浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き12月 その6


現代の地図




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江戸の地図


『講座』の12月。
6回目。


柳橋から蔵前、駒形どぜうまで。


元の東京名代の花柳界柳橋から、前回は、
蔵前通り(江戸通り)沿いの、須賀神社、さらに
元の閻魔堂のことなど。


蔵前通り西側を北上。
鳥越川跡を越えて、蔵前橋通りとの交差点に。


この交差点、南西角に、区の史跡案内板がある。
なにかといえば「天文台跡」。


ほんとうの名前は「頒暦所御用屋敷」という。
幕府の施設である。あの、伊能忠敬も務めていた。
その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、
正確な暦を作るために天体観測を行なう必要があり、
その天文台である。




これは北斎の版画「富嶽百景」にある
「鳥越の不二」というものに描かれた天文台
丸いものは、渾天儀(こんてんぎ)という当時の
観測用の器機。


暦というものは、元々は、朝廷の陰陽寮というところで
作られていた。例の安倍晴明もいたところである。
暦を司るということは統治をすることであり、江戸期には、
江戸幕府が自ら作成するようになったのである。


現代に比べると、江戸期でも驚くほど人々は
暦に支配されていた。これは何月何日には、
何をする、何をしてはいけない、という、
ような、行事に関するものである。
農耕に携わるお百姓はもちろん、江戸という都市に住む人々も
寺社のお参りから、風呂に入ってよい日、いけない日
まで、決まっていたのである。(まあ、すべての人が
その通りにしていたわけではなかろうが。)


こういう背景もあり、私設の暦も出回り、
幕府とすれば、管理する必要もあったのである。


さて。


交差点で蔵前通りを隅田川側へ渡り、
蔵前橋まで歩く。


蔵前橋。
むろん、江戸の頃はなく、震災後の架橋。
ここにあった幕府の米蔵から、稲の籾殻を連想させる
黄色に塗装されている、という。また、欄干にここにあった
蔵前国技館にちなんで、力士などのレリーフもある。


蔵前橋、西詰、南側。
ここに、今、なん代目かの“首尾の松”がある。


上の、江戸の地図、をご覧いただきたい。
実際には約百メートル川下にあたる、浅草御蔵の四番堀と
五番堀のあいだの隅田川岸にあった松である。
枝が川面にさしかかるように枝垂れていたという。
由来は諸説あるようだが、吉原帰りの舟に乗った遊客が
このあたりで、首尾を語り合ったから、ともいう。
隅田川のランドマークであった。


さて。
幕府の米蔵の話をしなくてはいけない。


長くなるので、首尾の松にある、
石に皆さん腰かけて説明をする。


蔵前、という地名。
ここに、140年あまり前まで、幕府の米蔵
浅草御蔵があった、それが蔵前という地名の
由来、ではある。


総面積99ha(36,650坪)、北から一番掘から八番掘まで
8本の入掘が並び、54棟270戸前(とまえ)もの蔵が建ち並んでいた。
(○○棟、○○戸前、これが土蔵の数え方、で、ある。
一棟に戸の数がいくつもあり、それが戸前。)


江戸初期には各所に分散して米蔵はあったが、
次第に集約され、享保の頃、本所御蔵ができ、
以後、浅草を主、本所を従として運用された。


浅草御蔵には常時40〜50万石の米が保管され、
これは幕府の旗本、御家人のうち、“蔵米取り”に
与えられるためのものであった。


・旗本5,200名、御家人17,000名


俗に旗本八万騎というが、旗本の家来も入れれば、
八万程度になったいう。


・地方取
領地を持った旗本。石高で表示される。旗本の44%は地方取。
長谷川平蔵400石、東山金四郎500石、勝海舟(父、勝小吉41石) は、
いずれも旗本で、地方取、で、あった。


・蔵米取
俸禄を米で支給される者。俵数で表示される。
蔵米取・太田南畝(蜀山人)70俵5人扶持(=95俵)御家人御徒組


ちなみに。100石の地方取は100俵の蔵米取と同等の実収になる。
また20人扶で100俵になる。


この、地方取の“石”表示と蔵米取の“俵”“扶持”の表記は
わかりずらいが、こういう計算であった。


上の例で、勝海舟の生家は旗本でありながら、
俵数ではわずか41俵で、貧乏御家人大田南畝先生よりも
そうとうな低収入であったということがわかる。


落語、芝居、時代劇で出てくるサンピンは、
三ピンで、三両1人扶のこと。
米ではなく現金で渡される者もおり、
サンピンは、年に金三両と1人扶が支給された
最下級の御家人であった。


また、蔵の米は、同時に、幕府が江戸市中の
米相場を調節しようとするときに放出された。
蔵米取は米問屋に売却し、現金に換えた。
(ここから、札差が生まれている。)


江戸期幕藩体制は武士が米を給料として支給される、
米経済であった。


江戸期を通して江戸幕府の家来である、旗本・御家人
身分の上下を問はず財政が苦しく、貧乏であった。


日本史ではこの、幕藩体制の基本となる米経済が
原因であった、と、説明される。


世の安定とともに商品経済が発展し、
江戸の町には高価な物があふれていく。


江戸の町で暮らす旗本・御家人達はこうした商品を
購入せねば生活はできない。従って金銭が必要である。


旗本・御家人の収入は米の量で決まっており、
米の価格が上がれば手にする金銭も増える。


しかし、他の物価が上がれば米は相対的に安くなる方向に向かう。
すると、実際に彼らの手にする金銭の価値は、減っていくことになる。
このため、旗本・御家人は構造的に貧窮していく方向に
あったのである。


・・・これ、自分でも、そうとうに難しい。


おわかりいただけるだろうか。
経済や金融が専門であれば、もう少し、的を射た
説明ができるのだろうが、、。




こんなところで、今日はおしまい。
明日は、札差のこと。