浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

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池波正太郎と下町歩き12月 その7

現代の地図




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江戸の地図


『講座』の12月。
昨日は、蔵前の由来である、幕府の米蔵
浅草御蔵について。


今日は、その米蔵の前町である、御蔵前片町を
中心にこの界隈に軒を連ねていた、札差のこと。


札差は江戸期旗本・御家人に対しての金融業として栄えたもの、
といってよかろう。


まずは、「札差」の由来、から。


昨日説明した、蔵米取の旗本・御家人達は、年三回の
米受け取りの当日、米と引き換えのために持参した手形を
割竹に挟み、御蔵役所の入口に用意された大きな藁束の棒に
差して(差し札)支給の順番を待った。


これを米屋などが代行するところから札差は始まっている。


代行することにより礼金を受け取り、次第に彼らの蔵米を担保に
旗本・御家人相手の金融業者となっていった。


ここから、1724年(享保9年)、浅草御蔵前周辺の米問屋などが
株仲間として町奉行に願い出て公許となったのが札差である。


当初、御蔵前片町、旅籠町一、二丁目、新旅籠町、茅町1、2丁目、
平衛門町、瓦町、天王町、猿屋町、福富町、諏訪町、森田町
黒船町にわたり、計109軒で、出入りはあったが、
幕末までこの体制が存続した。


旗本・御家人は決まった札差と取引をし、
取引相手の旗本・御家人を札旦那、
反対に旗本・御家人からは自分の札差のことを蔵宿と呼んだ。


年利一割五分
札差から旗本御家人への貸付利息は年利一割五分と当初決められた。
(実際にはこれに2分上乗せされた17%程度が実勢の利率であった。)
しかし、これに手数料が加えられ、あるいは期限までに
返済できぬ場合の証文の書き換えでの手数料、
1か月分の利息の二重取りなどなど、
札差は様々に儲け口を用意していた。


それだけでなく、札差は元来、収入の保証されている
公務員である旗本・御家人という逃げることのない
安定した借主を抱えている金融業者であり、
これだけで儲かる仕組みを手にしていたといえよう。


札差の中で、現代にもつながる家もある。
江戸からある財閥、住友グループ、で、ある。


札差「泉屋」
愛媛県新居浜別子銅山の開発を手掛けた『泉屋住友』は
1750年(寛永3年)、札差株仲間の権利を手に入れ、
江戸の札差にも進出した、この屋号が「泉屋」。


今、六本木に泉ガーデンというのがある。
これは住友不動産のもの、で、あるが、泉ガーデンの、泉は
住友グループの元の屋号である『泉屋』の泉、で、ある。


江戸期栄えた札差も明治に入り軒並み没落したが
その後も発展したのは「泉屋」のみであったのかもしれない。
(むろん、泉屋は、先の別子銅山の経営をはじめ、
たくさんの事業を持っており、明治以降も事業をさらに
発展させられたのであろう。)


大田南畝の蔵宿はこの「泉屋」で文化人武士と
スポンサーの札差として、付き合いは深かったようである。


当時、江戸名代の大金持ちになっていた、札差。


十八大通
札差の絶頂期は田沼時代である。
俗に「十八大通」と呼ばれる派手な遊びをする
主として札差の主人達がいた。
(『通』とは通人〜つうじん〜の通である。)
その代表的な姿が歌舞伎十八番助六所縁江戸桜」
(すけろくゆかりのえどざくら)の助六であるという。




(これは、明治になってからの、九代目團十郎のもの。)


大口屋暁雨(おおぐちやぎょうう)は「十八大通」を代表する人物
と、いわれているが、助六そっくりの恰好をして吉原を豪遊し、
またその姿を逆に二代目團十郎が真似、舞台に出た。


札差は、入りがわるいときに席を買い切るなど
歌舞伎の大スポンサーでもあった。
(札差には及ばぬが当時日本橋魚河岸小田原町の魚問屋も
[大通]には名を連ねていた。)


こんな、湯水の如く蕩尽する札差達に対して、
借金を膨れ上がらせていた、旗本・御家人
これに対して、田沼時代が終わり、松平定信が登場し、
寛政の改革が始まった。


棄捐令(きえんれい)
利子に利子が付き、なん十年も先の俸禄まで抵当に入り、
それでも生活費を借りるため札差に首根っこを抑えられ
貧窮をしていた旗本・御家人


田沼意次から松平定信に老中が変わった寛政の改革の時代。
それまでの借金をチャラにする、棄捐令が突如発せられた。
これは札差には有無をいわせないものであったが、
彼らは旗本・御家人にたいして新たな借金は受け付けないことで
抵抗をした。


借金が帳消しになっても、それは長期のものだけで、
返さなければならないものは残っていたのである。
新たな借金が受け付けられなければ、
明日にも生活が立ち行かない旗本・御家人ばかりであった。


幕府はなだめたり脅したりする中で、
結局は札差も抵抗しきれず、従来通りに戻っていった。


その後、利率が下げられるなどし、田沼時代ほどの力は
札差にはなくなった。


しかし、旗本・御家人の貧窮、莫大な借金は継続し、
天保の改革、あるいは幕末の文久の頃にも
繰り返し棄捐令に類するものは発布されたが、
札差自体は、幕府瓦解まで営業を続けた。


瓦解後は旗本・御家人もなくなり、
札差達は近代商業人となることなく、
ほとんどが没落していった、と、いわれている。


まあ、そんな札差、で、あった。


札差の全盛期は、田沼時代であったということが
私には印象的である。
(田沼時代の評価はここではやめるが)
やはり、この時代、ある種のバブル期、と、いってよいのかもしれない。


しかし、田沼時代があったから、江戸歌舞伎の発展があり、
また、その後の化政文化の下敷きにもなっていった。


江戸が江戸として成長成熟するベースになった時代と
考えることができよう。


貧窮する武士達、蕩尽する商人。
こういう図式でみれば、あまりよい感じはしないが、
バブルはまた、それまでにない、今、我々が目にしている
江戸文化を生んだ。
そういう評価もまた、田沼時代にはできると思われる。