浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



その2 名演を聞く、志ん生で三席

名演を聞く


生で聞く、場合を書いてきたが、
今、やはり、なかなか、収まりどころがない。
断腸亭として、是非ともおすすめしたい、という落語会は、少ない。
事実、筆者自身も、今は、ほとんど、思い出したように、
寄席をのぞいて見るくらいである。


そこで、テープやCDなどで、聞いてみる場合について書いてみる。
(数は少ないが、VTRやDVDもある。)


当然、過去の録音であるため、故人がその中心になる。


これを語るためには、ちょっと、歴史にも触れなければならない。

ちょっと、歴史


最初に、落語は江戸時代、文化文政期に始まった、と書いた。
まあ、江戸の末の頃、である。


しかし、本当に、落語が全国的な隆盛を迎えたのは、
なんのことはない、戦後、昭和30年代であったのである。


これには、様々な背景があろうが、一番大きいのは、ラジオ、
TVの出現、であろう。


当時、ラジオや、始まったばかりのTVの、今いうところの
コンテンツとして、一般にすぐ聞かせられる、見せられるもの、
と、いうと、東京の落語家、が、最も、手近なものであったのであろう。


そこで、昭和の三名人と、いわれる、志ん生文楽圓生、が
生れた、と、いっても、過言ではなかろう。


昭和38年生れの、筆者の子供の頃でさえ、
今では考えられない数の落語家がTVに出演し、
寄席中継や、落語番組も各局でやっていた。


もちろん、これ以前、明治、大正、昭和(戦前)も落語は続いてきた。
しかし、基本的には、江戸落語は東京だけのものでしかなく、
あくまでも、江戸=東京の庶民の肉声の範囲の、娯楽であった。

おすすめを少し


志ん生文楽圓生、の名前が出たところで、入門編として、
この三人と、おすすめの噺(はなし)を書いてみたい。

古今亭志ん生


ちなみに、この三人、すべて、故人。そして、明治生まれである。


三人の中では、もっとも落語家らしい、といえるような人生を
歩んだ人であろう。
志ん生について書かれた本も、多い。


びんぼう自慢 (ちくま文庫)

びんぼう自慢 (ちくま文庫)


なめくじ艦隊―志ん生半生記 (ちくま文庫)

なめくじ艦隊―志ん生半生記 (ちくま文庫)


志ん生に、ご興味があれば、この2冊あたりが、おすすめ。


志ん生師は、売れるまで、とても、苦労をされた。
それもあって、持ちネタはとても多い。
このため、現在、売られているCD、テープの数も、実に多い。


すべてが、おすすめ、と、いうわけではない。
この人の持ち味が生きている噺、が、よい。
(また、晩年、病気をされているが、その後の録音は、
やはり、おすすめではない。)


三席、上げろといわれると、
「火炎太鼓」、「黄金餅」、「子別れ」。


名演集(1) 


「火炎太鼓」
「火炎太鼓」は、志ん生師、お得意の道具屋の噺。
人のよい古道具屋の親爺が、主役。


商売が下手で、場違いな、大きな太鼓を押し付けられて
仕入れてしまう。
散々、内儀(かみ)さん、に、叱られる。
小僧に、埃を叩かせていると、音が出る。


この音をお駕籠に乗って通りかかった、お殿様が
「見たい」、と、いう。


さて、呼ばれた、道具屋の親爺は・・・。


全編を通して動きの速い、ドタバタギャグアニメを見ているようで
抱腹絶倒、まさに、志ん生師の面目躍如、といった噺である。


息子の志ん朝師の録音もあるが、
「火炎太鼓」といえば、後にも先にも、この人、志ん生、以外ない。


●この噺の、このフレーズが、可笑しい。

「この小僧、馬鹿な目してるでしょ。馬鹿目(ばかめ)って、言って、
おつけの実にするよか、しょうがない。」


古今亭志ん生名演集(2) 


黄金餅
黄金餅」も、志ん生師以後、志ん朝も含め、
いろいろな人がやっているが、やはり、この人以外ない。


舞台は、下谷山崎町のかなりの、貧乏長屋。
http://pws.prserv.net/jpinet.ysaka01/kinjo/kinjochizu.html


実際、あのあたりは、今では想像もつかないが、
界隈でも評判の、地域であったようである。


主人公は金山寺味噌(もろきゅう、に使う甘い味噌)を売る金兵衛。
長屋の隣りに住む、乞食坊主の、西稔(?)が具合が悪い、と、いう。
見舞いに行くと、あんころ餅が食いたい、というので、買ってやる。
食べているところを見せたくない、というので、
金兵衛は、自分の部屋へ帰らされ、気になった、金兵衛は、
節穴から覗く、、、。
と、なんと、あんこだけを全部舐めてしまい、
床下から、大きな胴巻き(腹巻)を取り出すと、
お金が、ザラザラ・・・。
爪に火を点すようにして、貯めていたのであった。
あんこを舐めた、餅に、この金をくるんで、
餅を、のみ込み始めたではないか。
「金に気が残って、死ねねぇんだぁ・・・。」
見る間に、西稔は、餅を喉に詰まらせ、あっけなく、死んでしまう。
金兵衛は、死んじまったのは、しょうがないとして、のみ込んでしまった
お宝(金)、が、どうしても欲しい。
「そうだ、骨上げのときに、さらっちゃおう!」
(骨上げとは、焼き場で、焼いた後、骨を拾うこと。)


あまり、気持ちのよい噺では、ない。
貧乏、と、いうことが、本当にわからないと、
なかなか、理解できない噺かも知れない。


聴かせ所は、西稔を棺桶(貧乏で棺桶などないので、本当は
菜漬け(漬物)の樽)に入れ、担いで、麻布の寺まで、
長屋のみんなで歩いて行く。
この下谷山崎町から、麻布までの道々、町名を、言い立てる。



(「寿限無」のように、長い言葉を、
延々と暗誦することを、落語では、言い立て、と、いう。
黄金餅のこの部分もそうした言い立ての一つ。
他には、「大工調べ」の啖呵(たんか)、「錦明竹」の口上などなども、
言い立て、と、いえよう。
個人的には、覚えて喋る場合、多少の快感があるので、
好きだったりする。)


もう一つ、寺での、和尚の、滅茶苦茶な念仏も、ちと、言葉が古いが、
理解できれば、可笑しい。


●この噺の、このフレーズが、可笑しい。
「じゃ、みんな、新橋へ行ったら、夜明かしがやってるから、そこで、
なんでも好きなもの食って、呑んで、てめえで勘定払って、帰んな!」


名演集(15)


「子別れ」
「子別れ」は、正確には、落語ではなく、人情噺、という。
これは、落語が、落し噺、滑稽な噺であるのに対して、
この「子別れ」のように涙を誘う、しみじみとした噺を、
落語とは分けて、人情噺、というのである。
(芝居・歌舞伎でいう、世話物(せわもの)、にあたるといえようか。
他には、有名どころでは「芝浜」「文七元結」「紺屋高尾」など。)


この噺も、有名な噺であり、真打であれば、出来なければならない噺であろう。
噺自体がよくできており、志ん生でなくとも、成立する。


人情噺でもあり、長い。通すと、30分くらいにはなろう。
上、中、下に分けて、やる場合もあった。
上が「強飯(こわめし)の女郎買い」、下を「子は鎹(かすがい)」と、いう場合もある。


大工の熊五郎、隠居の弔(とむら)いで、山谷(浅草の北)へ行く。
帰り、紙くずやの友達と、会い、酔った勢いで、吉原へ繰り込む。
(ここまでが、上)。
登楼(あが)った店で、昔、品川で馴染みだった
女に会い、そのまま、数日、流連(いつづけ)。
家へ帰ってくると、内儀さんと、喧嘩。そして、離縁。
(ここまでが、中)
その後、熊五郎は、吉原の女を、引っ張り込むが
長くは続かず、これも別れ、目が醒める。
真面目に仕事に励むようになる。そんなある日、子供に道端で、再会。
元の鞘へ収まる、と、いう話である。


細かいところであるが、志ん生のすごいところは、
その、子供と再会するシーンの演出である。


ここは、泣かせどころでもある。


親爺がいない、と、いうことで、いじめられることもある、
なんという話を、子供に聞かされ、ホロリとする、のであるが、
志ん生は、この場面に、ギャラリーを登場させる。


八百屋である。八百屋がこの話を、脇で聞いているのである。
ホロリとした熊五郎は、もらい泣きしている八百屋に
「八百屋、なに聞いてんだ、あっち行け」
と、いう。これは、笑い、に、なるわけである。


ホロリとさせ、直後に、笑いを持ってくる。
他の人は、こういう演出をしない。
ホロリとさせるだけである。
人情噺であれば、これだけでよいのかも知れぬが、
ただ泣かすだけでは、いかにもクサイ。
このセンスである。並大抵のものではない。


●この噺の、このフレーズが、可笑しい。
先の八百屋の場面もよいが、もう1箇所。


「上」で、紙くずやの友達と、吉原へ行くわけであるが、
吉原では紙くずや、と、言わないと、約束する。
「こいつは、紙屋の旦那」と、紹介する。
「おや、こいつ、紙屋の旦那っていわれて、喜んでら」
続けて、
「紙は紙でも、ちょっと違う紙を扱っている。紙は紙でも
主に、くず、の、方を扱ってる。〆て、紙くずや、だ。」
さらに、
「なにを〜。紙くずやで、なにが悪い。いいじゃねえか。
紙くずや、たってな、昨日今日できぼしの、紙くずやじゃねえんだ。
こいつはなぁ、先祖代々の、紙くずやだ」
まことにもって、落語らしい、志ん生らしい、表現である。


かなり長くなってしまった。
今日のへんで。


次回は、文楽圓生を。