浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



上野・洋食・ぽん多本家

dancyotei2017-05-24

5月19日(金)

金曜日。

なにを食べようか。

今日の東京の最高気温は26℃。
体感的にはむろんもっと高かった。

ただ、夕方になってだいぶさわやか。

五反田駅から山手線に乗って、御徒町

今日は、夕方から肉の気分。

とんかつ。

久しぶりに、ミシュラン[とん八亭]
とも思ったが、金曜は昼のみの営業。

それじゃ[ぽん多本家]だ。

とんかつといって、この店を出すのは、
失礼ではある。
ここは洋食や。

ただ、とんかつは上野発祥といわれ
(これも神話ではあるが。)
その発祥と思われる、明治末から昭和初期にかけての
創業の老舗が三軒。
この三軒を上野とんかつ御三家などと巷ではいわれている。

すなわち[ぽん多本家][蓬莱屋][井泉]。
それぞれ、明治38年、大正初年、昭和5年

[ぽん多本家]が最も古い。

とんかつというのは、明治の頃は洋食やのポークカツレツ
というメニューであったわけである。

少し前に丼ものの歴史について、明治初年からの新聞記事を
検索して、いつ頃どんなものがどんな風に食べられていたのか
そこそこ実証的に調べてみたことがあった。
そこで、とんかつもおまけに調べてみたのである。

やはり大正時代にカツレツからとんかつという言葉に変化し、
一般化していることは間違いないようである。

[蓬莱屋]の創業は屋台であったというが、
そんな風にして、洋食やから当時人気メニューであった
カツレツが独立してカツレツ改めとんかつだけを
出す店ができていったと私は考えている。

そんな風に見ると、この3軒は少しずつ時代がずれて、
洋食やから独立し、屋台で始めて[井泉]創業の頃には
とんかつやとして一般化していた、とそんな流れ
だったのかもしれない。

ちなみに[ぽん多本家]は先に書いたように、洋食やを
名乗っているし、とんかつではなく、今もカツレツである。

さて。

上野広小路の春日通りの交差点から東に入る通りの南に二本目。

広小路が斜めにカーブしているところである。

店に入って、一人といって、先客が右端にあったので、
カウンターの左端に座る。

瓶ビールと“カツレツ”頼む。

静か、で、ある。

この店は、ほんとうに静か。
目の前は調理場だが、手を動かしている3人もほとんど
口を利かない。
それぞれ連携して作業をしているのであろうが、
阿吽の呼吸というやつなのであろう。
むろんBGMもない。
よいものである。

ビールがきた。

毎度書いているが、ここのお通しがよい。

前回は、いか下足のぬたであったが、今日は豚角煮。

同じものが出てくることはほぼないのではなかろうか。

豚角煮も、洋食やのものではない。
和食のものである。

カツレツもきた。

右上に添えられているのは、ポテトフライ。

衣のついたフライドポテトなのだが、知っている人は
そう多くはないかもしれぬ。
下町では肉やのコロッケよりも安い、子供のおやつ、おかずであった。
じゃがいもを衣をつけて揚げたものである。
今ではほぼ姿を消しているのではなかろうか。
池波先生は子供の頃大好きで、ポテトフライの正ちゃんで、
ポテショウというあだ名で呼ばれていたと聞いたことがある。
ほくほくで、うまい。

肉のアップ。

薄い揚げ色に、肉の切り口は、ほんのりピンク。

やっぱりここのカツは塩で食べたい。

肉のうまみがダイレクトに感じられる。

薄い揚げ色というのは、低温で長めに揚げている
ということであろう。
そうすると、普通は油切れがよくない。
ごくたまにではあるが、ここもそういうことがあるが、
今日は成功。
どんな技なのか。

これはもう塩しかない。

かみしめて、食べたくなるポークカツレツ。

うまかった。

ご馳走様です。

勘定をして出る。

出ると通りには灯りの入った提灯。

お祭である。

町会の名前が上で、下には名前。
東黒門、そして、個人名であったり、店の名前だったり。
ここは、五條天神であったか。
東黒門(ひがしくろもん)町会。

この土日は三社様もであった。
重なっているのかぁ〜。

まさに、下町は祭シーズンピークである。

 

台東区上野3-23-3
03-3831-2351