浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



上野・蕎麦・翁庵

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1月17日(木)夕

夕方、上野の蕎麦や[翁庵]。

ちょっと久しぶりであろうか。

もうなん年も通っているが、いつきても変わらない。
これがいい。

ほぼ上野駅前。
浅草通りに面し、上野警察前。

毎度出している江戸の地図も出してみよう。

現代の地図も。

だいたいおわかりになろうか。

下谷広徳寺門前という。

今、浅草通りといっているこの通りは、新寺町通りと
呼ばれていた。

広徳寺というのは大きな寺だが、今の上野警察と台東区役所などに
なっている。

関東大震災後に練馬へ移転しているがそれ以前は、
このあたりのランドマークといってよろしい。
戦国期から起源がある臨済宗の禅寺。家康が江戸入府後神田に再興。
大名家なども檀家に持っていたよう。

「おそれいりや(入谷)の鬼子母神」という江戸の地口(洒落)は有名だが
その後に「びっくりしたや(下谷)の広徳寺」あるいは「どうかしたやの
広徳寺」と続いた。

さらに「なさけありま(有馬)の水天宮」「うそをつきじ(築地)の御門跡
(ごもんぜき=築地本願寺のこと)」なんというのも続きにあった。
蜀山人作などともいうがこれは誤りと考える。※)

ともあれ。

戦後の建築であると思われるが、よい感じの二階建ての
日本建築の町のそばや。

入ったのは、夕方4時頃。

入った右側に食券売り場があって、昼時など混んでいる時には
ここで食券を買うのだが、この時刻であれば人もおらず、
席に座ってから頼んでよい。

お姐さんに一人といって、TVの視えるところに座る。
お客は奥でお姐さんを相手に呑んでいるオジサン一人。

お酒をもらおう。

お姐さんに、

お酒お燗と、ねぎせいろ。

よかった。

なにがといって、熱燗ですか、とは聞き返されなかった。
通じたのか。

トイレに立って、戻ってくると、きていた。

お通しは、夏でも冬でも、枝豆。

猪口に注ぎ、呑む。

よし、正解。
熱くもぬるくもない、温度。

そうなのである。
これが正しい。

熱燗とは燗酒の温度のことで、燗酒の代名詞ではない。
くどいようだが、声を大にして言いたい。
「お酒お燗」と頼み、店は上燗、適温を出す。
どっちにしても「熱燗」はやめてくれ。

さて。

呑み終わりが近くなってきた頃、お姐さんの、ねぎせいろ、と
注文を通す声が聞こえて、出てきた。

お酒と同時に頼んでいるが、特にいわれなくとも、
ちゃんとこちらの呑むペースを見ていてくれて、
時間差で出してくれる。

これも、少し前まで東京の蕎麦やではお客への
配慮として、するものであったこと。
まあ、この時はお客も少なく余裕もあったのではあろうが。
ただ、あるべき姿がこうである、というのは
ちゃんとこの店に残っていることは間違いない。

ともあれ、ねぎせいろ。

もりのそばのそばつゆに、小さなかき揚げが入っている。
これがここの看板、ねぎせいろ。
かき揚げの種は、ねぎと、いか。

そばつゆに、小さなかき揚げを入れるのは、ここだけ
ではなく、室町[砂場]

にも今もある。

[砂場]ではこれを天もり、天ざるといっている。
どちらが先か。おそらく店の歴史からすれば[砂場]の方が
古いのではなかろうか。
まあ、どちらにしても、他ではそばつゆに小さなかき揚げを
入れるというのはみない。もっとあってもよさそうではあるが。

室町[砂場]の創業は明治2年
この上野[翁庵]の創業は明治30年頃といい、
そばつゆに小さなかき揚げを入れるのは明治の初期に
室町[砂場]で生まれ、その後ある程度東京の蕎麦やに
広まったのではなかろうか。
だが、なぜか他では残らなかった。

もう一つ、おもしろいのがここ[翁庵]の蕎麦の色。

先日の、神田の[藪]を思い出す。
そう、薄緑、なのである。

ここも新そばの時期だけではなく、
年がら年中この色であったと思う。

うまかった。

ご馳走様でした。

勘定をして、出る。

やはり、ここも上野警察前でこのまま、続けてほしい。
そんな蕎麦やである。

 

 


台東区東上野3-39-8
03-3831-2660

※「おそれいりやの鬼子母神~」の地口は蜀山人の作などともいうが、
おそらく後の講談師、落語家、あるいは戯作者などの創作でまさか
蜀山人大田南畝先生がこんなものを作ってはいないと考えている。

落語でも蜀山人作として語られているものはたくさんある。

花というはこれよりほかに仲之町 吉野は裸足 花魁は下駄(松葉屋瀬川他)

まだ青い素人浄瑠璃黒がって 赤い顔して 黄な声を出す(寝床)

そもそも「蜀山人」は実在の文人狂歌師であり幕府御家人であった
大田南畝とは離れ、談志家元などもたまに演っていたが講談、落語では
水戸黄門の「黄門漫遊記」のような構成で蜀山人狂歌頓智
出会ういろいろな問題を解決するといった内容の一連の作として
長く語られていたのである。

太田南畝先生について書いている。

まあ、別の人として考えた方がよろしかろう。

  

 

南畝先生と呉服橋界隈、、茶屋四郎次郎との関係。そして、日本橋・蕎麦・やぶ久 その2

さて。



今日は昨日のつづき。



大田南畝先生が、呉服橋の茶屋長意なる幕府の呉服所を
勤める豪商、茶屋四郎次郎家の旦那と思われる人物、のところへいった、
という話で、あった。


ここから、マニアックなところに入っていくのだが、
ちょっと、引っ掛かったことがあり、書いてみる。


正確には、茶屋長意の家なのかどうかはわからぬが、
南畝先生は呉服橋の界隈の、長意の“もと”で
会っているということ。
そして茶屋は幕府の呉服所を勤めていたということ。
そして、金座の後藤家とも縁戚にあったということ。


お気付きであろうか。


一石橋の由来で出てきた、もう一軒の後藤家。
ここも、茶屋家同様、幕府の呉服所を勤めていた。


荒唐無稽のようだが、後藤縫殿助家は、ひょっとすると、
実は、茶屋家、なのでは、と、いう思いが、
湧いてきたのである。


しかし、論文なども調べてみたが(むろんネットだけだが)
結局、そういう史実は見つからなかった。


南畝先生は“もと”と書かれているだけで、
茶屋の家とは書かれていないので、
茶屋の家が呉服橋にあったのかどうかは
断定はできぬが、普通、日本語で、誰々のもと、と、いえば、
家、と考えるのが普通であろう。


後藤縫殿助家は地図(昨日掲載)にも書かれているが、
江戸初期から、ここにあり、前にふれた絵島生島事件に
連座したとはいえ、南畝先生の頃も、そして、
おそらく幕末まで存続していたこと。
(上の地図は、幕末、文久年間のものであり、また、幕末まで
各種史料にも後藤縫殿助の名前は登場しているので
確かなことのようである。)


茶屋家と後藤縫殿助家、同じ呉服橋で、同じ幕府の呉服所。
これは、偶然にしては出来すぎているのでは、と。


先に、茶屋家と金座の後藤庄三郎家は縁戚にある、
と、書いたが、金座の後藤家だけでなく、
茶屋家は、呉服の後藤家とも大いに関係が深く、
茶屋長意は後藤縫殿助の呉服橋の家にいたのでは?。
あるいは、南畝先生は後藤縫殿助の呉服橋の家で、
茶屋長意に会った?。


いや、いや、さらに推測を進めると、
後藤縫殿助と茶屋長意は同一人物では?
というところまで、たどり着いてしまう。


むろん、茶屋長意の家が、後藤縫殿助の家とは別に
同業であるから、呉服橋界隈にあったと、考えるのが、
まっとうなのかもしれぬ。(ご存じ三井越後屋白木屋
この二店も、呉服屋でこの日本橋周辺にあったではないか。)
また、茶屋家と後藤縫殿助家をネットではなく、
論文の類をきちんと当たれば、結論は簡単に付きそうであるが。


ともあれ。


呉服橋と、南畝先生の歌から、こんな話が掘り起こせた、
ということであった。


さらに、この呉服橋界隈で、もう一つだけ。


地図(昨日の)に、書き加えたが、呉服町に樽新道という
路地が下の方にあると思う。


この樽新道というのは、樽屋三右衛門という人物が江戸初期、
住んでいたところから付いているという。


この樽屋家はやはり、昨日引用した「持丸長者」の
広瀬氏によれば、後藤庄三郎家とも縁戚関係にあり、
と、いうことは家康とも関係があり、
江戸の街を開くのに力を尽くした三町年寄のうちの一つである、
というのである。


やはり、この界隈、開府当初から、町人でも
幕府に近い重要人物が多く住んだところであった、
ということであろう。


江戸城大手門前、今の大手町、八重洲、は、譜代大名達の
上屋敷が配置され、外濠をはさんで、日本橋
特に、この呉服橋と、もう一つ北の常盤橋あたりは、
道三堀で大手門から真っ直ぐの場所。
大手門から最も近い、町屋と、いってもよいだろう。


江戸開府当時、町屋としては最も重要な人々が
住居するところとして、まずは配置された、と、
思えてくる。


(そういえば、道三堀から真っ直ぐくると、日本橋川にぶつかる。
そして、一石橋、次が日本橋。そして、その左岸が魚河岸。
ここからも、江戸城まで真っ直ぐ。
家康は、江戸開府にあたって、摂州佃村の漁師が呼び、
彼らは、将軍家へ魚を納めることを条件に、江戸前の漁獲権を
与えられた。そして、佃島に住んだ彼らが、
将軍様の魚を揚げるところとして、ここに魚河岸が置かれたというのも、
うなづけること、と、思えてくる。


さらに蛇足だが、家康の外交顧問を務めた、イギリス人、
三浦按針こと、ウイリアムアダムスは、ちょうど、日本橋魚河岸の
裏あたりに屋敷があった。これも、やはり、家康との
関係の深さということがあように思われる。)



さてさて、そんな呉服橋界隈。



そばや、やぶ久。
(完全に、なにが本題か、わからなくなってしまった。)


6時すぎに入ったが、一階は、ほぼ満席。
人気か。


昆布巻のお通しで、燗酒一合。





季節の、かき南蛮。



盛り付けも美しい。
写真でもお分かりになろうが、湯通しされた、大粒の牡蠣が、
プリプリ。


堪えられないうまさ、で、ある。





ぐるなび やぶ久






 

南畝先生と呉服橋界隈、、茶屋四郎次郎との関係。そして、日本橋・蕎麦・やぶ久 その1

1月27日(水)夜


さて。


このところ、仕事では、資料調べが続いており、
今日も、大手町。


6時に終わり、久しぶりに、日本橋の蕎麦や、
やぶ久へ寄ってみることにする。


大手町、永代通りからJRをくぐって、呉服橋交差点へ。
先週も、少し温かい日があったが、今日も比較的温かい。
この冬は、随分寒いかと思ったが、少し妙。


ともあれ、呉服橋。


今は、永代通りと外濠通りの交差点だが、以前は、むろん、
外濠に、呉服橋という橋がかかり、江戸の頃は呉服橋御門と呼ばれ、
江戸城の外郭の門の一つ、で、あった。


そして、呉服橋を渡った向う、日本橋側はもとは呉服町。


以前に、この界隈、呉服町のことを少し調べ、
日本橋川にかかる一石橋の由来。金座の後藤庄三郎家、
呉服商の後藤縫殿助(ぬいのすけ)家
(後藤(五斗)と後藤(五斗)で、一石橋になったという謂われ)
のこと。


さらには、後藤縫殿助家は江戸中期の大奥と歌舞伎界を巻き込んだ
一大スキャンダル事件、絵島生島事件に連座したことなど、書いた。


2008年 やぶ久と呉服町界隈のこと

今日は、もう少しこの周辺を調べてみた、ので書いてみたい。


まずは、江戸の地図、から。





これは、江戸の頃の区分図である切絵図。


そして、今日は、もう一つ。
「江戸文学地名辞典」(浜田義一郎監修)という、
池波先生も使っていた、いわば江戸のネタ本。
これは江戸の地名が出てくる江戸期の文学作品、を、地名ごとに、
検索できる、というもの、で、ある。


これで、呉服橋、呉服町をみてみると、こんなものが出てきた。


かの、蜀山人大田南畝先生の作品。

蜀山人 大田南畝先生


蜀山人 大田南畝先生その後


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



茶屋長意のもとにて時雨ふりければ



村しぐれふりはえてけふ呉服橋


なじみの茶やにきぬるうれしさ




(「七々集」大田南畝全集二巻より)



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




狂歌、というよりは、和歌であろうか。


「七々集」という歌集は、南畝先生が、67歳の年(文化12年、1815年)の
七夕に作ったものなので、この名前をつけたという。
(75歳で亡くなっているので、晩年だが、まだ元気な頃なのだろう。)


呉服橋のそばの、旧知の茶屋長意のところにいたら、時雨が降った。
茶屋長意に会えたのは、うれしい。


茶やでの雨宿り、というのを茶屋という人物の家(?)と
掛けている。
内容とすれば、まあ、そんなこと、なのであろう。


七々集の、この歌の次にこんなものもある。
ちょっと、おもしろいので紹介しよう。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



同じ日、歌妓おかつさはることありてこらざりければ




おかつとは馴染みといえどかつみえず茶屋が茶屋でもいかゞなる茶屋



(同書)



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



これは、狂歌?。


意味は、そのままか。
茶屋長意のところに、馴染みのおかつ、という歌妓を呼んだのだが、
都合がわるくてついにこなかった、茶屋だけに、これは、
いかがなるチャヤ(カヤ?)。


駄洒落、か。


そして、南畝先生老いてなお、お盛ん。


遊び歩いていた若い頃は、狭い牛込御徒町の家に、
吉原の馴染みを妾として引き取り、妻妾同居をしていたのも
有名な話。
晩年まで、モテた。関係する若い女性もあったという。
なるほど、というところか。


歌妓、というのがどういうものなのか。
芸者、の、ようなもの、で、あろうか。


江戸における芸者の起源は深川、ともいわれており、
吉宗の頃には既にあったようである。


芸娼分離以前のこと、岡場所の芸者(踊り子)兼遊女もあり、
から始まり、柳橋、深川のようなところは、純粋な芸者もいた
ともいう。
あるいは、吉原のような遊郭では、娼妓との役割分担で、
ここでも純粋な芸者は成立していた。
(一度このあたり、江戸の芸者史については、きちんと
調べてみたい。)


ともあれ、そんな背景の中、吉原か柳橋か、わからぬが、
そのあたりの、南畝先生馴染みの歌妓なる、おかつ姐さん、
あるいは、おかっちゃん、なので、あろう。


さて。


私が気になったのは、最初の歌の、茶屋長意、のこと、なのである。


この茶屋長意なる人物とは、なに者か。
少し調べてみた、のである。


茶屋四郎次郎という名前をお聞きになったことがあろうか。


この茶屋家は、四郎次郎を代々名乗ったようだが、
さかのぼると、室町末あたりまでたどれるよう。
江戸時代には京都が本拠のようであったが、
幕府の御用商人呉服所を勤めていた、家。


先に出てきた、金座の後藤庄三郎家とも親類関係にあったという。
(参考:「持丸長者・幕末・維新編」広瀬隆
さらに、これによれば、後藤庄三郎は、
家康の落胤である、との説もあるよう。)


長意はその茶屋の、なん代目かの人物のよう。
(調べてみると、長意は、江戸初期の人物の名前が本当のようで、
南畝先生とは些(いささ)か時代が合わない。
名前を継いでいたのかもしれぬが、詳細はわからなかった。)


で、その長意の家(?)がこの呉服橋にあり、
南畝先生が親しくし、訪問した、ということ。


当時の南畝先生は、幕臣としては恵まれない人生であったが、
文化人とすれば、この時期はいわば大御所で、
文化文芸嗜好のある、肥前平戸の松浦静山、酒井包一、などの
大名家にも出入りしていた。
田沼時代の若かりし頃から、江戸の文芸界はむろん、
團十郎はじめ歌舞伎界、あるいは、それを取り巻く、
蔵前の札差などの豪商の旦那衆(当時のいわゆる通人)
とも遊びまわっており、茶屋家の旦那とも知り合いであったのは、
なんら不思議はない。





といったところで、長くなった。
つづきはまた明日。






ぐるなび やぶ久






蕎麦・上野・蓮玉庵

6月3日(水)夜


今日なども、随分と暑かった。


それも原因であったのだろうが、
無性に今日は、池之端の藪蕎麦へいきたくなった。


今、一番私がくつろげる蕎麦やが、ここ、である。


なん度も書いているが、店構えから、中の雰囲気、
注文を通す声、はしらわさびなどのつまみ、
そしてもちろん、そばも。
すべてが、私にとっては、なんの文句もない。
〆て、もっともくつろげる蕎麦や、ということになる。


ここにいくとなると、7時前には店に入りたい。
6時半前、さっさと片付けて、帰る。


牛込神楽坂まで急ぎ、大江戸線に乗って、上野広小路
降りる。広小路から、裏通りに折れ、、、、、
路地の角に出ている、なんの気なしに目に入った、風俗店の
看板。『今日は○○デー』。


ん?


あれ?!今日は何曜日?


え!スイヨウビ、ダ。


そうなのである。
池の端藪は、水曜休み。


以前に、学習をしないものだから、なん度も水曜にきて、
その度に、店前で、ああ、そうだった、と、
気が付く、ということを繰り返していたのであった。


最近はやっと、覚え、水曜にはきてしまうことはなかったのだが、
久しぶりにやってしまった、、。嗚呼。


あきらめきれず、店前まできてみても、
休みは休み、、シャッターがむなしく下りている。
(なにか、二日続けて、思惑はずれ、で、ある。)


はてはて。


天神下の大喜で、ラーメン、という気分にもなれないし。
一心の鮨、でもないだろう。


丸井裏までいって、上野藪?それならいいか、と
考え直し、仲町通りを広小路まで戻り始める。
(実は、帰りに気が付いたが、上野藪も、
水曜定休なのではある。)


と、おお、そうだ。
蓮玉庵。
早い時間なら、ここは、やっていたはず。


広小路に出るすぐ手前、右側。


暖簾が出ている。
だいじょうぶだ。


入る。


やはり、比較的すいている。


ここの創業は江戸、幕末の安政6年。
明治の頃、作家文人の行きつけも多く、様々な小説、エッセイ、
歌、などにも詠まれている。
のではあるが、現代のこの店の雰囲気には、
池の端藪ほどの、味わいは、残念ながら、ない。


まあ、よい。
今日は、ゆっくりやろう。


すいたテーブルに座り、ビール。


つまみは、なにかな?
壁に、穴子ゆず味噌、650円、というのが、
書いてある。
これはなにかと聞いてみると、どうも味噌味の
煮凝りのようなもの、の、ようである。


もらってみる。





ゆず風味のなめ味噌のようなもので穴子を固めたもの。
そんな感じ、で、あろうか。


うまいし、なかなか、乙なもの、で、ある。


お通しは、昆布の甘辛の佃煮。


もう一つ、なにかもらおうか。
メニューを見る。
意外に、多くはない。
板わさなど、定番のもの。


お?


つくね、というのがあるぞ。
つくねといえば、鶏のつくね、で、あろう。
頼んでみる。





ちょっと、かわっている。
表面がパリッと、焼かれている。


黒いのは、やはりゆず風味のなめ味噌。


仕上げに、せいろ。





藪の黒い蕎麦に慣れているせいか、
ちょっと物足りない、白っぽい蕎麦。
汁は、濃いめで、うまい。


この店は、その昔は今の鰻やの伊豆栄の並び、
不忍池側に建ち、入口もそちら側であったようだ。


蓮玉庵の、蓮は、むろん蓮(ハス)。


これだけは、今でも変わっていないが、不忍池
これから夏、一面、蓮の大きな葉っぱと、花で一杯になる。


昔は、不忍池といえば、蓮、ということ
になっていたようで、弁天様のある島の茶屋などでは
蓮飯、なるものも出した、という。


大田南畝先生、五十五歳の頃の日記『細推物理』には、
こんな記述がある。



つとにおきて、不忍池のはた、蓬莱楼にて蓮飯くはんとて、


馬蘭亭(人の名前、狂歌仲間)をとふ。(中略)蓬莱楼に


いたれるに、池の面蓮の花さかりにして、ちり過ぎたるも


みゆ。鷭(バン、水鳥)の水草がくれに鳴など、唐の画に


てもかかまほし



大田南畝全集第八巻:岩波書店



蓮飯、とは、どんなものであろう。
食ってみたいものである。


あるいは、こんなものもある。
季節は違うが、冬枯れの不忍池




蓮枯て弁天堂の破風赤し




根岸在住の頃であろうか、子規の句である。
お堂の赤い色が目に浮かぶような印象的な句である。


また、断腸亭、荷風先生は、




不忍の池に泛(うか)ぶ弁天堂と其の前の石橋とは、上野


の山を蔽ふ杉と松とに対して、又は池一面に咲く蓮の花に


対して最もよく調和したものではないか。



永井荷風・日和下駄:講談社文芸文庫




と、南畝先生と同様、蓮の花、弁天堂、上野の山の緑の
調和した美しさを指摘している。


蓮玉庵ができた頃の話、で、ある。


蓮の花は今でも、夏になると咲き、上野の山も
一応のところ、緑は茂っている。
しかし、書かれているような美しさを、
今、不忍池、上野の山で感じることは、難しかろう。


様々なビルが立て込んでいるまわりの景観だからであろうか。


今度また、上野の山に登って、不忍池を眺めながら
考えてみようか。









 

蜀山人 大田南畝先生その後 2.


今日は昨日の続き。
蜀山人大田南畝先生の後半生とその人生について考える。



*************


■第一回「学問吟味」受験。屈辱の落第。



寛政四年、南畝先生四十四歳の年である。


松平定信は、寛政の改革の一環として、幕臣の人材登用のための試験
「学問吟味」を、昌平坂学問所で行なっている。
これに、南畝先生は、若い幕臣に交じり、半白の頭で、
受験をしているのである。


むろん、成績は優秀であったのだが、この時は、
この試験の事務官であった、森山源五郎(孝盛)という者によって、
落第させられた。
この森山は、「平生(へいぜい)大田を憎悪し」
「人格の点で高級幕吏には不適格」(「大田南畝」浜田儀一)である、
というのが理由であるといった。
森山は、南畝先生と同様にこの時代、随筆家としても
数えられ、先生の名声に嫉妬し、落とした、という
噂も立った、らしい。


そもそも、なぜ、南畝先生は、こんな若者向けの試験を受けたのか。
積極的に、受けたのであろうか。


これには、まずは、御徒の組頭をはじめ、周囲の勧めがあったらしい。


先にも(昨日配信分)指摘をしたが、時代が変わり、筆を折った、
これは一つの選択肢として、わかる。
そして、しばらく、ほどぼりが冷めるのを待ち、また
書き始める、と、いう選択肢もあったのではないか、と、いう疑問である。


実際、この寛政四年以前にも人材登用令があり、
「この機会に南畝に期待する声は近辺にあるいは江戸中に高かった」
(前出・浜田)が



「『歩兵還(ま)た禄(ろく)あり、


笑うなかれ、儒と為らざることを。』


御徒の身分でも俸禄はもらえるから、別に儒者になりたいとは思わない。


どうか笑わないでくれ」(前出)。



と、いうことで、やはり、先生、受験などしたくなかったのである。
ひっそりと、暮らしていたかったのではなかろうか。
(ここでは、また書き始めたいかどうかは、おいておくとして。)


それ以前の、先生の名声、がそうさせなかった。
不本意ながら、人材登用試験を四十四歳にして、受けさせられた、
と、いうことだったのではなかろうか。
そして、嫉妬、嫌がらせによって、落とされた。


これはショックであろう。屈辱以外のなにものでもない。
江戸随一の花形知識人として名を売った先生が、受けたくもない
人材登用試験を若者とともに受けさせられ、挙句の果てに落とされた。
「ふざけるな!、もういい!」、と、筆者なら思う。


しかし、これが、「組織」というものである。


筆者も、四十を越した、サラリーマンである。
むろん、よくわかる。会社などでは、よくあること、で、ある。
出世できるかどうか、は仕事ができるか、ではない。
むろん、できなくてはだめだが、日々のつき合い、
様々なしがらみ、派閥、、その他色々、、。


そしてまた、「あいつは、ああいう奴だ」という、一度付いた
評判、特に悪評、というものは容易には変わらない。
これも組織という中では怖いことの一つであろう。


南畝先生の場合、田沼時代には、調子に乗って時代の寵児として、
ふざけた狂歌を作り、豪遊し、はしゃぎ回った男。
そして、真偽のほどはともかく、例の「ぶんぶ」の落首の作者とされた、
批判分子、そんなレッテルである。


南畝先生だとて「自分のしてきたことではあるが、
なんで、俺は、こんな目に会わなければならないのだ」と、
思ったはずである。



■やっと合格、そして任官、しかし、、甘くない。


そして、その二年後、四十六歳の南畝先生は、
第二回の「学問吟味」を再度受験し、今度は見事に、主席で合格している。


この二年の間に南畝先生に、なにがあったのかは研究書ではわからない。
童門冬二氏の「沼と川の間で・小説太田蜀山人」では、
先の、嫌がらせをされた、森山某に、親しい先輩の周旋で、
不本意ではあるが、詫びを入れた、という話にしている。
そういうことも、想像できなくはない。


しかし、この二回目の受験前後の、作(詩)をみると、
先生の心境には、なにか、“ふっきれた”様子がある。
よくわからぬが、ある種、諦め、の境地に達していたのかもしれない。


「俺が生きていくには、ひっそりとしていることも許してもらえず、
組織人として、頭を低く下げ、へこたれず、くさらず、前向きに生きよう。」


そんな心持であろうか。


表現者であり、花形知識人としてのプライドもあったであろう、
南畝先生が、ここまでの境地によく達したものである。
筆者などであれば、とうにくさって、投げ出しているのではなかろうか。


この試験の褒美で先生は、お上から、銀十枚をもらっている。
これを十九年前、御徒の役目で「日光御社参の時に
賜った弁当籠に収めて、蓋の上に銘を書いた。それには
「身歩兵に籍、業散儒に類す」−−御徒の職にありながら、
文筆三昧に耽ったのを恥じ、ここに賜銀を封じてみずから戒めるとある。」(同)。


洒落であろうか?これが本当に、本心であったのかどうか、、、。


さて、しかしで、ある。
合格したとはいえ、南畝先生、
その後しばらく、そのまま御徒を勤めさせられた。
勘定奉行配下の、支配勘定という役目を仰せつかったのは
やっと二年後、四十八歳の年。俸禄は、百俵五人扶持と、暮らしは、
やっと、少し楽になった。


この二年は、嫌がらせであろうか。
わからぬが、合格はさせたが、そうは、甘くない、ということを
示したかったのであろうか。
いやはや、たいへんである。


役目に付くと、南畝先生は、先に述べたような決心のもとか、
古い文書整理など、面倒な仕事もやらされるが、
前向きに着実に、与えられた仕事に励み、
事務処理能力も発揮し、成果をあげてもいる。


この真面目さはなんであろうか。サラリーマンとして考えれば、
適当に、可もなく不可もなくコナス、こともできたはずで、ある。
なぜ、であろうか。
この年で、出世したい、という欲がそれほどあったのであろうか。
あるいは、文人として名声を馳せた自分へのプライド、で、あろうか。
(小役人の仕事など、俺ならばチョチョイと、120%やってやるよ!、
と、いうような、、。)
または、正真正銘幕臣としての責任感なのか。


(この文書整理でおもしろい歌をよんでいる。
 



『五月雨(さみだれ)の日もたけ橋の反古しらべ 今日もふる帳あすもふる帳』


 文書整理は竹橋の倉での作業であったという。反古(ほご)は、古い紙。


 「ふる(古)帳」は、「ふるてふ」で、
 「(雨が)降るという」、の意。「今日も、明日も五月雨が降るという」 にかけている。)



ともあれ、その後、そこそこ、目をかけてくれる、上司もいたらしく、
勘定方ではよい役目とされる、大坂の銅座へ転勤などしている。


しかし、その上司がいなくなると、五十五歳で、長崎奉行所へ転勤。
これは左遷であったという。
そして、最もひどいのが、六十歳で玉川(多摩川)の巡視という役目
につけられた、ということであろう。
この時代であれば、六十歳など、よぼよぼの老人である。
羽田から八王子まで堤防の状態などを、それも真冬、四ヶ月間
徒歩で調査して回った。


結局、最初に貼られたレッテルは、
最後までついて回った、のであった。


南畝先生は、子息の病廃などもあり、隠居もできず、
亡くなる五年前の、七十歳まで役目についていたようである。
まったくご苦労様である。


幕臣としてはこのように、恵まれたとはとてもいえない、
いや、散々な人生であったわけである。


しかし、一方、文人としての南畝先生は、後半生、
さほどに悪くもなかった。


勘定方になった後、特に、長崎から後は、
大名などとの交際もあり、江戸はもとより全国で、
その名声は衰えなかったようである。
そういう意味では、狂歌作家の活動はやめていても、
スター性といったらよいのか、人をひきつけるものは、
最後まであったようである。
(それがまた、嫉妬を買い、齢(よわい)六十にして
多摩川っぺりを歩き回らせることになった、と、いう指摘も、ある。)



■南畝先生の評価?


さて、蜀山人 大田南畝先生、どんな人生だったのであろうか。
幕臣として、幕府の役人として、文人として、、これだけの波乱万丈。
幸せであったのであろうか。満足して冥土に旅立ったのであろうか。


正直にいうと、まだ、よくわからない。


先の童門氏は、南畝先生自身「満ち足りていた」、と締めくくっているが、
そうであろうか。筆者にはそうは思えない。
後悔はしていなかろうが、満足ではなかろう。
あったのは、諦観、であろうか。
(諦観を含めて、満ち足りていた、ともいうこともできようが。)


ただ、今、思うことは、残した狂歌の作品よりも、
表現者であり幕臣でもあった、大田南畝という人、
その人生そのものが、一つの作品のように思えるのである。
そうとしか、いいようがない。
それだけ南畝先生の人生には、魅力があると、思うのである。


では、狂歌師としての評価はどうであろうか。
これもみておかねばなるまい。


いわゆる文芸性、芸術性を問われると、
一般に昔から、さほど高くはない。
いわゆる、書き散らした作も少なくはないようである。
しかし、当時、江戸庶民が支持をしたのは、芸術性などではなく、
切れ味、の、ようなもの、で、あろう。


二、三、挙げてみる。




『金銀のなくてつまらぬ年の暮れ なんと将棋のあたまかく飛車』




「つまらぬ」は、「詰まらぬ」。将棋の詰むと、年が詰まる、
おもしろくない、意の、「つまらぬ」。
「なんと将棋」は、「なんとしょう」(なんとしよう)。
「かく飛車」、は、「角、飛車」。
駄洒落であるが、これだけ洒落ていれば、見事としかいいようがあるまい。
好き嫌いでいっても、筆者は好きである。




『月見れば千々に芋こそ食ひたけれ わが身ひとつのすきにはあらねど』


馬鹿馬鹿しいが、おもしろい。


『春がすみ立ちくたびれてむさしのの はら一ぱいにのばす日のあし』


これなどは、のどかで、よいではないか。


狂歌師、大田南畝の評価は、洒落て、粋で、切れ味のある、
落語などを生んだ、江戸化政文化の先駆けとして
間違いなく、大きなベースになっているといえよう。


しかし、そうした狂歌師としての評価より以上に、筆者は
先に述べたように、本当は、先生の人生そのものが
一つの表現作品として評価されてもよいのでは、と、思うのである。


狂歌の作品も含め、役人として再出発せねばならなかった後半生、
そこに至るまでの葛藤も全部込みで。


これだけ、ドラマチックな(幕臣表現者としての人生は
そうそうないのではなかろうか。


後半生の役人としての人生も紛れもなく、表現者であるからこそ
生まれてきてしまった、ことだからであるし、受験やら、
それぞれのターニンングポイントで、選択をしたのも
表現者大田南畝自身であるから、筆者はおもしろいと思うのである。




(まだ消化不良である。前にも書いたが、
筆者がサラリーマンをしながらこんな文章を
書いているからであろうか。
わからぬが、煎じ詰めると、この人、なにか好きなのである。
はしゃぎ方が好きだし、屈折のし方も惹かれる。
もっともっと、掘り下げて、考えたい、
そんな思いにさせる大田南畝という人である。
また、別の形ででも、書いてみようかと思っている。)




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参考:大田南畝 浜田義一郎 吉川弘文館


  :蜀山人の研究 玉林晴朗 東京堂出版


  :沼と川の間で・小説大田蜀山人 童門冬二 毎日新聞社



蜀山人 大田南畝先生その後 1.


先日書いた、筆者が妙に惹かれる大田南畝


もともとは、「恐れ入谷の鬼子母神・・」が大田南畝の作である、
ということを確かめるために調べ始めたのだが、
調べていくうちにもっともっと、南畝先生のことが、
知りたくなってきた。


そして、「蜀山人 大田南畝先生」ということで、
三十代までの前半生のことを書いてみた。


「蜀山人とあいやき」


「蜀山人 大田南畝先生」


今日は、「その後」、と、いうことで、少し長くなるが、お付き合い願いたい。
(恐縮であるが、ここから読み始めた方は、上のページと合わせて
お読みいただきたい。)


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大田南畝先生。幕臣として御徒(おかち)の役目を勤めながら、
30代、人気実力ともに、江戸第一の狂歌師、
一流の文化人、知識人として、肩で風を切って
江戸の高級料亭やら、吉原やら、遊び歩いていた。


そんな、南畝先生にも転機が訪れる。
南畝先生だけではない。時代が180度転換してしまう
出来事が起こったのである。


池波作品をお読みの方であれば、
(筆者のこの文章を読んでおられる方々は、ほとんどが、
池波ファンなのであろうか。いつも、なんとなく、
その前提で書いていたりする、のであるが、、。)


ご存知であろうが、老中田沼意次
剣客商売では、大治郎の妻、三冬の実父、で、ある。


その田沼意次が失脚してしまったのである。



■田沼時代


老中田沼の時代をどのようにとらえるのか。
この文章の主眼ではないが、その後の松平定信寛政の改革を含め、
時代背景を抜きにして南畝先生を考えるはことは、ありえない。
簡単に触れておきたい。


池波先生などは、重要な役割として作品に登場させており、
政治家、田沼意次としても一定の評価をされている。


今現在、日本史(近世日本政治史、というのであろうか。)で、
田沼政治はどのように、評価されているのか、筆者はよく知らないが、
一般には今まで、いわゆる、賄賂政治、金権政治の見本のような
とらえられ方をしてきたように思う。


江戸時代、まずは米を基本とする、米経済であった。
南畝先生を含め、武士たちは、給料を米でもらった。
七十俵五人扶持、というやつである。


しかし、江戸という大都市で武士が暮らすには、その米を
金に換えなくてはならない。(これが札差の仕事であった。)


米経済が基本のはずが、実際には商品経済、貨幣経済が進展し、
武士たちは、経済の実権を商人達に奪われ、生活に窮していく。


江戸半ばの南畝先生の時代には既に、そういう状態になっていた。


江戸初期の頃はともかく、平和な時代が続くと、
物(商品)の生産が活発になり、それを売り買いするのは、
お金、ということになってくるのである。


そもそも、米経済、と、いうのが、江戸時代、本来的に、
矛盾を抱えていた、と、いうことになるのである。


そこで、田沼政治は、それまで、江戸幕府では、商人には税を課して
こなかったのだが、その方針を転換した。
商人を認め、保護すると同時に、はじめて、
運上(うんじょう)、冥加金(みょうがきん)という名前で
課税するようにした。これは、いわゆる、重商主義である。
しかし、田沼意次の政治はそれだけではない。
印旛沼の開拓など、農業の振興策も行っていた。


農業と商業、どちらも伸ばそうという、重商重農主義、である。
これはこの時代の政策として、歴史的には一定の評価を与えて
しかるべきであろうと思われる。
(池波先生もその立場、で、あったろう。)


しかし、その課程で、商人からの金品をもらう。田沼意次を頂点として、
そこに群がる、大名、旗本達、、。
そんな構図、も同時にできあがっていったのである。


しかし、経済は活発となり、
幕府そのものの金蔵も潤ったことは、事実であった。



■文化的には、、。


今考えれば、バブル、の時代、と同じようなことなのかも知れぬ。
そんな田沼政治を背景に江戸の町人文化も一気に花開いた。


それが、歌舞伎であり、南畝先生などを中心とした、狂歌
山東京伝などの黄表紙(庶民向けの小説、で、ある。)、
浮世絵で有名な東洲斎写楽も、この少し後である。


筆者には、真田広之写楽葉月里緒菜が吉原の花魁を演じた、
映画「写楽」を思い出す。
これをみれば、この時代がわかりやすいように思われる。


そして、忘れてはいけないのが、この映画では、
フランキー堺が演じていたが、蔦重(つたじゅう)こと蔦屋重三郎
彼は、当時の版元(出版社)でありプロデューサー、
文化の仕掛け人、で、あった。


また、現代まで続く落語の始まりも、この頃。
談州楼焉馬(だんしゅうろうえんば)によって
人を集めて行う「落とし噺」として、今の落語の原型が
できてきたようである。


(落語の成立をもっと以前、江戸初期の鹿野武左衛門にする
考え方もあるが、筆者は、時代的な連続性として、この頃とするのが
妥当であろうかと思われる。余談だが、談州楼焉馬には、色々な顔があり、
戯作者、浄瑠璃作家、大工の棟梁でもあった。南畝先生が晩年に住んだ、
神田駿河台の家は、焉馬によって建てられたという。
彼には、立川焉馬、立川談州楼という名前もあり、当代立川談志
まで続く、「立川」の祖、かもしれない。(これは未確認です。
またまた、調査課題にします。))



田沼意次の失脚、松平定信寛政の改革。南畝先生、筆を折る。


さて、そんな華やかな時代であったのだが、天明6年、1786年
南畝先生38歳の年、田沼意次が失脚する。


代わって登場したののが、謹厳実直、
祖父の吉宗の政治を理想とした、松平定信であった。
田沼政治を一掃し、重商主義を廃し、重農主義一本。
札差に借金で抑えられていた幕臣達を救うために、棄捐令
(きえんれい)といって、借金の棒引き、札差側からいえば、
踏み倒しを行ったり、、。


政権の交代とともに、田沼政治に連なっていた、旗本達も一掃された。
南畝先生は、それに連座していた、ようなのである。


田沼の腹心の一人であったという勘定組頭、土山宗次郎が、
田沼失脚後、公金横領などの罪で、処刑された。
直接、金品の援助があったのかどうかは、わからないが、
南畝先生は宴席などにも呼ばれ、付き合いがあったのである。


また、南畝先生が青年の頃からの狂歌漢詩の仲間として、親しく
(年齢は南畝先生の二十三歳も年長であるが)
新宿の煙草商であった、平秩東作(へずつとうさく)が追放。
東作は、土山の密命で蝦夷地の探索なども当時行っていた、
のであった。


また、他に、黄表紙作家の山東京伝は、手錠50日。
先の蔦重こと蔦屋重三郎は身代半減(しんだいはんげん)など
定信の寛政の改革で弾圧を受けた文人も多かった。


このあたりから、南畝先生にも直接、冷たい風が吹き始めた。
時代が一気に変わったのである。


最も顕著な話が、例の


世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず


という狂歌、落首、であった。


これは、華美を廃し、文武を奨励した松平定信
揶揄したものだが、前にも書いたが、現代でも、文学史上、
南畝先生の作であると、されてもいる。


この落首が江戸城内でも話題になってくると、誰いうとなく、
南畝先生こと、大田直次郎が作ったのであろうという、ことになっていく。
南畝先生は、上司である、御徒の組頭に呼ばれ「お前が作ったのか」と
詰問されるが、これに対して、南畝先生は、否定している。


ここから、南畝先生は自ら筆を折り、狂歌を作ることを
一切やめ、また、それまでの文人仲間との付き合いも、絶ち、
御徒という幕臣としての役目一本で、
いわば、逼塞(ひっそく)生活を始める。


ここが、南畝先生を考えるうえで、まず一つのポイントである。
当時、彼のような武士作家は少なくなかった。


南畝先生と同様に筆を折る者もいたが、
当時の黄表紙作家では一、二の人気を誇り、駿河小島藩士でもあった、
恋川春町は、反発し、政治を揶揄する作家活動を続けたが、
幕府から取り調べを受け、自殺に追い込まれた、というような例もあった。


作家として、表現者として、どちらの道を選ぶのか、なのである。


あるいは、ほとぼりが冷めるまで待つ、というような手、も、ある。


南畝先生の場合、先の、処刑された、土山との付き合い、
などもあり、組頭に詰問されただけでなく、
命の危機、も、もしかしたら、予測されたのかもしれない。


しかし、いずれにしても、同じ文人仲間でも、
彼は真っ先に筆を折っている。
このあたり、変わり身の早さ、転向のすばやさが、この当時も
その後、文学史上の評価でも、非難されている点、で、ある。


考えてみるに、南畝先生の他の文人と違う点は、
恋川春町などが大名の家臣であったのに対して、幕臣であったということである。
最下級であれ、徳川幕府直参の御家人という身分。
幕臣という社会的責任の重さとプライド、その両方だったのかもしれない。


さて、そして、ここから始まる、先生の後半生が、実に、おもしろいのである。


寛政四年、南畝先生四十四歳の年、
松平定信は、寛政の改革の一環として、幕臣の人材登用のための試験
「学問吟味」を行う。
これに、南畝先生は、受験しているのである。






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今日はここまで、続きは明日。




参考:浜田義一郎著 大田南畝 吉川弘文館



蜀山人 大田南畝先生・前半生


さて、今日は昨日の続き。
と、いっても、鴨の続きではない。


蜀山人、のことである。


例の課題は、まだわかっていないのだが、
なにかやはり、この人ちょっと、おもしろいのである。
まだまだ調べ始めたところであるが、
少し書いてみたい。


蜀山人の研究書は、さほど多くはないようである。
今、読んでいるのが「大田南畝浜田義一郎著 吉川弘文館
全集も出ているようではある。
(小説は平岩弓枝「橋の上の霜」、
童門冬二「沼と河の間で・小説大田蜀山人」)


大田南畝は、おおたなんぼ、と、読む。


1749年寛延2年に生まれている。
江戸時代が、ご存知の通り1603年にはじまり、
1867年に終わっているので、ちょうど、真ん中。


吉宗の時代の後の、田沼時代にあたる。
文化的には、上方の色合いの濃い元禄の頃から
江戸独自の文化が芽生え始めた頃。
幕末にはまだ、100年ある。


本名は、大田直次郎。南畝は、号、で、ある。


昨日書いたように、牛込御徒町御徒組という役目で
最下級といってもよいような、七十俵五人扶持、
貧乏御家人の家に生まれた。


想像するに、庶民の長屋、などが落語にはよく出てくるが、
それに比べても、一応のところ庭はあるが、荒れ放題。
むろん使用人も雇えず、子供が3〜4人もいたら、それはもうたいへん。


よく、昔の時代劇の啖呵(たんか)で、武士に向かって、
町人が、「なにをいってやがんだ、このサンピン!」
というのがある。この“サンピン”は、三十俵一人扶持の略である。
実際にそこまで少ない扶持があったのかどうか、わからないが、
七十俵五人扶持というのは、かなり苦しかったようである。
(そこで一般には、内職をする、ということになる。
朝顔を作ったり、というのがそれである。)


南畝先生の、最初の出版が19才。
若い頃からかなりの天才ぶりを示していたようである。
「寝惚(ねぼけ)先生文集」という名前で、内容は、おもしろおかしい
漢詩=狂詩、と、いうものであった。


作者名がまた、ふるっている。
陳奮翰子角(ちんぷんかんしかく)、安本丹親玉(あんぽんたんおやだま)、
滕偏木安傑(とうへんぼくあんけつ)。
むろんこれらは、南畝先生自身であるが、
このふざけ方が、なかなかよいではないか。


内容も、当時としては画期的であったらしい。



『先生寝惚ケテイヅクニユカント欲ス、上下(かみしも)チギ果て、


大小キタナシ、憶(おも)ヒ出ス*算用昨夜の悲シミ、


昨夜ノ算用立タズと雖(いえど)モ、武士ハ食ワネド高楊枝。』


(「寝惚先生文集」元日篇・「大田南畝浜田義一郎著より)




四民の長であるはずの武士が、この時代既に、貨幣経済
商品経済の進展とともに、商人の力が増し、実際には生活が
立ち行かなくなってきていた。
先に述べたように、貧乏御家人である南畝先生は、
「そういう矛盾を自分の経験として歌い上げている」。(前出・浜田)
そこが「当時の知識階級である武士たちの同感を誘」(同)
った、と、いう。


しかし、まあ、この狂詩というもの、なかなかに読みにくい。


南畝先生の当初の役目は、祖父、父の跡を継ぎ、御徒(おかち)。


当時、武士は、下級であれ、むろんのこと筆は持てて、
漢文が読め、そして書けて、と、いうのが、
当然のことであった。公用の文書はもとより、
手紙や日記なども含めて、男の書き言葉は、
漢文、もしくは、漢文調が主体であった。
(それに、和歌、俳諧など、も一般教養としてできた。)


知識人であることは、当時、このあたりは常識であり、
明治になれば、さらに英語が読めて書けることが加わる。
夏目漱石やら、永井荷風先生も和漢文、英語、読めて書ける。
(二人とも、洋行をしているので、あたりまえといえば、あたりまえだが、
共通して、江戸の武士階級の教育の流れを汲んでもいる。


筆者など、筆はもてないし、漢文もある程度は読めるが、
むろん書けない。英語も四苦八苦、で、ある。


そんな背景もあり、南畝先生は、先に引用した、
「寝惚先生」も含めて、おもしろおかしい漢詩=狂詩、という
ジャンルのものを、たくさん書いている。


ともあれ。
南畝先生は、20代、知識人かつ、軽文化人として、
御徒勤めをしながら、江戸において、その名を高めていった。


南畝先生が最もブレイクしたのは、30代。
田沼意次若年寄になったのが、35歳の頃。
世相というものもあったのであろう。


江戸の歌舞伎、吉原などの当時の芸能・社交界で、
狂歌が大ブームになり、その中心には、南畝先生がいた。


当時の有名料亭やら、吉原の大店(おおみせ)などに毎日のように
出入りし、会を催し、遊び興じた。


むろん、先生は貧乏であるから、手銭(てせん)ではなかったろう。
こうした店々の旦那達もまた、当時一流の文化人であった。


吉原の大店(大籬・おおまがき、ともいった。)では、
大文字楼などという名前がよく出てくる。
主人は加保茶元成(かぼちゃもとなり)という狂名(狂歌をよむ際の
ペンネーム)も持つほどの文化人でもあった。
(余談だが、この店は戦争まで続いていたところ。
「吉原大正私記」(波木井皓三・青蛙房)というのを読んだことがある。
明治の頃、この大文字楼に生まれた方が書かれたもの。
この本、当時の生の声として、興味深い。)
また、先日の、蔵前の札差の主人も、文化的パトロンとして
同様の役割を果たしていたのであろう。


さて、南畝先生は、1823年文政6年、75歳まで長生きをしている。
いわば、このあたりまでで、半生、である。
ひとまず、ここまでで今日はまとめてみる。


南畝先生、センスがなにより、よい。筆者は、好きである。
そして、もう一点、おもしろいと思うことがある。


それは、御徒という仕事(役目)を一応のところ勤めながら、
貧乏生活をしながら、狂歌作家、花形文化人として、
最先端の“飛んだ生活”もしていた、というところなのである。


むろん、筆者などその才として、比べものにはならぬが、
筆者も、南畝先生の住まわれていた、牛込御徒町のごく近所で
最下級の(?)サラリーマンを一応のところ勤めながら、
こんな文章を書いたり、してもいる。
(今のところ、文章はほとんど金にはならないが。)


南畝先生、どんな心持、バランスであったのであろうか?
気になるのである。



*算用:掛買い(ツケで買うこと)の清算、支払い。
(参考、新日本古典文学大系 岩波書店