浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



断腸亭落語案内 その44 桂文楽 つるつる

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引き続き、文楽師「つるつる」。

いかがであったろうか。

ドラマは、他愛のない幇間のお喋りでつなげられている噺。
多少端折ったが、ほぼ全編書き出すことになってしまった。

この作品は「口演速記明治大正落語集成」(講談社)(以下「集成」)に
「思案の外幇間の当込み」という名前で入っている。
一応のところ、これに入っているのが文字になっているものの最古のもの
ということであろう。明治22年(1889年)、口演者は三代目三遊亭円遊である。

三代目円遊という人は、前にも触れている。

円朝の直弟子で、ステテコ踊りで一世を風靡した人気者。
鼻が大きく、鼻の円遊という異名があった。
真面目な円朝からすれば、亜流?、戦後の歌笑、三平など爆笑系と
いうのか。だが「集成」にはかなりの数の円遊の口演速記が
入っている。噺の実力もあったはず。

この噺は骨組みは一緒だが、かなり短い滑稽噺という趣。
(綱でつるつるつるつると降りるのは既にある。)

「集成」の解説(興津要氏)によれば文化年間に原形はあったという。
文化年間といえば、ほぼ江戸落語が生まれた頃である。

また、ここでは文楽師(8代目)がこの形にした、と書かれているが、
根拠は示されていない。文楽師が語ったことなのか。
円遊(3代目)の時代から文楽師(8代目)までは2世代はあろう。
間に誰か入っているかもしれぬが。

ともあれ。

この噺、お気付きの通り、幇間一八の純情恋物語である。
だが、ハピーエンドではなく、間抜けな幇間、一八で、
終わっている。
一八の純情は報われない。

そう。
文楽師の「つるつる」は一八の純情悲恋なのである。
まるで、寅さんのような。

三代目円遊の頃はまだ、幇間は純には描かれていない。
同じ家に住んでいて、噂にもなるし、どうだい、一緒にならないか、
といった軽いもの。それで結末は同じ、昼間の二時につるつると
降りる。

文楽師なのかどうかはわからないが、後に一八の純情悲恋に
演出がふくらんでいったのであろう。

文楽師、この長い幇間の噺をお得意の早口で、一分の隙もなく
完璧に演じている。幇間を得意にした文楽師の集大成といっても
よいような噺ではなかろうか。
隠れた師の代表作だと思う。

が、しかし、で、ある。

文楽師として「つるつる」を書いてきた。
(知られていないと思うが、志ん生師の音も残っており、演出もほぼ同じ。
内容は志ん生師もわるくはない。)

この噺、実は、談志家元なのである。

文楽師以降、談志師以外に演る人もなく、あまり目も行かない噺だと思う。
談志師はこの噺がおそらく好きで、よく演っていた。それも演出を変えている
のである。私も「ひとり会」で聞いている。

談志師は「よく聴くと、いや、よく読むと、欠陥があまりにも多い。
そう感じさせなかった文楽の芸」(「立川談志遺言大全集」講談社)と
書いている。文楽師は欠陥がある噺を完璧なまでの話芸で、押し切って
いたと。

では談志師はどう変えているのか。

いくつかあるのだが、なんといっても、結末。

ハッピーエンドを暗示させて終わっているのである。
やはり、寅さんは、ハッピーエンドにさせてやりたいではないか。

説明をすると、談志師が書かれている欠陥といえるのか、綱を
つたって、つるつると、午後の2時に階下で食事をしているところに
降りてくるという最後のシーン。

これは、いくらなんでもヘンであろう。一応、目隠しをしている
という前提はある、この目隠しがそもそも不自然であるし、周りは明るい
のである。降りる前に気が付くのではなかろうか。

談志師のものは、目隠しはなし。午後二時のチンチーンで、起きて
明るいのでむろん気が付く。泣く。聞けばお梅ちゃんは既に
出かけたと、、、。

欠陥を正すのであれば、ここで終わってもよいのだが、続く。

ぐずぐず泣いていると、昨日の旦那が、どうした?といって、様子を
聞きにくる。また、一八は泣く。それはそうであろう。
泣いても泣き切れない。

この旦那、いい人なのである。「わかった。この結末には、俺も責任を
感じないわけにはいかない。今夜、昨日の芸者達と小梅も呼ぼう。で、
俺も小梅に謝ってやる。な、お前も謝る。小梅は許してくれるよ。
な。許してくれなけりゃ、それだけの女だよ。あいつは必ず許して
くれる。そういう奴だよ。」と。(この後下げになるのだが、ここには
書かない。知りたい方は、全集を買おう。)

他にも旦那をいい人に描く部分などあるのだが、ほぼここに尽きるか。
この結末のための伏線。

一八純情恋物語はこれで完結。
旦那(大将)もいい人。
「つるつる」では既になくなっているが、かなりいい。
流石、家元!。パチ、パチ、パチ(拍手!)。

だが、これ、家元亡き後、ほとんど演られていないのではなかろうか。
立川流、師匠各位。(志らく師かな。)
是非ご一考を。
家元の残した貴重な遺産である。

さて。
冷静に考えてみよう。

文楽師の「つるつる」。

まず、時代設定が気になるのである。
吉原から柳橋の移動が自動車。前に書いているが東京市均一料金の
円タクは大正15年(1926年)。鳴尾の競馬に東京駅から出ている。
東海道線の始発駅が東京駅に代わるのは大正3年(1914年)。
それ以前は、ご存知の新橋。ちなみに談志家元は新橋で演っている。
それで、文楽版は明治ではなく大正、あるいは、昭和一桁といっても
よいかもしれぬ。
それでこの噺で描かれているのは、その頃のお座敷風景と言って
よいのではなかろうか。
文楽師は戦前から売れており、お座敷にも呼ばれていたというので
戦前のお座敷遊びが肌感覚にあったといってよいかもしれぬ。

文楽師の「つるつる」は当時の柳橋あたりの花柳界遊びの風景史料
として貴重といってよいのではなかろうか。

談志家元は、新橋ステーションにしており、料亭の旦那が
自由民権運動(らしい)の演説会に出ているというような話を入れて
いたりし、意図的に明治にしているといってよいように思う。

 

つづく