浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



煮物は炊く?

dancyotei2013-06-19


今日は、最近ちょっと気になった言葉のこと。


一つは「炊(た)く」という言葉である。


主として、食レポートのTVで、である。


東京で「炊く」という言葉は、まあ、ご飯ぐらいにしか
本来は使わない(なかった)。
むろん、私自身は今でもそうである。


最近、TVで煮物などにもこの「炊く」という言葉を使っているのを
聞くことがあった。


TVの言葉は東京の言葉を基にした『標準語』と呼ばれるものだと
思っていたのだが、段々にこれも変わってきているのかもしれない。


私は東京で生まれ育った人間ではあるが、
関西では、煮ることを、炊く、というのは、むろん、知っている。
(関西といっても、どのくらいの範囲で煮ることを、炊くというのかは
知らないが。)


大根を炊く、お豆さんを炊く、などというように。


別段、関西の人が関西の食い物に対して、炊く、というのは
むろん、よい。至極まっとう。


ただ、東京の、それも下町の食い物やの料理の説明に、
炊く、という言葉を使ったナレーションを
付けているのには、引っ掛かりがあったのである。


例えば、関西で割烹料理などの修行をした板前さんが
東京で店をやっているのだが、炊く、という言葉を使う。
これはわかる。修行中から使い慣れた言葉を
使った方がしっくりくることであろう。


しかし、おそらく、私でなくとも、一般の東京で生まれ育った人であれば
炊く、をご飯以外には今でも使わないはずである。
その下町の食い物やの方は、炊く、とはきっと言っていないかと
想像する。


そのTV番組は毎週やっているが、複数の週に渡って
煮ることを、炊く、とやっていたので、この台本を
書いている放送作家は、特段の疑問なく、炊くを使っている
のであろう。


TVでは関西のお笑い芸人の進出によって、
関西弁がTVで常に聞かれ、若い人は関西弁の語彙を
東京でも疑問なく使いつつある。


「メッチャ」など、若い人は多用するが、
典型的な例であろう。もはや完全に標準語である。


また、お笑いではないが、これは野球から。
少し間から使われているが、ど真ん中。
「ど真ん中のストライク」、で、ある。
ついでに、ど根性、ど阿呆、など強調の、ど、も、
関西弁であるが、東京でも一般に使われていよう。


もう一つ、こんな例はいかがであろうか。


「あて」。


酒の肴のことである。


やはりこれも、東京人は使わない。
(関東、東日本広く、そうではなかろうか。)


「つまみ」であろう。


とある現役有名時代小説家の江戸下町を描いた作品に
この、酒の「あて」という言葉が出てきて、そうとうな
違和感を感じた。
ちなみにこの方は、関西の出身である。


私の感覚では、東京や江戸の風物に対して、
「あて」や「炊く」といった、関西弁を使われると
まるっきりピンとこないし、興醒め以外のなにものでもない。


昭和の頃であれば、江戸弁を喋るべき東京の落語家には
地方出身の人はなれないとまでいう人もあった。


そういうこだわりというのか、違和感は、長い間、強く
東京人にはあったと思われる。


まあこれは、以前は度がすぎて、江戸っ子を振り回す、
江戸っ子風を吹かすといって、イヤミなことにもなって
いたことは否めない。


漱石の「坊ちゃん」では、野だいこ、というのがでてくる。
こ奴は、いわゆるベランメェの江戸っ子とはちょっと違って、
文字通り落語に出てくる野幇間(のだいこ)のキャラクターだが、
漱石は、この者を『江戸っ子』を振り回す唾棄すべき者として
扱っている。


池波先生なども、ご自身はいわゆる定義上では正しい江戸っ子だが、
江戸っ子という言葉は嫌いで、小説にもエッセイにも一切使われなかった。


私が子供の頃、40〜50年前までは、まだこういう風潮は
まわりに十分にあった。


特に、私の家は長野県出身の母親以外は、親父も爺さんも
昔の江戸っ子という定義には外れる東京府荏原郡の出ではあるが、
江戸っ子、あるいは、東京人意識は強かった。


爺さんも婆さんも「ヒ」と「シ」の区別がなかったし、
今はまったく東京で意識なく使う、○○じゃん、という語尾。
小学校で覚えてきて私が使うと「それは横浜の言葉だ」と親父に
たしなめられたりもした。


ともあれ。


少なくとも『標準語』=『東京の言葉』というは
完全に終わったのかもしれない。


まあ、TVや、例えばビジネスで使う、あるいは国語の教科書で
教える言葉としての『標準語』は別段、東京の言葉でなくともかまわない。


もちろん、東京の言葉だって時代によって変わっていく。
これは抗いようがないのもわかっている。


ただ、東京とはいえ、ローカルな文化がある、あるいはあった、ということも
わかっていただきたいのである。
東京だからが故に、あまりにも、意識されなさすぎる、と、思うのである。


もう少しいうと、これはなにも東京に限った話しではなく、
お互い様のこと。言葉の使い方に対する感受性、あるいはローカルな
文化への配慮というようなことになるように思う。


毎度書いているように、東京では「通り」だか、
関西は「通」一字で「り」を送らない。


私は東京の街では「靖国通り」だが、
京都では「四条通」と書くようにしている。
大袈裟なようだが、言葉というのはその地域の文化そのものといってもよい。
「り」を送るか送らないかは私は大きな違いだと思うのである。


ともあれ。


少なくとも私の感覚では、東京下町の惣菜やの煮ものに
「炊く」は、使ってほしくない。


また、浅草阿部川町の長屋で職人が夜呑む一合の酒の脇にあるものには
「あて」ではなく、「つまみ」あるいは「肴」という言葉を
使ってほしいのである。


江戸っ子を振り回す、なんというのは、遥か昔。


もはや風前の灯?、いや、既に滅んでしまっているものなのか。


やはり、少し悲しい。