戸地震は、むろんのこと当時の庶民には
人命もあろうし、住むところ、食べ物その他、大事件であり、
江戸にとっては大きな傷として記憶されるべきもので
あったわけである。

上野戦争はむろんのこと、江戸そのもので銃弾や大砲が飛び交う戦争が
起きているので大きな記憶ではある。
だが、生活が特に変わらなかったペリー来航はすぐに忘れて
しまっているのである。

さて。
円朝は二代目円生の内弟子となり、二つ目昇進。だが、二つ目の給金は
ほんのわずか。父円太郎はドサまわり中で不在。一家は三度の食事にも
困る有様。
円朝には兄がおり、玄正という僧侶であった。玄正は京都の
東福寺へ修行に出て、この頃、今もあるようだが西日暮里
(当時谷中)の南泉寺という寺に戻り役僧になっていた。

厳格な玄正は円朝噺家にするのは否定的で、噺家修行はやめさせて
池之端仲町の紙屋に奉公に出してしまう。が、病になり実家に戻る。
その後、噺家に戻ったり、あるいは名代の浮世絵師歌川国芳に入門したり、
と転々とする。国芳のもとでの絵師修行も病のためすぐにとん挫。
玄正は順調に出世し、谷中長安寺(これも現存)の住職になっており
円朝は、母とともに引き取られる。父も江戸に戻ったようだが
妾を持って別居。「芸人の放蕩を絵に描いたよう」な父。
だが、円朝噺家修行に戻り長安寺から寄席に出勤している。

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 


つづく

 

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その4

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さて。
中断していた
須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」に

戻らなければいけない。

ここまでは、このテーマを考えている私自身のことと、
幕末から、明治初め、すなわち天保期から明治0年代の
一般庶民の社会背景をみたきた。(同じく須田先生の研究
「悪党の一九世紀」から)

幕末近い天保の大飢饉から一揆、打ち壊しの頻発、
そうとうに治安がわるく、ひどいときには“万人の戦争状態”と
いわれるほどになっていた。
そして、これは武士達の討幕運動から戊辰戦争になる前から
この状態が始まっていたということ。

研究は記録に残っている大規模な一揆、打ち壊しが対象であるので、
それ以外、個別に町や村で起きていた無宿や博徒ら悪党による
博打、詐欺、窃盗、恐喝、押し借り、強盗、強盗殺人、等々は
もはや数限りなかったといってよいのであろうと想像する。

大規模な一揆は、ある程度首謀者である、博徒、無宿のリーダー
(親分)などの捕縛は行われていたようである。しかし、
散発的な彼らの一つひとつの犯罪はもはや取り締るような余力、
余裕も幕藩領主側にはなくなっていたと考えられよう。
彼らは大刀、長脇差脇差匕首(あいくち)、鑓(やり)、弓など
従来の武器に加え、既に鉄砲(ライフル)、拳銃なども
持つようになっていた。これに対し、領主は名主らを組織し、
農民に自己防衛を推奨し新式の鉄砲を与え、訓練をさせるように
なっていたのである。安土桃山から江戸初期の兵農分離政策とは
反対のことをせざるを得なかったわけである。これが“万人の
戦争状態”といわれる所以である。

これが幕末から明治初年の30~40年間エスカレートしながら、続いた。
それは武士達の討幕運動とは別の、庶民の社会情勢であったと
いうこと。殺伐とし、男でもうっかり夜も歩けない。自分の身は
自分で守る。女子供は身を潜めているしかなかろう。
武士たちの幕末に耳目が集まり、研究もあまりされてこず、
やはり、あまり知られていないことであろう。
この社会状況はとても重要なことであろうと私は考える。
なぜなら、庶民の娯楽である、黙阿弥の歌舞伎、そして文化文政期に生まれ、
当時発展、流行を始めた江戸落語のバックグラウンドになっているからである。
そして、これはこと歌舞伎、落語にとどまらない。明治初年がスタートになっている
明治という時代を考える上で重要になってくると思うのである。さらに明治をどう
評価するのか、という歴史的視点は、むろん現代の我が国、私たちにも
つながっている。

ともあれ。江戸時代を舞台にしたいわゆる“渡世人”の時代劇、ご存知
カツシンの「座頭市」や中村敦夫の「あっしには関わりのねえこって
ござんす」の「木枯し紋次郎」といったものがある。
あれらは北関東が主要な舞台だが、あんな感じは、幕末どこといわず、
実際の光景であったということなのである。
(ただ、鉄砲、拳銃のようなものはこれらの時代劇には
登場しないのが普通だが、既に持っていたのは憶えておきたい。)

実際の無宿、博打打ち、実在した江戸期の博徒国定忠治などの研究もあり
別途書くとするがこんな背景を踏まえて、肝心の三遊亭円朝師、須田先生の
三遊亭円朝と民衆世界」を読んでいこう。

円朝師の前に、江戸落語そのものの始まりについても
ふれておく必要があろう。

江戸落語の始まりは以前にも書ている。

これは延広真治先生の論である。
(この先生は歴史ではなく、文学の人。)

落語の始まりを天明6年(1786年)烏亭焉馬(うていえんば)の、第一回の
『噺の会』としている。参加者が持ち寄った噺を披露する。
まあこれは狂歌蜀山人太田南畝先生なども関わっている文化人サロン的な
ものでのこと。職業落語家ではなく、俳句の会のような趣味のもの。

本当の始まりはこの会にも出入りをしていた、初代三笑亭可楽
下谷稲荷で初めて寄席を開いたのが、幕末にはまだ70年ほど間がある
1798年(寛政10年)。(今、この最初の寄席が下谷稲荷で開かれた
というのが通説だと思うが「落語の鑑賞201」(延広真治編 二村
文人 中込重明著 2002)によれば下谷稲荷は疑問で、近所だが
元浅草3丁目に今もある正福院であるとの説を紹介している。)

その後同じく初代三遊亭円生、同林屋(家)正蔵を入れた三人が
中心となりお客から題をもらって即席に作る、三題噺やらから
始まり、今の江戸落語に通じるたくさんの噺の原形ができていったと
考えられている。ただ、これはあくまで原形である。
大まかな筋が共通している原形というだけで、実際にはその後、
明治、大正と歴代の噺家達によって、改編が繰り返され現代に
伝わっている噺になっている。
ただ、これも本当のところは、明確にはわからない。
江戸期に喋られていた噺、一言一句の言葉そのものは、文字にはほぼ
残っていないのである。文字に残るようになったのは明治になってから。
これは江戸落語の歴史研究にとって重要なポイントである。
歌舞伎については文字にした台本が残っているが、落語にはそんなものは
なかったのである。

落語の研究では、噺の概略ができたのをその噺の誕生と
考えられることが多いのだが、これには私には異論がある。

ひとつの噺を“作品”と考えるが、この作品で、なにを
いいたいのか、まあその噺のテーマといってよいもの。
これは談志家元の持論でもあったが、同じストーリーでも
演出、下げその他でテーマ、作品性は変わってくる。
そもそも一般には落語のテーマ、作品性など、談志家元が言い始めた
ことだと思うが、今でもあまり意識されていないことでもある。

例えば「芝浜」という有名な人情噺がある。
円朝作ともいわれてきたが、確証がなく、違うというのが
今は通説のよう。)

ちょいと長くなるがご存知のない方のために、筋も書く。

芝の担い売りの魚やの男、呑んだくれで働かない。長屋住まいの
米びつも空っぽ。
朝、内儀(かみ)さんにせっつかれて、いやいや仕事に出る。
むろん魚やなので朝が早い。
が、内儀さんはさらに一刻(二時間)時刻を間違えて
早く起こしてしまった。時の鐘が鳴るのを聞いて気が付く。
芝の浜に着いたが人はいない。帰るのも馬鹿馬鹿しいので
浜でタバコを吸う。と、波打ち際に皮の財布を見つける。
そこにはなん年も遊んで暮らせるほどの大金が入っていた。
拾って、慌てて家に帰る。
ヤッタゼ!。さあ、呑むぞ~。
色々なものを取る、友達を呼んでくる、大盤振る舞い。
ひっくり返って、寝てしまう。

翌朝、内儀さんに起こされ、仕事に行くようにいわれる。
そんなもの、昨日拾ってきた財布の金で払っとけ。
内儀さんは、財布などない。なに夢のようなことを
いっているのだ、と。
財布を拾ってきたのは夢で呑み喰いをしたのは現実。
この金をどうするのだ。さあ大変だ、働こう。
改心をして、働く。
三年がんばって、借金も返し、裏長屋から表通りに
一軒の魚やを開けるようになる。
その大晦日

この噺の最後の部分。
私が夢にした、と、内儀さんの告白。
あの時、お前さんは確かに、財布を拾ってきた。
だが、これを使ってよいのか、大家さんに相談にいった。
大家は、そんなことをしたら、後ろに手が回る、届けなければ
だめだ。夢にしてしまえ、ということになり、起きたお前さんに
夢だったといって人のいいお前さんは信じて、今日まで三年一
所懸命に働いてくれた。実はそのお金ももう随分前にお下げ渡しに
なって返ってきている。これ。

この内儀さんの描き方が問題なのである。
それ次第でこの噺そのものの印象、お客への伝わり方、
つまり作品性が大きく変わってくる。

馬鹿な亭主。しっかりした賢い内儀さんとして
描くのが以前からの演出であったのである。

 

 


つづく