浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その24

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令和になりました。
来る時代の皆様のご多幸をお祈り申し上げます。
また、相変わりませず、宜しくお願いいたします。
断腸亭

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文七元結」やはり素直によい噺であると思う。
名作といってよい。書いているように、私も好きな噺である。
円朝作の中で、現代において、黄金餅と並んで最も多く
演じられている噺ではなかろうか。

人情噺。なかでもこの噺は本来、暮れ、12月に演じられるものである。

談志家元が元気な頃は、12月になると、国立の「ひとり会」なのか、
「中央会館」なのか、、と、どのの高座で「文七元結」、あるいは
「芝浜」を演るのか、家元を追いかけていた私はたのしみであった。

文七元結」は明治22年(1889年)「やまと新聞」に掲載された。
この噺自体は、円朝以前からあったものに円朝が手を入れたといい、
それが新聞に載ったもののようである。従って、それ以前から高座で
自身も演じていたといってよいのだろう。
この明治22年円朝54歳。この2年後に、前に書いたように東京の
寄席に出演なくなっており、須田先生は「完成度を上げることは
できなかった」といい、直弟子の四代目円生、一朝が継承し
「人情噺の大物中の大物といわれるようにした」と書かれている。

須田先生は「文七元結」の演者では、故人ももはや多いが現代の
落語家では、円生(6代目)、小三治師、志ん朝師を挙げている。

私は、書いている通り、立川談志家元から落語に入っている
(そして素人ながら落語を習ったのは志らく師であった)ので、
もちろん家元のもの、そして家元は志ん生師のものから受け
継いでいるといってよいと思うので、この二人のもの以外の
文七元結」は実のところあまり聞いたことはなかった。

今回、これを機会に円生師(6代目)のものを聞き直して
みたのだが、個人的な感想をいえば、志ん生師のものに軍配を
上げる。

この世代では「文七元結」については、円生師よりも志ん生師の
評判の方が高かったのではなかろうか。(定かではないが。
この世代以前は、誰かのものが“よい”と評判になれば他の
落語家は演らなくなる、という不文律があった。)

この噺、キレが大事だと、思うのである。
その点、志ん生師の人(ニン)に合っている。

談志家元は、前に書いたように、本人がこの噺そのものに疑問を
持っていたので「芝浜」ほどには磨くことはなく、志ん生師+α
といったところであろうか。もちろん、よかったが。

私自身もそうだが、自分の信頼する、評価する人以外からこんな
大切な噺はとても聞く気にならないというものである。

さて。
文七元結」の作品論である。

「牡丹灯籠」やら「累ヶ淵」と比べれば短いし、構造も単純である。

ようは娘が吉原に身を沈めた金を、見ず知らずの身投げをしようと
している若者にくれてやることをどう評価するのか、に尽きるだろう。

須田先生は「江戸っ子・長兵衛」と表現している。

この部分だけでなく先に須田先生の「文七元結」論すべてを
紹介してしまおう。

円朝は、長兵衛・お久・角海老(佐野槌、速記は角海老)の女将・
文七など登場人物を「江戸っ子として描き切った。そこにあるのは、
幕末の暴力の記憶や、文明開化の教条などではなく、江戸の意気
(粋、ママ)と人情である。」また「円朝が到達した芸の至高は
説教くさく元勲らが好んだ『塩原太助一代記』ではなく江戸の意気
(粋、ママ)と人情を泣き笑いの中に封じ込めた」のが「文七元結
であると、いっている。

「塩原多助」が寄席の客にそっぽを向かれるようになり、円遊の
珍芸ステテコ踊りがブレイクし、これに対して「彼の客である
独り者の職人「熊さん・八っぁん」たち江戸庶民を誠実・義理・
人情・意気(粋、ママ)として描いた「文七元結」」に行き着いた、
と須田先生は語っている。

 (煩雑だが「意気」と「粋」を須田先生は使い分けておられるのか
 どうか判然としない。ここではイコールとして書かれている。
 私個人としては「意気」は一般に今、使われておらず、「江戸っ子」
 同様手垢にまみれているが「意気」ではなく、すべて「粋」を
 使うことにしている。)

さらに「客が円朝の芸を作っていった」。「寄席は(中略)まさに
国家・芸人・客≒民衆の衝突の空間であった」と。

「塩原多助」により元勲の評価(明治天皇前での口演)(これは
噺家の地位向上という意味では大きな成功であったが。)→寄席の
客との乖離、東京の寄席、あるいは一門の弟子達からも反旗が
あがる、という状況。
これに対して、江戸っ子の粋を描いた「文七元結」という噺がある、
という須田先生の位置付け、解釈である。

さて。
私自身の考察は最後にするのだが「文七元結」とともに円朝の晩年と
いってよいこの頃を考えるには、もう一つだけセットで考える必要がある
作品がある。

明治24年円朝は東京の寄席に出演(られ)なくなったが、実は、
創作意欲は衰えていなかったのである。

明治28年(1895年)、57歳、「名人長二」を発表している。
これは寄席に出演ていないからか口演速記ではなく、円朝自らの筆記による
もので「中央新聞」での新聞連載である。

「名人長二」は志ん生師の音もあるし、今も雲助師、喬太郎師なども演じ、
また豊原功補氏(「明後日」)によって2017年舞台化されているよう。
ちょっとだけ「名人長二」にも触れてみたい。

「名人長二」は志ん生師はあるのだが、円生師(6代目)の音は
残っていないのか「円生百席」にも入っていない。演っていなかった
のであろうか。三遊の本家である円生師(6代目)ではなく志ん生師で
あるのはちょっとおもしろい。

「名人長二」はモーパッサンの短編「親殺し」というものの翻案と
いわれている。残念ながらこの原作の翻訳は短編集などにも入っていない
とのことで読むことはむずかしいよう。

ただ主人公である指物師の長二は円朝と同時代、奇人として知られた
実在の職人で円朝自身と親交もあったよう。(「新版三遊亭円朝」永井
啓夫)「親殺し」と実在の職人をないまぜにして、作られたという理解が
されている。

志ん生師の通しの音があるので改めて聞いてみた。
そこそこ長い噺である。通すと2時間と少しで5回に切られている。
ただ、かなり端折っているので、実際はもう少し長くなると思われる。

そして、志ん生師の音はご多聞にもれず、筋を追うのがやっと
という出来がわるい部分もある。雲助師は通しで演られているよう。
喬太郎師の音もあるが、これは「仏壇叩き」という頭の部分。

噺は江戸、文政の頃の設定。後半部分、いわゆる政談ものといって
よいようなお裁き、推理小説のようなトリックがあって、ちょっと
強引のようでもあるが、そこそこおもしろくできている。ここの部分
モーパッサンの筋か、確かめられず不明。ただ、翻案ものという
ことで作品の価値が劣るかといえば、まったく別のこと。円朝の原文も
読んだが、ここまでみてきた円朝のディテール描写の腕は晩年だが
まったく鈍っていない。これが円朝の真価であろう。

 

 

つづく

 

 


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須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より